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日蓮大聖人・池田大作

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2 民衆の教師――対話と行動の戦人  

「カリブの太陽」シンティオ・ヴィティエール(池田大作全集第110巻)

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1  偉大な民衆指導者が放つ人間性の光彩
 池田 一九九九年九月三十日、貴国のプリエート文化大臣を東京にお迎えし、親しく語らいました。
 そのとき、話題の中心になったのも、マルティの卓越した精神性でした。
 大臣から「ヴィティエール博士も、この対談を非常に喜んでいました」との報が伝えられ、私にとっても、このうえない励ましです。
 対談もようやく道半ば、ここで、肩のこりをほぐすようなつもりで、少々、具体的な点についてお聞きしてみたいと思います。
 鋭く、そして慈愛の温光をたたえた眼差し。強固な精神力を物語る、引き締まった頬。あふれ出る大感情を押し隠すかのような口髭……。手元にある、いくつかのマルティの肖像を見ていると、私には、創価学会の創立者である牧口常三郎初代会長の面影が偲ばれてなりません。
 初代会長は、幾多の庶民に勇気と希望の炎をともした、
 偉大な民衆指導者でありました。
 “キューバの使徒”マルティもまた、すばらしい人格の芳香を放つ指導者であったのではないでしょうか。
 そこで、マルティの人間性の光彩に思いをはせつつ、いくつか素朴な質問をさせていただきます。ややアトランダム(思いつくまま)になりますが、日本の読者のマルティ理解のためにも、資料の残る範囲でお教えいただければ幸いです。
 ヴィティエール マルティに対して寄せられる関心事ですので、喜んでお答えいたします。
 池田 写真を見ると、マルティは意外と背は高くない。背丈はどれくらいだったのでしょうか。
 ヴィティエール 彼の服の仕立屋がとっていたメモによると、五フィート六インチ(約一六八センチ)です。
 池田 髪の毛は何色でしたか。瞳の色は。また、肌の色はどうでしたか。
 ヴィティエール 髪の毛は黒く、瞳は茶褐色で、肌の色は白でした。
 池田 あの髭は何歳ごろから生やしたのですか。(笑い)
 ヴィティエール 髭を生やしている初めての写真は、一八七二年、スペインのマドリードで、フェルミン・バルデスとエウセビオ・バルデスと一緒に撮影されたものです。十九歳でした。
 池田 声は高かったのか低かったのか。どちらかというと、温かい声であったのでしょうか、理知的な声であったのでしょうか。
 ヴィティエール 声は高くもなく低くもなく、中間の声域でした。ベルナルド・フィゲレドは「ビオラとオーボエの間」と言っています。
 演説するときは金属的な音色になりました。いつも理論武装していましたが、彼の演説は基本的に情緒に訴えるものでした。
 池田 右利きでしたか、左利きでしたか。
 ヴィティエール 右利きでした。
 池田 お酒はよく飲んだのですか。
 ヴィティエール 食事のとき、マリアニという薬効のあるトニックをいつも飲んでいました。飲んでよいときはキャンティ(イタリア産)やトカイ(ハンガリー産)のテーブルワインを、ほどよく楽しんでいました。もちろん、アルコール中毒になるほどではありません。
 池田 演説のさいは、ジェスチャーをまじえるほうでしたか。
 ヴィティエール 演説のさいのジェスチャーは控えめでした。
 池田 感情を顔に出すほうだったのですか。
 ヴィティエール 感情は顔に出すほうでした。
 池田 持病はありましたか。
 ヴィティエール 収容所で損傷(睾丸瘤腫)を受けたほかに、晩年には肺を患いました。
 池田 よく笑いましたか。
 ヴィティエール あまり笑うほうではありませんでした。
 たった一枚だけ、息子を抱いて微笑んでいる写真があります。一八七九年にハバナで写されたものです。
 池田 ユーモアのセンスはどうだったのでしょうか。
 ヴィティエール いくつかの印刷物に表れているとおり、洗練されたユーモアのセンスの持ち主でした。人間のもろさを極端に非難するべきではないと考えていました。
 池田 何か癖はありましたか。
 ヴィティエール 彼の癖は、写真でも見受けられるように、“手を軽く握る”ことです。
 池田 一日どれくらい睡眠をとっていましたか。
 ヴィティエール 睡眠時間については、彼自身が、「キューバが解放されない間は、五時間です」と答えています。
2  なぜ“使徒”と呼ばれたのか
 池田 また、博士は、キューバの貧しい庶民階層から、マルティのような大いなる人格が育っていった一番の要因は何であったとお考えですか。
 ヴィティエール 私の答えは十分な説明になりえないかもしれませんが、私たちが“天分”と呼ぶ能力の持ち主であることを、何人にも首肯させずにはおかない神秘性とでも言ったらよいのでしょうか。
 マルティについては“使徒としての天分”でしょう。
 池田 なるほど。
 日本語の“天分”という言葉には、天から授かった性質、生まれつき具わっている性質といった意味が含まれています。
 いずれにせよ、それは人間が自由にしようと思ってもどうにもならない宿命性のニュアンスをおびており、その背景には、人知を超えた“大いなるもの”“永遠なるもの”への畏敬の念が横たわっています。
 そうした謙虚さを失ったところに、近代人、近代的知性の傲慢さがあるわけですが、そうは言っても、健全なる常識のなかには“天分”や“天職”“天命”といった言葉の含意は、必ず生きているものです。
