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日蓮大聖人・池田大作

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3 リーダーシップ――先覚者の苦悩と決…  

「カリブの太陽」シンティオ・ヴィティエール(池田大作全集第110巻)

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1  一人立つ――先覚者の宿命と苦悩
 池田 二十世紀の最大の特徴の一つは、大衆社会化現象の進展ですが、それにつれて、ことのほか重要性を増してくるのが、リーダーシップのあり方です。リーダーがしっかりしていないと、大衆社会は容易にポピュリズム(人気取り)に流されていってしまいます。
 いっさいの責任を担い、他のだれとも分かちあえない苦悩の深淵に、独り立ち挑む――これは歴史の“先覚者”といわれる人々の宿命なのかもしれません。
 マルティも、「われらのアメリカ」の自由のために、人知れぬ苦衷と闘い続けた指導者でありました。
 「一人の人間が民衆よりも優れているということはありえない。しかし、民衆が疲れても、まだ諦めない人間はいる。そして民衆よりも先に闘いを開始する人間はいる。民衆は多くの人間をかかえ、ただちに相談をすることはできないが、一個の人間は、自分という人間以外に相談する必要性がないからである」
 先駆者としての自覚、焦慮、躊躇、そして矜持、栄光……。万感をこめた彼のこの一言の重みを、私は痛いほどに感じてなりません。
 私もまた、「一人立てる時に強き者は真正の勇者なり」とのシラーの言葉を座右の銘として、今日まで闘争の日々を重ねてきたからです。
 ヴィティエール マルティの「苦悩と決断」が志向していたものは、調和や正義をどう実現するのか、にありました。
 彼にあっては、調和は苦悩によってのみ達成されます。そして正義は、不安や苦痛を超克してのみ達成されるのです。調和といい正義といい、それを成り立たせる微妙なバランスは、苦悩や不安あるいは苦痛を真正面から受けとめ、どう格闘するかにかかっております。
 マルティにとって、その格闘を象徴するのが「十字架」であり、ひとたびその格闘の場に身を置くや、彼自身の言葉で言えば、「毎日が殉教という十字架の道を歩む」ことを宿命づけられたのです。
 池田 “使徒”の宿命ですね。
 そうした「苦悩と決断」の緊張状態に身を置くことを、仏法では、「浅きを去つて深きに就くは丈夫の心」(御書五〇九㌻)と言っています。
 そうした「緊張状態」の一局面として、マルティが、キューバ国内の戦場に乗り込むか、国外で広宣活動と革命の組織化にあたるべきか、という選択を迫られたときのエピソードがあります。
 ――彼の身の安全を思う一人の将校が、後者の道をとるよう進言したとき、彼はこう言いました。
 「よく考えてほしい、あなたが私を本当に大事にしてくれるのなら。私が不必要な危険の場に、ただがむしゃらに自分をさらけ出すことをしないのを知っているであろう。しかし、また一方、自分の身を守るために、『壊れやすい遺物のように』必要な行動をなおざりにすることはできないのだ」と。
 決して“蛮勇”には走らない。しかし、自分の身を惜しんで事態を悪化させたり、千載一遇のチャンスを逸したりすることなど絶対にあってはならない。――マルティの生涯は、こうした抜き差しならない決断と、乾坤一擲の行動の連続であったわけです。
 博士は、幾百万の民衆のリーダーシップを担うマルティにとって、わけても重大な「苦悩と決断」は、人生のどのような時点にあったと思われますか。
2  みずからの民衆観を貫き先輩と離別
 ヴィティエール マルティの生涯のなかで、そのような決断を下さなければならない、きわめて重大な時期は、三回ほどありました。
 一回目は、一八八四年、「ゴメス・マセオ計画」といわれるものに同意しなかったとき。
 二回目は、一八八九年から九〇年にかけての冬、第一回米州諸国会議が開催されていたとき。
 三回目は、一八九五年、「フェルナンディナ計画」が挫折したときです。
 一回目について言えば、「十年戦争」を生きぬいた、もっとも尊敬されていた指導者であったマクシモ・ゴメス将軍とアントニオ・マセオ将軍は、一八八四年、ニューヨーク市にやってきて、マルティに彼らの立てたキューバへの武装侵入計画を援助するよう求めました。
 マルティは同市にその四年前から住み、カリクスト・ガルシア将軍と協力して、独立のためのプロパガンダ(宣伝活動)を行ったり、組織を編成したりしていました。このころ行った「ステック・ホールの講演」という演説はたいへん重要視されています。
 池田 一八八〇年一月、追放の地スペインを脱出したマルティが、ニューヨークに到達したあと、二十七歳の誕生日(一月二十八日)を前にして行った、合衆国で初の講演ですね。講演の行われた場所ステック・ホールの名前をとって、そう呼ばれていると聞いております。
 ニューヨークでは、キューバからの移民や亡命者が多く住んでいたが、マルティについてはほとんど知られていなかった。しかし、それまでの講演者が、声高なアジテーター(扇動者)風の者が大半だったのに対して、マルティの格調高きなかにも静かな情熱をたたえた演説は、不思議な力で人々を魅きつけて、一気にこの青年を革命運動の指導者へと押し上げました。
 ヴィティエール ええ。イスパノアメリカ諸国では、(第一次)独立戦争を戦いぬいた将軍たちが、軍人主導の、広範な討議も合意もない、一方的なやり方を押し付けていることを、マルティは身をもって知っていました。
 一方、ゴメス将軍とマセオ将軍は、市民意識が意のままにならないことに、また市民たちが、いわゆるキューバ“大戦争”(十年戦争)のときの口舌の徒にすぎなかったリーダーたちと同じ轍を踏んでいることに、無力感をいだいたのです。
