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第四章 「二十一世紀人」の条件――鄧小…  

「旭日の世紀を求めて」金庸(池田大作全集第111巻)

前後
1  香港の将来を見すえた鄧小平氏の提言
 池田 金庸先生と四度目の語らいを交わした四日後(一九九七年二月十九日)、中国の大いなる発展の基礎を築いた鄧小平氏が逝去されました。
 鄧氏とは二度、お会いしました。初の出会いの際、鄧氏が日本の軍国主義の歴史について、こう語られたことを、私は忘れません。
 「中日間の二○○○年以上の交流の歴史で、不愉快な期間は一○○年近くです。日本の軍国主義の害を受けたのは、中国人民のみならず、日本人民もまた含まれているのです」と。
 ことは「中国対日本」という国家本位の問題ではない。いずこの国のことであれ、その国の人民の側に立つ――人民史観ともいうべき中国の英知に感銘したものです。
 周恩来総理は、生涯最後の演説で「われわれは永遠に覇をとなえない」「われわれは永遠に、全世界の圧迫された民衆、圧迫された民族の側に立つ!」と叫ばれた。その心にも通じる思いを感じました。
 二度目の会談では、日中平和友好条約について意見を交換しました。そのとき、鄧氏は「中日両国は、アジア・太平洋地域のみならず、いずれの地域においても覇権を求めるべきではない」とする、いわゆる「覇権反対条項」を盛り込むべきだという中国側の立場を、率直に語ってくださった。
 その数年前、私は小説『人間革命』のなかで「日本は中国をはじめ地球上のあらゆる国々と平和友好条約を結ぶべきである」と主張しました。両国民の悲願ともいうべき平和友好条約が結ばれたのは、鄧氏との語らいから三年後のことです。
 金庸先生は一九八一年七月、香港のジャーナリストとして初めて鄧氏と会談され、中国の経済建設の展望、文化大革命の評価、中国とアメリカとの関係など幅広く語り合われました。
 とりわけ「ジャーナリストとして、私たち中国の指導者に、どんな意見をおもちでしょうか」と語りかける氏に、金庸先生は「中国は政策を長期間にわたって維持し、変更しないでほしい」と率直に要望された。
 おそらく「香港の将来」をも念頭に置かれてのご発言だったのでしょう。皆の将来への不安を取り除くためには、まず「政策をたやすく変えない」ことが必要だ、と。民衆の将来のために、先生は「急所」を突かれた。
 鄧氏も「たしかにそうです」と応じられた。文豪と大政治家の、火花を散らす対話――まさに一幅の名画のような場面です。
 金庸 鄧小平氏は、香港基本法の制定をたいへん重視していました。私たち基本法起草委員が初めて北京で会合を開いたとき、鄧氏をはじめとする中央の指導者たちは、委員全員と会見し、みんなで一枚の写真に納まりました。
 中国返還後の香港で実施される、「一国二制度」「香港人が香港を治める」「高度の自治」といった原則は、鄧氏が設計し、制定したものです。これらの原則は、中英共同宣言(一九八四年)のなかに盛り込まれ、その後、私たちがこれらの原則にもとづいて、基本法を作成したのです。
 ですから、香港でまもなく実施される基本法は、鄧小平氏一人が自らの手で制定したといっても過言ではないのです。私たち起草委員は、彼の提言を法律として条文化し、具体的な内容や実施にともなう細則といった補足条項を付け加えたにすぎません。
 池田 香港基本法というビルも、鄧小平氏が固めた「土台」の上に築かれたということですね。
 ところで今、中英共同宣言の話が出ました。両国間の交渉には、かなりの時間がかけられましたが、鄧氏が提起した原則そのものは、意外にすんなりとイギリス側に受け入れられたように見受けられましたが。
 金庸 そうです。中英共同宣言をまとめる作業は、たしかに、たいへん時間がかかりました。しかし、費やされた時間のほとんどは、字句や文字の解釈に使われたものです。
 中国が条理にかない、大局に心を配った数々の原則を打ち出したとき、イギリス人は、思いがけない喜びがやってきたと、小躍りせずにはいられませんでした。なぜなら中国側の提案は、自分たちの期待よりも、予想もしなかったほど、はるかにわが意を得たものだったからです。
 池田 イギリス側は当初、どう予想していたとお考えでしょうか。
 金庸 こうです。
 ――中国は共産党が指導する社会主義国家なので、香港を復帰させた後は当然、上海や天津と同じような統治を行うだろう。
 (香港を治める)総督と官僚は、すべて北京から派遣される。香港の企業は大小を問わず国有化されて、政府の管理下に置かれる。従来の法律は全部、破棄されて、中国の法律が適用される。裁判所、裁判官、弁護士といった司法制度は、すべて中国式に改められる。(香港の通貨である)香港ドルは廃止され、(中国の通貨である)人民元の使用が義務づけられる。イギリス人が投資している香港上海銀行、チャタード銀行といった銀行や、ジャーディン、スワイヤ、キャセイ航空といった企業も、中国国家の所有となり、国に経営が委ねられる。
