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日蓮大聖人・池田大作

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5 永遠の生命観――生も歓喜、死も歓喜…  

「カリブの太陽」シンティオ・ヴィティエール(池田大作全集第110巻)

前後
1  「つねに太陽に向かう」透徹した楽観主義
 池田 私は、人間の生き方は、大別して「太陽に向かう」か「湿地帯を好む」かの二つに分かれると思っております。
 現代のような世紀末の混乱のなかで右往左往しながら、人々は、ともすると閉塞感におちいり、嫉妬や愚痴、中傷などに支配された「湿地帯を好む」生き方に傾きがちです。
 それだけに私は、マルティが体現していた「つねに太陽に向かう」という、時代を貫いて底光りのするような楽観主義が、ことのほか尊いものに思えてなりません。
 マルティの生涯は、苦闘の連続でありました。
 しかし、マルティの周りにはつねに、澄みきった青空のような明るい輪が広がっていたように推察されます。たとえば食事にしても、友人と一緒にとるようにし、楽しい会話とともに味わったといいます。
 「意志」の人に悲壮感は無縁です。
 彼の言葉からは、かのマハトマ・ガンジーにも似た、強き楽観主義が響いてきます。
 「勝とうと挑戦する人は、すでに勝利している」
 「私にとって敗北は無縁のものだ。節制、献身、そして殉難はあっても、決して敗北はない」
 また「頭を垂れるより、頭を上げたほうがはるかに美しい。人生の打撃にくじけ、地に横たわるよりも、あきらめずに歯向かっていくほうが、はるかに美しい」とも。
 私どもの宗祖である日蓮大聖人も、どんなせっぱつまった状況に置かれても、つねに余裕と希望を見失うことのない、透徹した楽観主義を貫かれました。
 マルティは、物事の成否を決める第一の要諦は「己に勝つ」ことにあること、東洋の諺にいう「山中の賊を破るは易く、心中の賊を破るは難し」ということを知悉していたようです。
 ヴィティエール あなたは、マルティと日蓮との相関性を、それとなく思い浮かべられたなかで、マルティの卓越した楽観主義を感じとられていますが、その正確さに、キューバ人として、私は非常に感激しています。
 「『人間性の本源的一体性』ともいうべきもの、とりわけその最高の事例を、マルティのなかに見いだす」と、私の父は主張していました。ここでは、その「人間性の本源的一体性」という信条について語りあいたいと思います。
 当然といえば当然なのですが、ユネスコ(UNESCO・国連教育科学文化機関)は一九九五年を、世界的に「ホセ・マルティ没後百周年の記念の年」とすることに決定し、他の二人の近代的精神の指導者とともに、彼の名前を連ねました。
 他の二人とは、たいへん異なる環境から出現した、マハトマ・ガンジーと、マーチン・ルーサー・キング牧師です。キング牧師はうぬぼれではなく、心から自分のことを“正義の大太鼓”と呼んでいました。
 池田 なるほど。ガンジーやキングの推し進めた非暴力の運動と、武器を取って立たざるをえなかったマルティの闘いとは、外形的に見ると必ずしも同じではないことは前にもふれましたが、マルティの精神性の深部――おっしゃるところの「人間性の本源的一体性」の次元では、驚くほど近似しており、魂同士が共振していることは、私にも十分理解できます。
 ヴィティエール 深いご理解、ありがとうございます。
 自分が担わざるをえず、しかもいまだに危機的状況に置かれている歴史的課題に、マルティは“使徒”のごとく取り組みました。
 それ以上に、“正義の人”マルティの精神的メッセージは、あなたが「時代を貫いて」とおっしゃっているように、彼自身を取り巻く時代と状況を超えて、人類のはるかな過去と結びつき、未来に向かって投げかけられていることは疑いを入れません。
 それらは、次のような彼の大きな願いのなかに暗示されており、私たちに根本的な倫理性や純粋な道徳的誠実さを気づかせてくれるのです――「ぼくは善良な人間である。善良だから、太陽に顔を向けて死ねるだろう!」と。
 インドやアメリカの宗教文化の中心を占めている「太陽」は、彼にとって普遍的な愛の象徴以外の何ものでもありませんでした。
2  愛の戦士――人生最終章の勝利