 双方の意見の対立は不可避であり、マルティはゴメスに宛てて、かの有名な手紙を送ることとなるのですが、その中でこう述べています。
 「将軍、人民というものは、野営隊を率いるように、簡単には組成することはできません……」と。
 マルティは、みずからの民衆主導の原理に忠実に従い、それまで数年間にわたり、多くを犠牲にして取り組んできた、あらゆる公的活動から身を退きました。
 「ゴメス・マセオ計画」が勝利を収めたならば、マルティは祖国の歴史を決定づける出来事の外に身を置くことになったでしょう。沈黙していたその時代の苦悩は、『素朴な詩』(一八九一年)の作品のいくつかに反映されています。
 池田 尊敬する二人の先輩と袂を分かたなければならない、苦渋に満ちた決断――その由って来るところは、その二年前、ゴメス将軍へ送った最初の手紙の一節からも、はっきりとうかがい知れます。革命機運の高まりにふれつつ、マルティは述べています。
 「いまや、静かに熟慮のあげく革命の旗のもとに結集した人たちが現われ、この国の疑問に答えようとしています。忍耐は勝つためのひとつの方法です。このことに期待をかけた結果、この好機この幸運が訪れているのです。力を抑制することこそ、力を持っている最大の証拠だとわたしは思います」(前掲『キューバ革命思想の基礎』)と。
 「力を抑制することこそ、力を持っている最大の証拠」――いかにもマルティらしい表現ですが、そこに流れるトーンは、軍人主導の運動とは本質的になじまないものがあると思います。その意味から言えば、マルティは、今日のシビリアン・コントロール(文民統制)と呼ばれるものの先駆者でもあったわけですね。
3  「北の大国」の野望を見抜いた先見性
 ヴィティエール ええ。
 二回目の決断(第一回米州諸国会議が開催されていたとき)について言えば、『素朴な詩』のプロローグ(序章)の中でマルティは、「あの苦悩に満ちた冬、イスパノアメリカの民衆は、無知からか、ファナティック(=狂信的)な信条に押されてか、危惧を抱いてか、それとも善意からか、恐るべき鷲の下ワシントンに集まった」(井尻直志訳、『選集』1所収)と、当時の状況がどのようであったかを語っています。
 池田 一八八九年十月、アメリカ合衆国が、ラテンアメリカ諸国をまねいてワシントンで開催した米州諸国会議に向けて鳴らした、マルティの警鐘ですね。
 ヴィティエール そうです。それは初期のアメリカ帝国主義が、南の諸国に軛をかけて、自国の優勢な経済の荷車につなごうとする、初めての操作だったのです。
 ブエノスアイレス(アルゼンチン)の「ラ・ナシオン」紙上に掲載された、その米州諸国会議に関するマルティの報道記事の中に、彼の分析とより明確な反帝国主義的な声明がすでに含まれています。その部分を示してみましょう。
 「イスパノアメリカにとって、(スペインからの独立に続き)第二の独立を宣言する〈時〉がやってきました」
 また、次の問いかけのなかにも、はっきりと言明されています。
 「アメリカ合衆国が世界中の他の諸国に仕掛けようとしている戦いの場へ、青春期を迎えている国々が、なぜ連合して出て行かねばならないのか?なぜヨーロッパとラテンアメリカの共和国諸国との紛争をよいことに、解放された国民を合衆国の植民地システムの実験台にしようとしているのか?」
 つまり、イスパノアメリカ諸国、とくに一八九八年の軍事介入以降のキューバに対して、現実に押し付けられることとなる、金融のネオコロニアリズム(新植民地主義)を見通していたのです。
 池田 「北の大国」の野望に対して、マルティが一人抜きんでて鋭い判断、決断を下すことができたのは、いつに、その透徹した革命観によるのではないでしょうか。
 先の「ステック・ホールの講演」で、彼は当時の利権政治を批判したあと、こう述べています。
 「しかし、このようなつまらないことを思いめぐらすのはよしましょう。(中略)私たちは、名誉と生死にかかわる第一義的問題を、押し並べて経済問題にしてしまうような人間ではないからです。名誉と生死にかかわる問題を解決しないかぎり、私たちの息子に天井はなく、私たちが存在する目的も、私たちの骨を納める熱い墓もないのです」(青木康征訳、『選集』3所収)と。
 米州諸国会議のころも、私利私欲に目がくらんで、スペインに替わりアメリカ合衆国を“宗主国”に仰ごうとする併合主義など、多くの意見が混在していました。
 そうしたなかで、マルティの先見性が光っているのは、何といっても祖国の独立、解放こそが、キューバ人の人間としての尊厳を守るための第一義的課題であることを、彼が骨身にしみて知っていたからでしょう。
 ヴィティエール それにとどまらず、マルティにとって、その冬の最大の苦悩は、キューバに対するアメリカ合衆国の、ジェファソンの時代以来の密かな目論見に気づいたことでした。
 その目論見とは、キューバを買い取る、それが不可能であれば、かねてから欲してきたように、いわゆる“そうなる定め”という論理によって、何としてもキューバを占拠しようとするものです。
 そこで一八八九年の十二月に、もっとも親しくしていた協力者ゴンサーロ・デ・ケサーダに対して、次のようにしたためています。
 「ゴンサロ、祖国についていままで知られていたのとはちがった、不可解な計画がたてられています。それは島内をむりやりに戦争にかり立てようとする不当な計画です。その計画者はキューバ島に介入する口実をつくり、調停者や保証人と見せかけて居すわろうとしているのです。自由な国民の歴史にこれほど卑劣な行為はございません。これほど冷酷な不正行為もございません」(前掲『キューバ革命思想の基礎』)

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