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日蓮大聖人・池田大作

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1 使徒と民草――無限の活力への信頼  

「カリブの太陽」シンティオ・ヴィティエール(池田大作全集第110巻)

前後
1  キューバ国民の“永遠の導き手”
 池田 第一章「迫害と人生」に続き、ここからは第二章として、二十一世紀こそ何としても民衆が主役にならねばならない、との願いをこめて、「民衆と共に」と題し、語りあっていきたいと思います。
 民衆と共に生き、民衆のために闘い、民衆のための闘争に殉じた“革命の使徒”マルティ――。フィデル・カストロ議長は、マルティ没後百周年を迎えた一九九五年、あるインタビューに答えてこう述べられています。
 「今日のマルティは、すべてのキューバ人の目にはとても巨大なマルティである。マルティの死で人々は苦しんだが、当時の仲間たちでさえ彼の名声、才能、影響力、感情の偉大さがわかっていなかった」
 「しかしその後、日毎に巨大なものになっている。それは成長している木、成長している手本、その日に播かれた種であって、その日に消えたものではない。
 それは一粒の種のように芽を出し、成長し、実をつけ始めた」(前掲『椰子より高く正義をかかげよ』)
 マルティの精神は、今日なお、貴国キューバの大地で生き生きと成長し続けている――と。
 ヴィティエール この対談の冒頭でも若干ふれましたが、折あるごとに、フィデルは、畏敬の念をこめて、マルティについて言及してまいりました。モンカダ兵営襲撃二十周年を記念して行った演説での、フィデルの言葉を思い起こします。
 「彼(マルティ)が革命を訴えたなかにこそ、われわれの武装行動の道徳的基盤と歴史的正当性がありました。だから、彼が七月二十六日(兵営襲撃の日)のシナリオを書いた張本人であるとわれわれは言い放ったのです」
 また、“キューバの使徒”に関する文芸批評(全四巻)の序文として、フィデルが次のように書いたことも思い出されます。
 「マルティは、われわれ人民の永遠の“導き手”であり、これからもそうである。彼の遺訓は、絶対に色あせない。未来に向かって前進すればするほど、彼の革命精神と、他の諸国民に対する連帯の心を促す力と、正義と人間主義に深く根ざした道徳的行動原理を形成する力は、ますます大きくなる」と。
 池田 まさに、精神的支柱なのですね。そこでここからは、とくに民衆との絆にスポットを当てながら、マルティの思想を浮き彫りにしていきたいと思います。
 ヴィティエール 結構です。
2  民衆――磨かれざる“原石”
 池田 かつて私は、「民衆」と題する一詩を詠みました。
 「水平線の彼方
  大いなる海原のうねりにも似た民衆
  よろこびも 悲しみも
  轟々と雪崩をつつみながら
  今日も何かに戯れながら
  共々に生きゆく民衆
  本来
  民衆の叫びと強さを 超えたものはない
  本来
  民衆の英知の歩調を 凌いだものはない
  本来
  民衆の正義の旗に 勝れるものはない
  だが これまで
  そして今も――
  民衆の 民衆のための歴史は
  受難と窮乏の涙で綴られてきた」
 「民衆よ――
  君こそ 現実だ
  君をはなれて 現実の世界はない
  時代は真の民衆運動を
  祈り待っていることを忘れまい
  君こそ――
  すべての者が流れ入る大海であり
  すべての者が 混沌のなかから
  新しき生成のために鍛練される
  熔鉱炉であり
  坩堝であることを忘れまい
  そして すべての者の
  真正と邪偽とを峻別する
  試金石であるのだ
  科学も 哲学も
  芸術も 宗教も
  あらゆるものは
  民衆に赴くものでなければならない
  君のいない科学は冷酷――
  君のいない哲学は不毛――
  君のいない芸術は空虚――
  君のいない宗教は無慙――」……。
 やや長くなりましたが、
 偉大な可能性を秘めた民衆への呼びかけを、賛嘆の心をこめて歌ったものです。
3  ヴィティエール あなたが詠まれた詩「民衆」の中でたいそう豊かに、かつ美しく表現されているものにふれて、私は、一九五九年一月のキューバ革命勝利のときを思い出しました。
 大部分が農民によって構成されている反乱軍がハバナ市に到着すると、待ちかまえていた群衆が駆け寄り、入り交じって抱擁しあったのです。私にとって、一種忘れがたい感興で、「顔」という表題の詩を書きました。その詩篇の最後の部分が、あなたの作品と似ているように思えるのです。
 「ぼくの祖国の
  永遠の
  不死の
  生気を放つ顔は
  ぼくたちを解放するためにやってきた
  このつつましい男たちの顔のなかにある
  ぼくは彼らの顔を見つめる
  飢えや渇きを癒してくれる唯一のものを飲み
  食べるかのように
  ぼくは見つめる
  ぼくの魂を真実で満たそうとして
  なぜなら彼らは真実そのものなのだから
  なぜなら
  本にでもなく
  詩にでもなく
  風景画にでもなく
  記憶にでもなく
  この農民たちのなかに祖国の本質が確認されるのだ
  祖国が蘇生する日であるかのようだ」
 池田 なるほど。発想の起点は同じですね。新しい時代の幕開けを目の当たりにしている、博士の魂の高揚が伝わってくるようです。
 私は、多くの場合、民衆は磨かれざる“原石”のようなものであると思っています。俗に“賢にして愚、愚にして賢”といわれますが、欲張りで、移り気で、弱虫で、長期の展望をもつことが苦手で……といった人間性の悪弊と、民衆もまた決して無縁ではありません。
 しかし、そうした悪弊を削り落とせば、民衆は内奥にダイヤモンドの輝きを秘めた“原石”なのだ、ヴィクトル・ユゴーがパリの薄汚れた浮浪児のなかに見いだしたごとき「非腐敗性」の持ち主なのだ、と見抜くことこそ大切です。
 ヴィティエール 大事な視点ですね。

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