 市場経済は計画経済へと組み換えられ、市民の言論の自由や、出国・入国の自由などは、いずれも制限を受ける――と。
 池田 ところが、中国側の提案は、現実に即した、非常に柔軟なものだった。
 金庸 ええ。驚いたことに中国は、香港を回復した後も、香港における資本主義制度を維持して、社会主義制度は実施しないというのです。住民の生活様式も変えず、さらには香港人が独自に選挙を行って政府をつくり、高度の自治を享受できると宣言したのです。
 たとえイギリス人が提案したとしても、これほど高い要求は出せなかったにちがいありません。ですから原則的な問題においては、まったく議論する必要はありませんでした。中英の交渉は、あくまでも技術上の問題に終始しました。
 中国が、こうした原則を中英共同宣言に盛り込むように提議した理由は、それらが中英双方の交渉結果だったからではありません。中国政府の政策を、非常に明確なかたちで国際条約のなかに記しておきたかったのです。それによって香港人を安心させ、全世界の人々がもつ香港への信頼を、将来も持続させようと意図したわけです。
 池田 よくわかりました。改革・開放の「総設計師」鄧小平氏は、香港の将来についても、非常に大きな役割を果たしたわけですね。
 金庸 そうなのです。鄧氏が香港に、どのように貢献し、どのように幸福をもたらしたかを評価しようと思うなら、こう考えればよいのではないでしょうか。
 もし香港の前途に対する鄧小平氏のこうした多くの「設計」がなければ、そして、彼の威光、人望、精神力、見識によって、こちらの設計は力強く推進され、今日のような状況にいたっていなければ――「七月一日」以降、香港が、どのようなことになるか、火を見るよりも明らかだったということです。
 実際、九七年七月一日を待つまでもなく、香港は、返還に先立つ数年前に、収拾がつかなくなるほど混乱していたでしょう。この大都市は、正常な運営もままならず、安心して住むことすらできない状態へと悪化していたはずです。
2  改革・開放の「総設計師」鄧小平氏の役割
 池田 その意味からも、鄧小平氏が、香港返還の「その日」を、どれほど夢見ておられたことか。かつて、「一九九七年以後は香港で春節(旧正月)を迎えたい」と願われていたことも有名です。
 今、香港と鄧小平氏について、お聞きしました。さらにうかがいますが、近年の中国の歩みにおける鄧氏の存在・役割について、先生は、どう見られますか。
 金庸 もし鄧氏がいなければ、きっと中国は、今日のように発展することはなかったでしょう。
 一九八九年、「六・四」天安門事件が発生してまもなく、私は「明報」(八月六日付)に、「みんな(権力者)が長生きの競争をすれば、やはり鄧氏に勝ってもらいたい」と題する社説を発表しました。内容は、こうです。
 「中国共産党内には、相変わらず保守的な思想をもった権力者が少なからずおり、改革・開放に反対している。しかし鄧小平氏一人だけでも、改革・開放路線を堅持していさえすれば、中国には一条の光明をもたらすことができる。
 この路線に反対する人々は、年齢も相当高い。鄧氏が健康で、頭脳が明晰であれば、反対派がじゃまをすることはできないだろう。ゆえに鄧氏が反対派の老人たちよりも長生きするように、私は彼の健康と長寿を心から熱望する」と。
 中国の古いことわざに、「一身天下の安危に繋る」とあります。重要な人物を形容しているわけですが、ここでいう「天下」とは、中国全土を指します。
 日本の戦国時代も、そうだったと記憶しています。「天下」がどうであるかという場合、それはとりもなおさず「日本」がどうであるかという意味です。
 池田 そのとおりです。日本も「日本全土」という意味で、「天下」という言葉を使っていました。ただし、同じ「天下」でも、日本の「天下」のほうは、まことに小さい。中国の一省ほどの大きさを指して「天下」「天下」と騒いでいたわけですが。(笑い)
 金庸 鄧氏は過去二○年間、まさに「一身天下の安危に繋る」という状態でした。もし一九七八年の中国に鄧小平氏がいなければ、中国全体が多くの不幸に見舞われていたことでしょう。
 池田 これは、世界中の人が知りたいことだと思いますが、「鄧小平氏以後の中国」について、どう展望されますか。そして、香港は。
 金庸 氏は人々から「総設計師」と呼ばれることを好みました。
 一方、私も含めて、彼を「大旗手」にたとえる人もいました。改革・開放の大旗を掲げ、全中国の先頭に立って前進していくという意味です。しかし彼は「(四人組の一人の)江青だって、自分のことを『大旗手』と名乗っていたんだ。私は『大旗手』になどなりたくない」と言って、こうした比喩を嫌ったそうです。
 「大旗手」は、旗を大きく振りかざし、大声を張り上げては、人馬の先頭に立って敵陣に突入していくというイメージがあります。たしかにこれは、総司令官の身分に合致しません。逆に、やみくもに猛進する愚かさが目立ち、一歩一歩、地歩を固めながら着実に戦いを進める智略に欠ける感じがします。「総設計師」というたとえのほうが、はるかに、必勝の名将にふさわしいといえるでしょう。
 池田 たしかに、そうですね。
