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日蓮大聖人・池田大作

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3 父から子へ――体験、精神の継承  

「カリブの太陽」シンティオ・ヴィティエール(池田大作全集第110巻)

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1  魂のパン――詩は人間にとって不可欠
 池田 マルティは「ホイットマン論」の中で、「詩は人間にとって不可欠のものではない、と主張するわからずやはだれでしょう?」(「ウオルト・ホイットマン」、前掲『キューバ革命思想の基礎』)と書きました。
 「皮だけがくだものだと信じている精神的にきわめて近視眼的な人びとがいます。人びとを融和させたり離反させたり、強めたり苦しめたり、精神を支えたりくじけさせたり、信念と力を与えたり奪ったりする詩、それは人びとにとって、産業そのものよりも必要なのです。というのは、産業は人間に生存の手段を与えてくれるのにたいして、詩は生活の意欲と力を与えてくれるからです」(同前)
 また、こんなエピソードが伝えられております。
 「松」の種を蒔く老人を見て、マルティが感謝の念を語ったのに対して、同行の少年が「綿や小麦、もっと糧になる有用なものを蒔く人に対してこそ、もっと感謝すべきです」と言った。
 すると、マルティは「画家で音楽を勉強している君が、どうしてそんなことを言うのかい。君はヴィクトル・ユゴーやアミーチスに感動するだろう?人はパンのみにて生くるにあらず、ということを思い出してごらん。そして、詩人のことを考えてごらん。人間の物質的、精神的面を支えるために、すべてが必要であり、有用なんだよ」と。
 この言葉どおり、魂も糧を欲する。まことに「人はパンのみにて生くるにあらず」であります。「詩は人間にとって不可欠」なのであります。
 もちろん、人間が生きていくために“パン”は必要です。民衆が食べることに困らない社会は、古来、一つの理想とされてきました。しかし一歩間違えれば、それは容易に「食べさせておけばよい」というお仕着せや見下しに転化してしまう。貧しい民衆を救わんと立ち上がった革命家にして、いつしか、そうした民衆蔑視の落とし穴に堕してしまった例は、枚挙にいとまがないでしょう。
 ドストエフスキーが『カラマーゾフの兄弟』などで、赤裸々にえぐり出しているところです。
 ところが、マルティは、この“魂のパン”の不可欠なることを絶対に見失わなかった。「詩で教育せよ」――それによって、民衆の魂を高貴ならしめることが、キューバ革命に不可欠であることを知っていた。
 それは、彼が徹頭徹尾、民衆を愛し、尊敬していた証であると私は思いますが、いかがでしょうか。
 ヴィティエール 先に私が部分的にふれた、「詩は人間にとって不可欠なものである」とするマルティの主張を補ってくださったことを感謝いたします。
 たしかに、これは基本的な思想であって、私たちがこれまで考察を行ってきた政治と詩の関係が、
 あなたの発言により、さらに確固たるものとなりました。
 民衆に詩が不可欠であるとする彼の発言の大胆さをおもんぱかるには、あの一八八〇年代当時、産業(大文字で強調されるべきです)は女神、つまり「進歩の女神」「産業革命の女神」のようなもので、私たちはその子どもであり、マルティ自身も、その女神に対して、しかるべき敬意を表していた、ということを想起すべきでしょう。
2  池田 民衆の名を口にする人は多いが、真の意味で民衆を愛している人は少ないものです。
 ドストエフスキーは「わが国の賢人たちが民衆に教えることのできるものはあまり多くはない。わたしは断言してはばからないが――むしろその逆である。賢人たちこそまだまだ多くのことを民衆に学ばなければならないのだ」(『死の家の記録』小沼文彦訳、『ドストエフスキー全集』4所収、筑摩書房)と書きました。
 民衆に学べ――それどころか、マルティにとっては、「文学は、それを生み出した民衆を表現するのでなければ、ただの空虚でしかない」ものでありました。
 「歌」は民衆の興隆の息吹です。
 前進の足音であり、魂のほとばしりです。
 創価学会の民衆運動も、にぎやかな歌声とともに勝利の前進をしてきました。
 革命の息吹が新たな歌を生み、その歌声が革命を鼓舞していく――こうした例は、歴史に多数あります。おそらくマルティも多大な関心を払ったであろう、かのフランス革命も歌声とともにありました。
 今日、フランス国歌となっている「ラ・マルセイエーズ」は、その頂点に位置するものでしょう。それが、いかに人々の心を鼓舞していったか、
 たとえば次のような同時代の将軍の証言が残っています。
 「私は戦闘に勝った。《ラ・マルセイエーズ》が、私とともに指揮した」
 「一〇〇〇人の援軍か、さもなくば《ラ・マルセイエーズ》の歌詞を一枚送られたし」
 マルティもまた、こうした「歌の力」に無関心であったとは思えません。
 キューバで、曲をつけて愛唱されているようなマルティの詩はあるのでしょうか。作曲は別の人の手になるとしても、その歌を通して、マルティの肉声が、マルティの精神が、人々の心に蘇ってくるような――。
3  ヴィティエール マルティが詩に帰している力も、けだし女神のように、人間に“生きるための意欲や力”を与えたり、あるいは奪ったりすることのできる、卓越した詩神の働きそのものでした。
 このようなマルティの考え方は、エスプロンセダのような詩人を、彼がなぜ高く評価するのかという基準の一つを明らかにしてくれます。
 最初にスペインに到着したばかりの若きマルティは、エスプロンセダについて、次のように述べています。
 「彼はみじめな生活を送った。あまりに長くみじめな生活を続けたので、みじめさは彼の中の一部となった(中略)しかし(人生のみじめさのみにスポットを当てる彼の詩に)無分別で不当な賞賛を行って、彼を蝕んだ壊疽を他の人々の心に感染させてはならない」と。
 そこでマルティは一つの義務を設定しました。「天才は人類の美徳と、よりよい完成をめざして身を捧げるべきである」と。
 彼自身は読者を憂鬱にし、自信を失わせ、
 気力を萎えさせるような作品を懸念し、自分の書いた「キューバの詩」(『自由詩』の中でもっとも悲痛な作品でしょう)について「あまりにも不満と怒りに満ちているので、読まれるべきではない」と言い、実際、あまり苛酷で苦痛に満ちた彼の作品は、生前、決して出版されませんでした。
 マルティが詩に重大な道徳的責任がある、と考えていたことは明らかですが、その詩が美的魅力をもてばもつほど、その責任を重視しました。
 しかしながら、私たちにとって、彼が権力を握って、“健康的な”文学を押しつけている姿は、想像できないことです。まさにあなたが言及されている見解です。
 マルティは、ホイットマンの書いた“禁書”の中に含まれる否定しようのない価値を、経験によって知っていましたし、オスカー・ワイルドのような“非道徳的な”作家を評価して、讃える文章も書いています。
 このようなデリケートな問題に関しては、盲目的な検閲を行うことには反対して、知性と国民を尊重し、自由な討論を提案したことでしょう。

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