Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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世界広布の第一陣 一人の友から平和の大河に

1998.1.25 随筆 新・人間革命1 (池田大作全集第129巻)

前後
1  小説『新・人間革命』の第一巻が、八日に発売されてから、たくさんの反響が寄せられている。
 ありがたくもあり、恥ずかしくもあり。
 読者の皆様に深く感謝しつつ、力の限り書き続けようと決意する。
 この第一巻では、一九六〇年(昭和三十五年)十月の、初の、海外訪問の足跡をつづった。
 今でこそ、海外渡航する日本人は年間千六百万人を超えるが、当時は、規制も厳しく、微々たるものであった。
 法務省の調査では、この年の海外渡航者は、アメリカの統治下にあった沖縄への渡航を除き、わずか七万六千二百十四人と記録されている。
 そんな時代だけに、渡航手続きの関係者も、創価学会が何をしに行くのか、不可解に思われたようだ。
2  あの十月二日の朝、山本伸一は、大田区の小さな自宅からタクシーで羽田空港へ向かった。
 出発の直前には、私は、「世界広布の第一陣として、行ってまいります」と、元気よく見送りの人びとにあいさつした。
 地涌の友が、二陣、三陣と後に続いてくれることを願ってのことであった。
 当時の聖教新聞(十月五日付)の一面には、「世界広布の第一陣」の見出しが踊る。「世界広布」という言葉が大きく紙面を飾ったのは、これが初めてである。
 それまでも「世界広布」という言葉を訴えてはきたが、編集部では、大見出しにすることにためらいがあったようだ。このころはまだ、それほど″世界″の実感が乏しかったのである。
 「一日も早く、大海を渡り、大空を飛び、海外の広布に、征きたくなる衝動に、かられる時あり」
 伸一、二十九歳の日記である。
 恩師の「世界へ征け!」との叫びを、わが魂の地中深くに秘して、待ち続けた世界への飛翔の時を待ち続けた。
 あの旅立ちの日、伸一の胸のポケットには、恩師の写真。不二の師弟の心で開く、平和旅であった。
3  何から何まで、初めての経験。ハプニングも多々あった。
 日本からの同行メンバーは、皆、英語が苦手だった。
 たとえば、交換台を通して、電話をかけるさいには、「(……番を)お願いします」にあたる、「クッジュー ギブ ミー」(Could you give me)もわからず、苦心惨憺した。
 それをやっと覚えた、同行の柏原ヤスさん(当時・婦人部長)は、大喜びして言った。
 「通じました、通じましたよ。かける番号の前に、日本語で″九十九里″って言えばいいんです」
 食費も、節約に節約を重ねて、少しでも、お金を現地のメンバーのために役立てようと努めた。
 どこへ行っても、安価で栄養のある中華料理の店を探してくれたのが、秋谷会長(当時・青年部長)であった。その鋭い探索能力に感嘆したものだ。
 今では、すべてが、楽しき黄金の思い出である。
 二十四日間で、三カ国九都市の訪問。その行程を、直線距離にすれば、四万数千キロメートル――地球を一周余りも回ったことになろうか。
 一人でも同志ともがいるならば、万里の彼方であろうと、草の根を分けても訪ねあて、励ましたかった。
 一つの泉から川が生まれるように、その一人から世界平和の大河がつくられると、伸一は確信していた。

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