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日蓮大聖人・池田大作

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2 師弟――限りなき向上の軌道  

「カリブの太陽」シンティオ・ヴィティエール(池田大作全集第110巻)

前後
1  「師弟」を貫かずして偉大な人生はない
 池田 前に、カストロ議長の「マルティへの敬慕」のくだりでも少しふれましたが、「師弟愛」について考えてみたいと思います。
 今の社会の乱れの根っこには、「教育の空洞化」があると思いますが、その大きな要因として「師弟愛」の崩壊があると思うからです。
 偉大な人生は、必ず“師弟”に貫かれているものです。
 マルティは十二歳のとき、中学校の校長であったメンディーベ先生と出会いました。この師によって、文学・芸術・科学・歴史への関心が目覚め、キューバの運命を考えるようになったとうかがっています。
 マルティは、師メンディーベに深い感謝を捧げています。
 「多くの苦しみがありました。しかし、私には、それらの苦しみを毅然と耐え抜いたという確信があります。
 これだけの力が発揮できたのは、そして『真の人間になるだけの力が自分にはある』と実感できるのは、すべて先生のおかげです。また、これまでの私の人生に喜びや愛情があったのは、すべて先生の力によるものです」と。
 ヴィティエール メンディーベは、マルティの師であるだけでなく、保護者でもありました。
 マルティは、家が貧しかったため、メンディーベの援助がなければ勉強を続けることもできませんでした。
 また、かたくなな父親との衝突による“心の危機”を克服することもできなかったでしょう。
 その父親のかたくなな心も、刑務所に収容されている息子の足の傷を見て、内深くひそませていた愛情をあらわにするのですが――。
 池田 思い出しました。あなたは著書の中で書いていましたね。
 「形が崩れた息子の足」を見て、父親が悲痛な思いを語る――この部分こそ「小冊子のなかで象徴的に語られている、もっとも感動的なエピソードである」と。
 マルティは、メンディーベ先生の中学校に住み込みます。学校の仕事を手伝いながら、学んだわけです。
 メンディーベ先生も、利発で勉強熱心なマルティ少年に、非凡な才能を見いだしていく。やがてマルティは、先生の家族の一員のように遇され、多くの時間を先生とともに過ごすようになります。
 マルティは師メンディーベから、すべてをみずみずしく吸収していきます。
 言論の力、語学の必要性、そして他者への慈愛、行動の重要さ、さらに、悪を憎む正義の魂と、
 民衆解放へのひたぶるな情熱――。
2  「人間の種を蒔く」ことを好んだ賢人
 ヴィティエール メンディーベがマルティにあたえた影響について話すとなれば、メンディーベ自身の師であったホセ・デ・ラ・ルス・イ・カバジェロについても言及しなければなりません。
 カバジェロが教えた学校コレヒオ・デ・サルバドルは、キューバの精神文化の故郷です。「第一次独立戦争」(一八六八年―七八年)を開始した愛国者たちの多くが、ここで学び、あるいは伝説的ともいえる、この学校の波及を受けて教育されたのです。
 カバジェロ自身は革命家ではありませんでした。しかし、奴隷制度の構造的不当性を感じとっていた特別の階級に属する人物でした。
 マルティは「人間の種を蒔く」と言いましたが、カバジェロは同じように、本を書くより「人間の種を蒔く」ことを好んだ賢人でした。福音書の精神と教皇の破門状をもった“世俗の説教師”として、祖国を救出する基盤を黙々と築いていたのです。
 池田 なるほど。師には、そのまた師がおられたわけですね。
 私の師匠の戸田城聖第二代会長には、そのまた師匠である牧口常三郎初代会長がおられました。
 「人間の種を蒔く」とは、いかにもマルティらしい言葉です。
 日蓮仏法でも、教えを説いて聞かせることを「下種」つまり“種を蒔く”と言い、「仏は種をまくがごとく、衆生はそれを受ける田のごとし」(御書一〇五六㌻、通解)と譬えています。
 牧口先生は、学者肌の方でしたが、たんに机上の人ではなく、その話を聞きたいという人がいれば、どんな山間辺地もいとわず、足を運ばれました。
 また、第二次世界大戦中、宗門が軍国主義の圧力に屈し、教義上の妥協を企てたとき、宗祖日蓮大聖人の精神を守って断固それに反対し、宗門から登山の差し止めを命じられました。
 つまり、聖職者から敵視された“世俗の説教師”であったといえます。この点も、カバジェロと共通しています。
 その弟子であるメンディーベは、愛国の詩人であり、ペンの闘士だったのですね。
 ヴィティエール そうです。メンディーベは、スペインの植民地支配に対する抗議者であり、そのために、天才的な教え子マルティが投獄に処せられる少し前に逮捕され、スペインへ追放されてしまったのです。
3  「奥様。私が敵を討ちます」
 池田 師メンディーベが投獄され追放されたとき、マルティは十五歳。多感きわまる年代です。事件はさぞかし、大きな影を投げかけたことでしょう。
 マルティ少年は、残されたメンディーベ夫人を、こう励ましたといいます。
 「心配なさらないでください、奥様。私が敵を討ちますから。どうぞ見ていてください」師の敵を討つ――崇高です。
 たんなる命の奪いあいだとか権力闘争といった次元をはるかに超えて、「師の正義を満天下に示さずにはおくものか」という、厳粛にしてあまりにも人間的な情念でしょう。これこそが、たゆまざる「精神の闘い」の起爆剤であると私は信じます。
 この心こそが、マルティの激烈な「人権闘争の生涯」を支えたのではないでしょうか。
 ヴィティエール その師弟の絆に関しては、さまざまな角度から論じることができます。
 マルティは、フェリックス・バレラ神父――マルティが生まれた年に亡くなっていますが――によってサン・カルロス神学校(ハバナ)で開始された、「愛国の伝統」の継承者であり完成者でした。
 マルティは一八九一年、“セスペデスの行進”を進めながら、メンディーベ先生のことを思い起こしています。
 もっとも忘れがたかったのは、メンディーベ先生が「キューバの処刑台で命を落としていった者たちについて話すとき、激高して椅子から立ち上がり、顎鬚をふるわせていた」ことでした。
 師の正義の怒りは、弟子のなかで浄化され、マルティは勇気をもって革命闘争を呼びかけ、組織していきます。
 解放のためには、もはや決起以外に選択の余地はなかったのですが、それでもマルティにとっては「人に憎しみを抱かない」というのみでなく、すべての人々が――目前の敵も隠れている敵も含めて――恩恵を受けられる、建設的で同志愛にもとづいた戦争でなければならなかったのです。

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