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第36回「SGIの日」記念提言 「轟け! 創造的生命の凱歌」

2011.1.26 「SGIの日」記念提言(池田大作全集未収録分)

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1  広がる「無縁社会」
 さて昨年は、高齢社会を迎えている現代の日本を象徴するようなショッキングな“事件”が、世の中を震撼させました。いわゆる「消えた高齢者」=注1=といわれるもので、東京・足立区の111歳の男性の事例を皮切りに、調査を進めていくと、本来祝福されるはずの数多くの100歳以上の人々が、行方不明になっている事実が次々に判明。
 公的記録上は生存しているにもかかわらず、生死や所在地が分からないといった状況は、それらの人々の年金を遺族が長年にわたって不正受給していた事例もあり、長寿社会・日本の思わぬ落とし穴として、人々に衝撃を与えました。
 人間関係の砂漠化というか液状化というか、「無縁社会」などと評されるように、ともかく凍り付くような、寒々とした心象風景であります。仏教の“縁起論”が教えているように、なべて人間同士のあるいは人間と環境とのいわば“結縁”から成り立っている我々の日常生活の仕組みの脆弱さを痛感させる、文字通りの“事件”でした。家族や地域とのつながりが薄くなり、社会での孤立感が深まる中で、先行きを悲観視する若い世代や中高年も決して少なくありません。
 「無縁」とは「コミュニケーション不全」ということでもあります。「無縁社会」とは、コミュニケーションの最強、最良の武器であった言葉が、十全にはたらかず、機能不全に陥った社会にほかなりません。その背景には、厳しい経済状況や核家族化など多くの問題が潜んでいますが、そこに、情報化社会の急速な進展があることは否定できない。いわゆる情報化の負の側面──情報量の増大とは裏腹の言葉の空洞化、本来の重みや深みを失い浮遊する符丁のような軽量化、そこから必然的にもたらされる、人間を人間たらしむる対話力の衰退であります。
 哲学者のアルベール・ジャカールは、情報科学の意義を過不足なく評価した上で、情報科学がもたらすのは「急速冷凍したコミュニケーションでしかありません。沈黙と言葉からなる真の対話においては、創造性のある驚きが自然に生まれます。しかし、情報科学によってそれを引き起こすことは不可能」(吉沢弘之訳『世界を知るためのささやかな哲学』徳間書店)と。「急速冷凍」とは、言い得て妙であります。
 もちろん、情報科学の発達が一面で、人間同士の新しいつながりの輪を広げる可能性を持っていることは事実です。
 しかし、その情報科学を介したつながりが“匿名性”“非人称性”を特徴とするものと化せば、そこには“顔”がなくなってしまう。無機質かつニュートラルで、顔と顔、魂と魂との触発作業からのみ生まれる新鮮な驚き、肉感を伴う手応えや充足感とは縁遠い世界であります。
2  こうした時流にあって、特筆しておきたいことは、私どもSGIが世界的に展開している仏法対話、特に座談会運動の有する精神史における意義付けです。
 私どもが日々、何千カ所、何万カ所、否、何十万カ所で行っている“顔”を突き合わせての、双方向の語らい──それは、まさしく「沈黙と言葉からなる真の対話」であります。
 言葉が相手の心に届いた時の喜び、充足感。届かなかった時の戸惑い、もどかしさ、そして沈黙。沈黙の中で、懸命に新たな言葉を探す忍耐と苦闘。探し当てた言葉がようやく相手に届いた時のさらなる充足感──こうした倦むことなき対話の織りなすグラデーション(徐々に変化すること)こそ、心を鍛え魂を磨きあげていく「溶鉱炉」なのであります。「急速冷凍」とは対極に位置する醸成、錬成の場なのであります。
 そうした「言葉の海」「対話の海」の中でのみ、人間は人間に成ることができる。逆に言えば、ソクラテスが「言論嫌い」(ミソロゴス)は「人間嫌い」(ミサントローポス)に通ずるとしたように、そこを避けていては、真の人間へと成熟していくことはできない。だからこそジョン・デューイ協会のラリー・ヒックマン元会長は、私とのてい談で、人々が集い語るSGIの拠点を「地域社会の絆を深める施設」であり、成熟した市民でデューイが言うところの「公衆」を生みだす母体と位置付けておられるのであります(「人間教育への新しき潮流」、『灯台』2010年11月号所収)。
