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第35回「SGIの日」記念提言 「新たなる価値創造の時代へ」 

2010.1.26 「SGIの日」記念提言(池田大作全集未収録分)

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1  理想を堅持し、漸進主義で進む
 創価学会の創立80周年、SGIの発足35周年を記念して、私の所感の一端を述べる前に、まず、このたびハイチを襲った大地震によって亡くなられた方々のご冥福を心からお祈り申し上げます。
 また、ご家族や友人を亡くされた皆さま方、被災された方々に、SGIを代表して、お見舞いを申し上げます。
 甚大な被害に胸が痛むばかりであり、国際社会全体で総力をあげて救援活動を進め、一日も早い復興がなされゆくことを、深くお祈りするものです。
2  難事業には信念と粘り強さが不可欠
 さて1年前、世界中が注視するなか、若々しくまた力強く登場したオバマ政権は、アメリカ史上初のアフリカ系大統領の誕生という劇的要素もあって、旗印とした"チェンジ"(変革)に、世界中から期待が集まりました。
 折しも一昨年のリーマン・ショック以来の世界同時不況が、グローバル社会を席巻しており、淵源の地であるアメリカから何らかの変革へのメッセージが発せられるのではないか、との思いが寄せられていました。オバマ大統領が就任の翌月に成立させた「アメリカ再生・再投資法」は、エネルギー対策などを軸に新しい雇用の創出を目指すものとして注目を集めましたが、危機の根は深く、本格的な回復には、まだまだ時間がかかるようです。
 グローバル経済全体を見ても、各国の政策対応もあって、金融危機は一応小康状態を取り戻したように見えるものの、その分、財政赤字は拡大し、雇用情勢の悪化に歯止めがかかったとは到底いえない。80年前の大恐慌の際、混乱を繰り返した景気の”ニ番底”を憂慮する声も見え隠れしております。
 とはいえ、オバマ大統領の登場が、近代科学技術文明の悪魔的所産ともいうべき核兵器をめぐる状況に、大きな一石を投じたことは明らかです。
 特に、唯一の核使用国としての道義的責任に言及し、「核兵器のない世界」を目指すとした、昨年4月のプラハでの演説は、手詰まり状態にあった核軍縮への動きに、画期的な希望の光を投げかけたといってよい。
 師の戸田城聖第2代会長の志を継いで、折々に核廃絶への提言を行い、また政治指導者、識者との対談でも強く訴え続けてきた私も、そうした流れの定着、加速を願い、昨年の9月8曰、師の「原水爆禁止宣言」の曰に合わせて、「核兵器廃絶へ民衆の大通帯を」と題する記念提言を発表しました。
 もとより、”黙示録的兵器”とも呼ばれ、人類史の業ともいうべき核兵器の削減、廃絶といった難事業が、一朝一夕に進むはずがない。
 むしろオバマ氏がノーベル賞の受賞演説で述べたように、「ガンジーやキングのような人が実践した非暴力は、あらゆる環境で現実的あるいは可能であるというわけではなかったと思います。しかし、彼らが説いた愛、人類が進歩するということへの確信は、つねの我々の道を指し示す北極星であり続けるでしょう」(『オバマ演説集』三浦俊章編訳、岩波書店)との、柔軟かつ粘り強い取り組みこそ肝要なのではないでしょうか。
 まさしくガンジーの言のごとく、「よいものはカタツムリのように進む」(『真の独立への道』田中敏雄訳、岩波書店)からであります。
 オバマ大統領がさまざま取り組もうとしている挑戦については、個別の政策決定を短いスパン(期間)で捉え、短絡的に期待値を失望に転ずることは避けたい。理想を堅持しながら、一つ一つ現実の課題を乗り越えようとする努力を国際社会で支え広げていくべきだと思います。
 それとはやや異なる次元から、今回私がスポットを当ててみたいのは、現代文面が行き着いた一つの位相、現代人が否応なく直面せざりをえないデクリネーション(衰勢)の時運ー大まかに言ってペシミズム(悲観主義)さらにはニヒリズム(虚無主義)と総称される時代精神の有り様に関してなのであります。