 ヴィティエール なるほど。
 ところで、なぜマルティの支持者たちは、いやむしろ信者と言うべきかもしれませんが、彼を“使徒”と呼び始めたのでしょうか。
 たしかに彼自身が、福音書にある言葉を用いることが好きでしたし、しばしば使徒たちの禁欲的な生き方を賞賛していました。
 また友人宛ての手紙の中で、自分自身の革命家としての行動様式について説明しながら、「心の中に福音書、眉の間に節度、両腕と裸形の魂は求める人に」「憐愍は選ばれた魂の証」と言っていますし、「人間には、胸に湧く同情心や、目に浮かべた涙で心を動かしてくれたり、寛大な心でこのうえない善行を行わせてくれる人が、しばしば必要なのだ」と洞察したりしています。
 このような意識で見れば、引用文はさらにふえていくでしょう。それらに共通して認められるのは、キリスト教が彼の思想の根であって、鞭をもって神殿から商人を追い払ったキリストを忘れていない、ということです。
 池田 神殿の主は神であって、商人ではない――弟子たちに対するイエスの厳しい戒めですね。
 ともすれば利害にとらわれ、栄誉栄達に流されやすいのは人間の常ですが、そうした勘違い、価値観の転倒への戒めは、高等宗教に共通のものと言えそうです。
 日蓮大聖人は、京の都に上ったある弟子が、公家の持仏堂で法論したことを得意げに報告したのに対し、その心根を厳しく戒めています。
 「最高の法門を持った身でありながら、たかが島の長に仕える者たちに『召された』とか『面目を施した』などといって喜ぶのは、日蓮を卑しんでいるのであろうか。総じて日蓮の弟子は、京に上ると、天魔がついて正気を失ってしまうのだ」(御書一二六八㌻、趣意)と。
 京風に媚びる弟子の醜態は、宗教的信念を捨て去り、世俗の権威におもねる堕落の姿以外の何ものでもなかったのです。
 ヴィティエール 相通じていますね。
 ここで特筆すべきことは、マルティのような人間にとって決定的なものは、思想だけでもなく、理念だけでもなく、彼の言葉が放射するものや彼の行動そのものだったのです。
 ゴメス将軍は、こう証言しています――「マルティは魔術師で、あらゆることを言葉で実現した」。
 ルベン・ダリーオも認めていますが、ディエゴ・ビセンテ・テヘラは、こう語っています――「マルティの打ち解けた話を聞いたことがない人は、人間の言葉には魂を奪うほどの強力な影響力が存在していることがわからない」。
 ある田舎の貧しい男が最上の賛辞を贈っています――「わしらにはマルティのことはわかりませんが、あの人のために死ぬ用意はできております」。
3  言葉の響きから伝わる人生の“真実”
 池田 あなたは著書の中で、スペインの詩人ミゲル・デ・ウナムノがマルティを評した「彼のスタイルは預言者的であり、聖書的であった。弁舌に優れていた。イザヤやキケロよりも、だれよりも優れていた」との言葉を引用しておられます。マルティの声の響きは、
 そうした抗いようのない魅力をもっていたであろうことは、私も十分推察できます。
 また、人生の“真実”とは、ぎりぎりのところ、そうした肉声を通してしか伝わらないものです。ですから、仏教においても「耳根得道」(耳から法を聞いて道を究めること)と説いているのです。
 ヴィティエール フロリダにあるタバコ工場の労働者たちがマルティを信奉し、心からつき従っていったことの証としては、彼らが贈ったアルバムを読めばそれで十分です。
 また、(だれかが)敵意に満ちた手紙を彼に送りつけたことを謝罪するため、キューバの女性労働者たちは、言葉に尽くしがたいほどの敬慕の思いをこめて、彼にぴったりの言葉――貝殻をはめこんだ「十字架」を贈っています。
 マルティを毒殺しようとしたある裏切り者が、彼と会話したあと、泣きながら立ち去っていき、解放軍に身を投じたこともありました。
 ソテロ・フィゲロアとフェルミン・バルデスは、とりわけニューヨークで、
 マルティが貧しい人々や不幸な人、卑しまれている人や苦しんでいる人、病人などに思いやりをこめた心遣いを示していたことを証言しています。このような話を聞くと、同市でかつて先駆者のフェリックス・バレラ神父が黙々と義務に精励していたことを思い起こします。
 池田 マルティは、訪れたいずこの国でも、感動と敬意をもって迎えられています。追放先のスペインでも、メキシコでも、グアテマラでも、ベネズエラでも、そしてニューヨークでも……。彼の行くところ、心から慕い、尊敬するたくさんの民衆が喜々として集い、その思想を吸収しています。
 こんなエピソードも聞きました。
 ――ニューヨークで、彼が演説を終えて友人と街を歩いていたとき、貧しい黒人の労働者が近づき、銀の鉛筆入れを差し出しながら親しみをこめて言った。「ホセさん、ホセさん、これは私からのささやかなお土産です」と。
 「見てください」。マルティは友人に語った。「これら貧しい葉巻職人の素朴さを。彼らは、貧しいわが祖国の解放のために私が苦しんでいること、闘っていることに気づいているのです」と――。
 万人を魅了してやまない、民衆指導者マルティの人となりが彷彿とさせられます。
 ヴィティエール マルティはつまるところ、偉大な人物の究極の謙虚さと、言葉の天分、洞察力、深い思考力、政治家としての能力、使命感の強さを具えた人物だったのです。
 あくなき善の戦人であった点は特筆すべきでしょう。幼子たちや恵まれない人たちに語りかける術を知っていました。

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