 地道で目立たなくても、否それ故に、私どもの対話運動は、そうした空洞化した言葉を蘇らせる文明史的意義を孕んでいることを誇りとしていきたい。
 言葉の軽量化をどう乗り越えるか
 言葉の空洞化、軽量化といえば、昨年“ハーバード白熱教室”なるものが、話題を呼びました。
 いうまでもなく、ハーバード大学といえば、アメリカ最高峰の学府の一つですが、そこでマイケル・サンデル教授の政治哲学の講義が人気を集め、史上最多の聴講者を記録し続けているという。講義といっても一方的なものではなく、身近な話題を取り上げ、教授が音頭をとって学生たちの意見を募りながら、つまり双方向の言葉のやりとりを通して、問題の正否を吟味していく──。まさにソクラテス的対話を彷彿させるもので、日本でも評判になり、テレビや紙誌が何回となく取り上げ、サンデル教授も来日して、日本版「白熱教室」なども試みられた。また著書(『これからの「正義」の話をしよう』)は、この種の本としては、異例のベストセラーを続けているという。
 こうした話題に接するにつけ、私は感慨を新たにします。
 というのも昨年の提言でも、ユゴーの『レ・ミゼラブル』の冒頭、ミリエル司教と老ジャコビニスト(過激な革命主義者)が、正反対の立場から「正義」を巡って火の出るような論争をしているシーンに触れました。それを通して私は、古来“正義とは何か”ということが難問中の難問であることを訴えました。
 すなわち、こうした難問は安易に、軽々に取り扱ってはならず、もしその点をなおざりにすると、正義と正義がぶつかり合い、至る所でハレーションを起こして正義という言葉の空洞化、軽量化、インフレ現象を招き寄せてしまう。20世紀が戦争と革命による殺戮の時代であった大きな要因は、この正義のインフレ現象にあったのではないか。「白熱教室」のような試みがブームを呼ぶ背景には、そうしたことへの自省、自戒が、強くはたらいているといえないでしょうか。
3  何のため生きるか
 ここで、若き日に愛読したアンリ・ベルクソンの哲学を援用しながら、我々の標榜している人間主義というものの輪郭を、もう一歩明らかにしてみたい。
 けだしベルクソンほど言葉のインフレ現象、軽さ、換言すれば言語の虚構性を鋭く抉り、哲学者のウラジミール・ジャンケレヴィッチが名著『アンリ・ベルクソン』(阿部一智・桑田禮彰訳、新評論)で「頭で歩いていた哲学を本来の姿にもどした」と的確に評したように、ロゴス(言葉や論理)中心主義を主流にしてきた西洋哲学の偏向に、先駆的かつ包括的な警鐘を鳴らしていた人も稀でしょう。そして、そのスタンスをもたらしたのは、ベルクソン哲学では「人間のための哲学」という軸足が決してぶれることはなかったためであると、私は信じております。
 ベルクソンといえば、悩み多き19歳の夏、友人から恩師(戸田城聖第2代会長)との運命的な出会いとなる会合に誘われた際、生命の哲学に関するものだと聞き、とっさに「ベルクソンですか」と問うたのも、懐かしい思い出です。
 ベルクソンは、まず哲学する上で手放してはならない言葉として、生物学の「生きることが第一」(河野与一訳『思想と動くもの』岩波書店)をあげ、自らの哲学のモチベーション(動機づけ)をこう語っています。「私たち人間はどこからやってきたのでしょうか。私たち人間とは何なのでしょうか。私たち人間はどこへゆくのでしょうか。これらの問題こそまさに根本的な問題であります。もし、私たちがもろもろの哲学体系にたよらないで哲学をするならば、たちどころにこれらの問題に直面するはずであります」(池辺義教訳「意識と生命」、『ベルクソン』中央公論社所収)と。
 このモチベーションは、人間が善く生きようとする限り、誰もが、いつかは、どこかで直面せざるを得ない万人が共有する原初の問いかけであります。ところが「もろもろの哲学体系」は、枝葉末節にこだわるあまり、ややもすると根幹であるこの原初の問いかけを忘失しがちである。まさに仏教で説く“毒矢の譬え”=注2=の戒めと瓜二つであります。つまり、ベルクソンにあっては、“何のための哲学か”という人間主義のスタンスは、決してぶれることはなかった。このことは、科学や宗教の場合も同断であります。

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