 ニヒリズムというと、いわゆる”神の死”=注1=を契機にしたヨーロッパ的思潮に思われがちですが、東洋にも、ニヒリズムの系譜は数多くあります。しかし、そこまで話を広げる必要はなく、ここでは、グローバリズムの矛盾が露わになった荒涼たる風景の中、気のように立ちのぼっている文明の病理の謂なのであります。
 日本においても、そのような傾向は、顕著に見られるのではないでしょうか。
 ともかく、暗いくシミスティックな話が多すぎます。単に日本経済が、かつてのような”右肩上がり”の成長は望めないであろう、といった悲観的な観測にとどまらず、その底流には、そこはかとないデクリネーション(衰勢)の感触、前世紀の大恐慌の際の社会主義というオプション(選択肢)さえ持たないペシミスティック、ニヒリスティックな心象風景があります。
 それは、バブル時代の浮かれた風潮、喧嘩とは一見正反対に見えます。しかしそれは、その実、コインの表と裏のように、両者は一体である。時流に任せて、どちらかが顔をのぞかせているにすぎない。
 フランスの気鋭の論客エマニエル・トッド氏は、金融主導のグローバリズムを評して、「社会のあらゆる足枷から『個人を解放する』ことを望みながら、貨幣とその蓄蔵を崇める中に安全を求めようと怯えて震えている小人をつくるのに成功したにすぎない」(『経済幻想』平野泰朗訳、藤原書店)と喝破しています。この「小人」の顔を表から見れば「マモニズム」(拝金主義)で、裏から見れば「ニヒリズム」であって、逆もまた真であります。
 いずれも、金銭がすべての尺度であり、それ以外の価値基準を持たない“価値空位時代”の産物であり、対極に位置するように見えて、実は近代文明が半ば必然的に生みだした「双子」(トッド氏)にほかなりません。
3  経済的な能力を至上視する弊害
 グローバリズムの正の側面は当然のことながら、貧困や「格差社会」をはじめ負の側面を論じる場合でも、ほとんどがこの価値基準に依っている。そこからは、先行き不安な、ギスギスした、寒々としたうつろな響きしか伝わってこない。
 格差の拡大等は疑いようのない事実ですし、それを引き金とする犯罪や自殺に追い込まれるような事態は、決して放置されてはならない。このことは、第一義的には政治の責任として、これまでも繰り返し訴えてきたところであります。正義や公平性という人間社会を成り立たせているエートス(道徳的気風)を担保するためにも、法的、制度的なセーフティーネット(安全網)の整備を怠ってはならない。そのことを強調した上で、私が懸念するのは、そうした外的・物質的条件の整備は、事態への対症療法にはなっても、根本療法にはなりえないのではないかということであります。
 「対症療法」を下支えし、それをより確かなものにするためにも、精神面からの裏打ち、つまり価値観の転換が必要なのではないか。
 人間の価値基準を、どれだけ金銭や利益を手にすることができるかといった経済的能力に専ら委ねていく生き方、近代文明のトレンド(流れ)は、ソ連型社会主義の興亡という壮大な試練をくぐり抜けた後も、なかなか軌道修正できないようです。
 欲望の無限拡大、無限解放を容認する近代文明、近代資本主義の痼疾ともいえますが、ローマクラブのリポート『成長の限界』が警鐘を鳴らしてから40年近く、今回の世界同時不況を苦い教訓として、そろそろ病理を自覚すべきではないでしょうか。そして経済的能力を専ら人間の価値基準とすることは、トッド流にいうなら「小人」の価値観、というよりも価値観の空位、欠落であると喝破する意識の転換を行うべきです。
 外的・物質的条件に限るなら、往昔の王侯貴族をしのぐほどの生活水準にある人々が少なくない現代の先進国社会の中から、なぜかくもペシミズム、ニヒリズムの瘴気のようなものが立ちのぼっているのかを問うべきです。

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