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日蓮大聖人・池田大作

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第三章 人生幾春秋――若き日の鍛えと人…  

「旭日の世紀を求めて」金庸(池田大作全集第111巻)

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1  戦争の記憶と民衆の側に立つ決意
 池田 金庸先生、私たちの若き日のことは、戦争の記憶と切り離しては語れません。
 一九九六年春、創価大学で講演していただいたおりに、「金庸先生の『民衆の側に立つ』言論の支えとなったものは何ですか」という創大生の質問に、先生は大要、こう答えられました。
 「私の場合、育った時代の影響が大きいと思います。戦争の時代、生活が実に困難な時代であって、そのなかで民衆の苦しむ姿を見て、民衆の側に立つ姿勢を貫こうと決意したのです」と。
 日本がアジア諸国、とりわけ中国で、どれほどの蛮行を働いたか。数千年来、文化万般にわたって恩恵を受けてきた「恩人の国」に、「恩を返す」どころか、言語に絶する非道を重ねた。本当に罪深いことです。
 金庸 日本の軍閥が中国を侵略していた時期、私はすでに、この侵略戦争に反対する日本のひと握りの良識ある人々のことを知っていました。
 戦後、私は何度か日本を旅しましたが、そのおりには戦争当時、中国侵略に反対し、戦後は中国と日本の友好を深めるために尽力した日本社会のリーダーの何人かと、お会いしました。たとえば岡崎嘉平太氏などです。また文化界の何人かのリーダーともお会いしました。みなさん度量が大きく、高遠な見識をもっておられました。
 池田 あまりにも広いお心です。戦後、日本は中国の方々に謝罪すらせず、アメリカに追随して敵視政策を続けました。中国の国連加盟を最後まで妨害したのも日本です。その日本を、中国の方々は、「悪いのは日本の軍国主義だ。日本の民衆に罪はない」と大きく包み込んでくださった。
 中国の方々の、この高潔なる心を、日本人は夢にも忘れてはなりません。
 金庸 当時から今日にいたる日本世論の雰囲気のなかで、池田先生が、あの戦争に対して厳しく非難し、自身をとがめる気持ちを表されるには、明晰なる知恵や、全人類の福祉に思いをいたす「人間としての心」が必要だったと思います。さらに重要なこととして、恐れをいだかぬ「大いなる勇気」が必要だったことを、私はよく理解しているつもりです。
 これこそまさに「大智」「大仁」「大勇」です。孟子は「自ら反みて縮ければ、千万人と雖も吾往かん」(『孟子』〈上〉小林勝人訳注、岩波文庫)と述べています。子細に検討した結果、自分の主張が正義にかない、正しい道理にかなっていると思えば、たとえ幾百幾千万の人が自分に反対し、攻撃しようとも、やはり自己の主張を固く貫いていく、という意味です。この言葉のとおり行動してこられたのが、池田先生です。
 池田 過分なお言葉です。恩師・戸田城聖先生は、「日本はアジアの国々に信頼されてこそ、平和の国といえるのだ」と語っていました。その心を心として、私は行動してきたつもりです。そうでなければ、日本は国際的に孤立してしまいます。
 あの戦争では、日本軍の侵略で金庸先生の故郷(中国・浙江省)も破壊されたとうかがいました。
 金庸 日本の軍隊が私の故郷を侵略したとき、私は十三歳で、中学二年に進級してまもないころでした。学校とともに各地を転々と移動しました。この間、軍事訓練を受け、きわめて大きな困難を経験しました。私の母は、戦時下での医薬品や看護の不足が原因で世を去りました。戦争は、国家、人民、そして私の家庭を破壊し尽くしました。
 私の家はもともと、かなり裕福でした。しかし家は、日本軍に跡形もなく焼き払われました。母ばかりでなく私が最も愛した弟も、戦争中に亡くなりました。
 私の中学時代、正規の学習は、戦争のため幾度となく中断されました。そのために中国の古典文学や英語の学習の基礎が、しっかりとは身につきませんでした。それらは大学時代、および大学卒業後に、ようやく学び直すことができました。
 しかし戦争は、私に有意義な訓練の場を与えてくれたと思います。つまり私は以後、一生涯、苦難を恐れなくなりました。戦争中は、ご飯も満足に食べられず、重病に見舞われ、ほとんど「死」のような状態でした。このような苦難を経験したあと、いったい何を恐れることがありましょう。
2  青年に必要な「鍛えの場」
 池田 何があろうと、すべてを人生のバネにしていける、金庸先生のような強い人格を青年は築くべきです。青年には、厳しい「鍛えの場」がどうしても必要ですね。
 古来、軍隊における訓練には、そうした青年教育の機能を果たす面もあったと指摘する人もいますが、結局は青年に死や殺人を強いるものです。いわんや近・現代の戦争は、人間がそこから人生の糧を引き出していけるような次元を、はるかに超えています。あまりにも悲惨です。絶対にあってはならない。
