Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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「3・16」の大儀式を偲びつつ 我は師弟の誓いを果たせり

1998.3.8 随筆 新・人間革命1 (池田大作全集第129巻)

前後
1  われは、師弟の誓いを果たしたり。
 われは、同志の誓いを果たしたり。
 われは、わが信念の目的を果たしたり。
 富士の裾野に集いし、あの日から、新しき広宣流布の回転は始まった。
 この日は寒かった。
 秀麗なる富士が、堂々と見守っていた。
 「3・16」の儀式は、晴れ晴れとしていた。
 戸田先生が、若き青年部に、確かに、広宣流布をバトンタッチすると宣言なされた。
 若き弟子たちの心は燃えた。使命は炎と燃え上がった。
 1958年(昭和33年)のあの日、余命幾ばくもなき、我らの師・戸田城聖先生のもとに、六千名の若き弟子が集まった。
 皆、生き生きと、この日を祝った。
 日本中から集った、若き広宣の健児が、握手をしたり、肩を叩いたり、談笑している姿は、未来の勝利を勝ち取った喜びの姿に見えた。
 あの日から、四十周年の不滅の歴史が流れた。
2  この年の三月、一ヶ月間にわたり、先生のご生涯の総仕上げともいうべき、数々の行事が続いていた。
 二月末、先生ご到着。お体の具合は甚だ悪い。何度も医師を呼ばねばならぬ状況であった。しかし、病篤き広布の師の声は、厳然として鋭かった。
 「大作、絶対に、私の側から離れるな。いいか、四六時中、離れるな」
 思えば、先生は常に「私のいる所が本部だ」と言われていた。
 早朝から深夜まで、師は私を呼ばれた。時には、午前三時ということもあった。急ぎ駆け付けると、先生は「大作は、はやぶさのようだな」と一言。先生をお守りするため、そのまま一日、寝ずに駆け回ったこともあった。
 前年十一月に倒れられた時も、「大作はいるか! 大作はいるか!」と、私を呼ばれ続けた先生。
 恩師は、その病を乗り越えられ、三ヶ月後の二月十一日、五十八歳のお誕生日には、快気祝いをされた。医師も驚くほどの、奇跡的な回復ぶりであった。妙法の大功力を実証されたのである。
 しかし、先生の命は、燃え尽きんとしていた。死の方向へと進んでいた。それを知るは、先生ご自身と、真正の弟子である私だけであった。
3  三月一日、先生は、私に言われた。
 「大作、あとはお前だ。頼むぞ!」
 それから間もなく、こう提案された。
 「三月十六日に、広宣流布の模擬試験、予行演習ともいうべき式典をしておこう!」
 先生は、再起は不能であり、自らが、再び広宣流布の陣頭指揮をとることはできないと、悟られていた。
 御聖訓に「命限り有り惜む可からず遂に願う可きは仏国也」と、仰せである。「3・16」は、その御遺命のままに生き抜かれた先生の、不借の精神を永遠にとどめ、受け継ぐ儀式であった。また、先生から私へ、広宣流布の印綬が渡される二人の式典であり、師弟の不二の儀式であった。
 私は、その深い意義を噛み締めつつ、いっさいの責任を担い、全力で大儀式の準備にあたった。
 先生のお体は、日ごとに衰弱されていったが、「3・16」を迎えるまでは、私に、青年に、後事を完璧に託すまではと、必死に死魔と闘われた。
 私は、常にお側に随い、師にお仕えした。先生は、幾度となく、私を呼ばれては、重要な広布の未来図を語ってくださった。
 先生の一言一言は、すべて、私への遺言となった。全部が、後継の大儀式の″序分″となった。

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