 池田 じつは、宗祖である「日蓮」の「日」は、太陽を意味しているのです。日蓮仏法は「太陽の仏法」です。「太陽」は、何があっても希望と勇気を見失うことのない“向日性”の生き方を象徴しています。
 ともあれ、マルティは、その純粋さ、誠実さゆえに、つねに面を上げ胸を張り、太陽を仰ぎながら、人生の勝利の頂へ、まっしぐらに進んでいったのでしょう。
 「人間の精神には、黄昏は存在しない。否、光の冠をいただいた目標のみが存在する。
 山の先端は頂上である。嵐が海面を波立たせて、空に向かって高く突き上げられた先端は波頭である。樹木のそれは樹冠である。人生もまた頂点で終わらなければいけない」との、いかにも“正義の人”のメッセージに似つかわしい彼の言葉は、つねに太陽に向かいゆく人の真骨頂を表しています。
  精神の名に値する精神をもつことができるのは、“自分に勝つ”というもっともむずかしい闘いに勝利することのできた人、すなわち真の楽観主義者だけである。その楽観主義者には、人生最終章の勝利が約束されているのだ――そうしたマルティの達観が伝わってくるようです。
 ヴィティエール また、マルティは、「秋のうた」の中で次のように言及しています。
  「愛を憎む者だけを打て!
  他の者に速く手をさしのべよ!
  人間はすべて愛の戦士なのだ。
  うつし世のものみな進みゆく
  天を統べる主の愛を
  抱かんとして――」
 ガンジーやキングのような人々が、外見の違いこそあれ、愛を勝ちえたのだということを、私たちが感じとることができたならば、彼らもまた、やはりマルティと同じように愛の戦士であり、愛の確信をもっていたということであり、胸が安らぎます。
3  敵をも味方に変える人格力
 池田 彼らの透徹した愛、万人を包みゆく広々とした境涯が感じられます。
 「人間はすべて愛の戦士なのだ」というマルティにとっては、前(四九㌻)にもふれたように闘いといっても、詮ずるところ、人間の結びつきの一つの表れだったのでしょう。そうした達観に裏打ちされていなければ、闘いは、報復に次ぐ報復を生み、憎しみの連鎖をもたらすだけです。
 この達観こそ、マルティが、ガンジーやキングと共有していたものでした。
 マルティが、アメリカのタンパ(フロリダ州)にある、同志のパウリーナ・ペドロッソ夫妻の家に住んでいたときの有名なエピソードを思い起こします。
 ――ある夜、マルティを監視していたスパイが、家の扉を叩いた。用心深く扉を開けたパウリーナは、それが敵だと気づくと、大きな声で「マルティは、ここにはいない」と告げます。
 目を覚ましたマルティは、事の経過を聞くと「ここにいると言ったのかい」と尋ねる。「いえ、いないと言いました」と答える彼女に、マルティは、こう言うのです。
 「そうか、それは真実を言うべきだったね。その男たちは、今日は私の敵だが、明日は私の最良の味方にしていくだろうから」と。
 敵をも味方に――マルティの雄大な人格の一端を見る思いがします。
 ヴィティエール マルティは、自分を毒殺しようとした(マルティは実際に毒を盛られ、胃をひどくやられていました)キューバ人と話しあいをもった事実が知られています。
 その男は、泣きながら(話しあいをもった)部屋から出てきた。その後、マルティたちの解放軍に入隊を希望し、軍隊における階級章も与えられました。
 しかもマルティは、その男の名前が知れわたることを固く禁じているのです。
 池田 すごい感化力ですね。じつは日蓮大聖人にも、敵を味方にしていくマルティの話と響きあうエピソードがあるのです。
 権力者の策謀による斬首の危機を脱した大聖人は、一時、幕府の役人の屋敷に身柄を移されます。屋敷に着いた大聖人は、なんと、ご自分を護送してきた武士たちに酒をふるまい、役務の労を温かくねぎらっているのです。
 “罪人”であるはずの大聖人の、あまりにも深く大きな人間性を目の当たりにした強者たちは、すっかり心を打たれてしまいます。帰り際には、頭を垂れ、手を合わせて「これまで、あなたを憎んできましたが、お姿を拝見していて、あまりの尊さに考えを改めました」と、その場で帰依を誓う者さえいたといいます。
 相手の偏見や憎悪さえも、一八〇度覆し、たちまちのうちに共感者に変えてしまう、優れた感化力、人格力――。これこそ、
 偉大な人間主義者に共通する「ソフトパワー」の真髄ではないでしょうか。

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