 かつて、アメリカの哲学者ウィリアム・ジェームズは提案しています。人間の闘争本能を、より良い方向へ導いていくためには、戦争ではなく何らかの「道徳的等価物」が必要である。たとえば、平和や建設のための部隊が創設される。「石炭や鉄の鉱山へ、貨物列車へ、十二月には漁船隊へ、皿洗い、洗濯、窓洗いに、道路開設と隧道開鑿へ、鋳物工場と汽関室へ、高層建築の骨組へと、金持の御曹司たちがその選択に応じて徴用されれば、子供らしさが彼らから払い落され、一層健全な同情と落着いた考えをもって社会に帰って来る」(『世界大思想全集哲学・文芸思想篇』〈第一五巻〉今田恵訳、河出書房新社)であろう、というのです。
 金庸 私は、池田先生が世界平和の実現に尽力されていること、精神の価値を創造し、向上させ、また人間の錬磨に力を尽くしておられることを、よく存じあげています。
 池田 恐縮です。私ども創価学会の各種の「文化祭」の意義も、一つには青年たちに、そうした「より良く生きるため」の「鍛えの場」を提供することにあります。また創価班、牙城会、白蓮グループといった青年の育成グループも、同じ意義をもつといってよいでしょう。
 日々、仕事や勉学に励む青年たちが、他者への貢献のなかで人格を鍛え、一段と大きな自分になって「社会に帰ってくる」のです。
 ところで戦時中のことで、一番、心に残っていることは何でしょうか。苦しい思い出かもしれませんが、お聞かせください。青年のために。戦争を知らない世代のために。
 金庸 二つあります。一つは、日本軍の飛行機が、私の立っているところから、さほど遠くないところに爆弾を投下したのです。私は、すぐさま地に伏せました。機関銃が地上でダダダッと音を立てたあと、飛行機は飛び去っていきました。
 そして立ち上がったとき、かたわらに、二つの死体が横たわっていました。顔色は干物のように黄色っぽく、口や鼻から血を流し、両目は見開いたままでした。近くで女子学生が一人、驚きのあまり大声をあげて泣いていました。私はただ、彼女の肩をポンポンとたたいて慰めるしかありませんでした。
 もう一つは、日本軍が細菌戦を展開したことです。浙江省衢州城の上空から、ペスト菌を投下したのです。当時、私は衢州の高校に入学し、農村で授業を受けていました。果たしてペストは衢州城に蔓延し、感染した者は絶対に治らないため、人々を恐怖に陥れました。
 ある家庭で感染者が出ると、兵隊が、その感染者を衢江に浮かぶ船に連れていき、感染者が死ぬのを待って、七日後に火を放って船を焼きました。家族は新しい衣服に着替えさせられ、家にあるものは何も持ち出せません。ただちに追い出されて、家をまるごと焼き払われるのです。ただし金銭については役所が補償しました。
 池田 あまりにも痛ましい話です。旧日本軍の細菌部隊(七三一部隊)のことは、いまだにその傷跡というか、余燼がくすぶり続けています。
 金庸 同じクラスで、スポーツ選手だった毛良楷君もペストにかかりました。全校の生徒はみな、あわてて彼から逃げてしまいました。
 毛君は、ベッドの上で泣いていました。クラス担任の姜子曠先生が、お金を出して二人の農民を雇い、毛君を町なかまで担いでいきました。先ほど述べた川の真ん中に浮かぶ船に運ぶためです。
 私はクラス代表だったので、闇夜のなか、担架のあとをついていきました。内心、とても怖かったのですが、立場上、辞退できなかったのです。川のほとりまで来たとき、毛君と涙を流して永遠のお別れをしました。
 学校に戻ったとき、姜先生と二人して、服に熱湯をかけあい、ペストを感染させるノミが体に残らないようにしました。あとになって考えてみると、勇気をもって毛君のために、せめてものことをしてあげてよかったと思います。
 池田 日本人が犯した蛮行の恥ずべきことはもちろんですが、それにもまして恥とすべきは、多くの日本人がそうした歴史を忘れていることです。
 中国での最大の罵りの言葉とは、「忘八」という言葉だと聞きました。「孝・悌・忠・信・礼・儀・廉・恥」の八つのモラルを忘れた者こそ、一番の恥知らずである――中国の人々が、いかに「忘れること」を軽蔑するかが、よくわかります。
 それにひきかえ、日本人の何と忘れっぽいことか。忘れるどころか、日本の戦争責任について迷惑顔で開き直る政治家も後を絶ちません。アジア各国から厳しく批判されてもわからない。自分たちの「問題発言」が、どれほど無責任で、アジアの人々を愚弄しているかがわからない。人の痛みがわからない。自分たちの愚かさがわからない――多くの人がそう見ています。
 平和とは、ある意味で「忘却との戦い」です。ドイツのヴァイツゼッカー前大統領が、有名な敗戦四○周年の演説で「過去に目を閉ざす者は結局のところ現在にも盲目となります」(『荒れ野の40年』永井清彦訳注、岩波書店)と述べているように、過去を忘れるところに、真の反省も償いも、平和への誓いもありません。
 日本人は、こうした「歴史健忘症」を、徹底的に叩き直さなければなりません。でなければ、世界中から相手にされなくなってしまいます。
3  軍国主義教育の恐ろしさと日本人の性格
 金庸 戦時中の経験については、私からも少し、先生に質問させていただきたいと思います。