 金庸 総設計師は、緻密な構想と計算にもとづいて、大建築物の全容を、内外ともに描き出していきます。いかなる建築様式を採用するかによって、工事の計画・プロセス、使用する材料などが決まります。設計が完成すれば、まず自分自身で疎漏がないかどうか点検し、あれば改めます。
 その後にみんなと討論して、各方面の意見に耳を傾け、欠点なり安全性に疑いのある要素は、すべて除去して、完璧を期します。こうして設計案が決まれば、続いて建築会社に工事を委託します。総設計師は、工事が始まった後も、工事の順序が間違っていないかどうか、また規格や標準に照らし合わせながら、出来ぐあいに問題がないかどうかを監督・検査します。
 不幸にして、こうした総設計師が私たちよりも先に亡くなるということは、計り知れないほど大きな損失でしょう。ただ、ありがたいことに、設計案全体は、もうすでに完璧に仕上げられています。しかるべき優秀な技術者と作業員も、すでに選定が終わっています。主な工事も第一段階が順調に進められています。今後も設計案にもとづいて、工事を継続していけばよいのです。
 ですから工事をする人は、絶対に混乱したり、言い争いをしたり、自分勝手に設計案や青写真を描き改めたりしてはなりません。
 腰を落ち着けて仕事をし、順序を追って事を進め、段階を踏んで前進していきさえすれば、心配することは何もないのです。
 池田 そして中国が泰然として改革・開放路線を継承していけば、当然、香港にも良い影響を与える、と。
 金庸 そうです。
 香港を対象にした「設計」が重要であることは、いうまでもありません。しかし、中国全体からすれば、香港は一つの小さな地区にすぎません。中国という巨大な高層ビルが堅固で、非のうちどころがないほど立派に建てられていれば――香港という小さな部屋だけ、みすぼらしいものになることなど、決してありえないのです。
3  「自由人」金庸氏の香港への第一歩
 池田 お考えはよくわかりました。再び、金庸先生の人生の記録に話を戻したいと思いますが、先生が、大陸から香港に渡ったのは一九四八年。二十四歳のときでしたね。
 金庸 ええ、その二年前の四六年夏から、新聞の仕事に携わるようになりました。最初は杭州の「東南日報」で、記者兼英語の国際ニュースの聞き取り係を務めていたのです。
 池田 杭州は、マルコ・ポーロの『東方見聞録』の昔から、「東洋のベニス」とたたえられたとおりの美しい水の都でした。私も一度、行ったことがあります。(一九七四年、第二次訪中)
 金庸 そうでしたか。
 翌四七年に、上海の『大公報』が国際ニュースの翻訳者を募集していると聞き、迷わず応募して試験を受けました。専門家としての訓練を受けていたので、成績もそう悪くはなく、無事に採用されました。(上海で発行できなくなった)『大公報』は翌年に香港で復刊されました。このとき、私も香港に派遣されたのです。
 池田 先生の香港入りについては、こんなエピソードを聞きました。
 ――勇んで上海から香港行きの飛行機に乗ったはよかったが、慌てていたせいか、一銭ももってこなかったことに機中で気がついた。思わず全身から冷や汗が出た(笑い)。たまたま同じ便に「国民日報」社長の潘公弼氏が乗っており、落ち着かない様子の金庸先生に声をかけた。事情を聞いた潘氏から一○ドル融通してもらい、何とか新聞社に着くことができた……。(笑い)
 微笑ましいエピソードですが、先生の波瀾万丈のドラマの開幕にふさわしい出来事ともいえます。香港の最初の印象は、どうでしたか。
 金庸 たいへんな暑さと、何を聞いてもさっぱりわからない広東語でした(笑い)。右も左もわからないこの街に、以後五○年近くも暮らし、人生の大半を送るとは、思ってもみませんでした。
 私は香港で結婚し、子供をもうけ、育て、小説を書き、新聞を創刊しました。家庭も事業も、香港で築いたものです。
 とはいうものの、あのころの香港は、長年暮らした上海と比べると、経済の面でも文化の面でも、やや立ち遅れているとの印象を受けました。ひなびたところに来たな、という気持ちが、多少しました。
 しかし香港の人々は誠実で、信用を重んじ、話に信頼が置けます。私は、すぐに彼らを好きになりました。人情も上海より厚かった。香港の人々の性格は国際的な大都市の住人というよりも、中国内地の中小都市のそれに近いのではないかと思いました。もっとも、そうした香港人の気質も、社会の繁栄とともに急速に変化していきましたが。
 池田 私も香港の人々が大好きです。香港には、何よりも「人間がいる」という感じがします。
 先生は「香港に宝なし、自由こそ宝だ!」と題した「明報」の社説で、こう綴られていますね。「私たちが香港に好んで住む主な理由は、ここが間違いなく自由の地であることだ」と。
 少年時代から「自由」を愛し、権力・権威への「反骨」の気概を養ってこられた先生です。自由の港・香港こそは、先生の自由人としての気質に合っていたのではないでしょうか。

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