 池田先生のお父さま、子之吉氏は、責任感の強い、毅然とした人格者であり、海苔の製造に携わっておられたとうかがっています。
 池田 ええ。周りから「強情さま」と呼ばれるほどの一徹者でした。(笑い)
 金庸 戦時中の生活はたいへん苦しく、先生の四人のお兄さまはみな徴兵されて、戦地に赴かれたそうですね。長兄の喜一氏がビルマ(現・ミャンマー)で戦死され、残り三人のお兄さまは戦争が終わってようやく中国から帰還されたとか。
 お父さまも、お兄さまもみな、侵略戦争に強く反対された方々とうかがっています。日本は侵略側であり、中国は侵略を受けた側ですが、両国人民はそれぞれに、戦争の大きな被害を被ったのです。
 池田 兵士として中国に行った長兄が家に帰ってきたとき、やり場のない怒りをかみしめるように、「日本は、ひどいよ。あれでは中国の人が気の毒すぎる」と言っていたことが、今もって脳裏を離れません。
 金庸 戦時中、先生はまだ年齢がお若かったので、日本軍国主義教育の影響を受けられたのではないでしょうか。先生はかつて海軍航空兵を志願したいと思ったこともあるそうですが、お父さまに許してもらえなかったそうですね。志願の理由は家庭の困窮を助けるためだったのですか。それとも軍人こそ英雄なりといった感化を受けた結果なのでしょうか。
 池田 正直に言って後者です。おっしゃるように私も同世代の少年と同じく、軍国主義教育のなかで育ちました。当時の日本の教育が、子供たちの心にいかに歪んだ世界観、人間観を植えつけたことか。そして、どれだけ多くの少年たちを戦場に駆り立てたことか。誤った教育ほど恐ろしいものはありません。私は、骨身に染みて知っているつもりです。
 金庸 先生は戦時中、家の事情で、思いどおりに進学できず、のちに新潟鉄工所で工員として働いておられます。体が丈夫ではなかった先生にとって、鉄工所の工員として働くことは骨の折れる重労働だったとお察しします。
 しかしこの経験は、一方では益のある鍛練であり、先生のその後の人格形成に大いに役立ったのではないでしょうか。
 池田 戦時中は、体が頑健でなければいけない時代でした。体が弱いだけで非国民扱いされたものです。私も体が弱いことが恥ずかしかった。しかし、だからこそ、病弱な体を押しての労働は、私にとって、特に人間の温かさ、思いやりを知るという意味で、得難い経験だったと思います。
 たとえば寒い冬の日、上司の一人が、火のそばに来て少し話をしていかないかと呼んでくれました。胸が悪いということを知っていてくれたのでしょう。本当にうれしかった。そのときに交わした話の内容と、その人の顔は、今でもありありと思い浮かべることができます。「若くして出世するのは相撲の世界くらいだ。焦らず、じっくりいきなさい」と、息子のようにいたわってくださり、激励してくださった。
 また、工場長も、いい方でした。気分が悪くなるたびに励ましてくれ、医務室に運ばれたときには、家まで人力車を用意してくださった。当時は人力車に乗る人など、ほとんどいませんでしたから、近所の人はみな、驚いていました。(笑い)
 ところで金庸先生は、日本に多くのお知り合いがおられると思いますが、日本人にどんな印象をおもちですか。
 金庸 私には多くの日本人の友人がおります。彼らから共通して受ける印象は、みなとても根気強い。勉学にしても、仕事にしても、全力を傾け、いかなる事柄にも最善を尽くそうと努力します。ただ、私たち中国人、とりわけ香港人には、しばしば、そんな彼らがあまりにも頑なで、決まりを守ることに汲々として、少しの融通もきかない、あるいはきかそうとしないと映ります。
 私たち香港人が日本を旅行すると、日本人が既定の決まりにこだわる様子がきまって笑いの種になります。また、ときには不思議な感覚にとらわれることさえあります。
 池田 先生は、具体的な体験をおもちのようですが。
 金庸 あるとき、私たち七人の香港人が、大阪のとある小さな飲食店で食事をしました。お店のテーブルはどれも小さく、多くても四人しか座ることができません。店の人がかなり困って、「申しわけありませんが」と何度もあやまりながら、「七人が一緒に座る場所はないので二つに分かれて座ってほしい」と説明するのです。
 私たちは思わず笑ってしまいました。日本語が上手に話せませんので、口で説明するより早いと思って、自分たちで二つのテーブルをくっつけて一つにし、即席の長テーブルをつくったのです。七人は、いともたやすく、何の無理もなしに一カ所に座ることができたのです。店の人は、はたと悟ったかのように、たて続けにうなずいては、これは気に入ったといわんばかりに、満面に親しみのこもった笑みをたたえていました。自分に代わって難問を解決した私たちに感謝しているようでした。
 池田 そうですか(笑い)。「こうあらねばならない」と頭から決めてかかって、なかなか機転や融通がきかない、日本人の性格を象徴するようなお話です。海外からのお客を前に、多少、緊張していたのかもしれませんが。(笑い)

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