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日蓮大聖人・池田大作

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生死の流転思想  

「内なる世界 インドと日本」カラン・シン(池田大作全集第109巻)

前後
1  池田 生命の尊厳が、社会、文化の根本でなければならないということは、洋の東西を問わず、だれでもが認めるところです。しかし、生命の尊厳の内容については、東洋と西洋とで、大きい相違があるように思われます。
 基本的にいって、西洋では生命の尊厳といっても、人間のみの尊厳であるといってよいでしょう。その原因は、西洋思想の源泉の一つである聖書において、天地創造の神が人間を最後に作り、他のあらゆる生き物を支配する権利をあたえたとしているところにあるように思われます。
 それに対し、東洋では、人間と他の動物とは融合していくべきだとする考え方が伝統的に受け継がれてきました。インドでは、とくにそうした考え方が強いといわれますし、中国や日本でも、他の生き物を、人間のもっていない神通力を有しているとして神聖視したり、畏れたりする風潮があります。
 このような東洋的考え方の底流には、仏教で説いている生命の流転観があります。
 すなわち、生命は善悪の業によって、人間に生まれることもあれば、現在は人間であっても、来世は他の生き物に生まれる可能性もあるとされます。したがって、自分の過去世の父や母、兄弟などが、なんらかの動物に生まれていることもありうるわけですから、いかなる動物をも苛酷に扱うことは、はばかられることになります。
 さらに、人間同士も、今は赤の他人であっても、数えきれないほどの生死流転のなかでは親であったり兄弟であったり、夫婦であったり等の関係にあったことが考えられます。そう思うならば、たがいに慈しみあい、助けあっていくことが当然の人間関係でなければならないことになるでしょう。
 このような生命観こそ、私は、あまりにも個人主義的、利己主義的になっている現代人にとって、必要な理念ではないかと思いますが、こうした東洋と西洋の生命観の違いと、それが有する意義について、どのようにお考えになりますか。
2  カラン・シン 一九八六年九月、イタリアのアッシジで珍しい異宗教間会議が開かれ、そこで人間と自然の関係に対する世界五大宗教の態度について突っこんだ検討が行われました。その結果、ヒンドゥー教、仏教、ユダヤ教、キリスト教およびイスラム教のそれぞれの見解を述べた五つの声明が作成されました。ヒンドゥー教および仏教の伝統とセム系の宗教の伝統の間には生命流転の問題に関してはっきりした相違点が存在したものの、これらの宣言がすべて、動植物を含めあらゆる生き物に対する尊厳観が必要であるという点で、ほぼ一致したことはたいへん感銘深いことでした。
 この問題は、神性は内在するととらえる東洋的観点からであれ、あるいはそれは「神の創造」の一部であるとする西洋的観点からであれ、いずれにせよ万物に神性がひそんでいるとする概念のなかに、そのカギがあるように思われます。
 何百万という共産主義者を含め、いかなる宗教的伝統とも特定の関係をもたない人々に対しては、生態学的なバランスを保つことの重要性を強調するという非宗教的な形で、この問題全体を提示することができます。
 事実、アメリカの生態学運動およびヨーロッパの緑の運動は、わずかこの数十年の間に起こってきた運動ですが、人間が地球上の絶対主権者であるとする西洋的な主張が、もっと優しく慈しみ深い考え方からの矢継ぎ早の挑戦を受けつつあることを、かなり明確に示しております。広い視野に立つならば、人類が過去数世紀にわたって西洋文明を特徴づけてきた人間中心の妄想を捨て去り、あらゆる存在に対して賢明で、啓かれた態度をとることがきわめて重要です。
3  池田 ただ、われわれには、この世に生まれる前のことも、死後、この生命がどうなるのかということも、客観的に認識することができません。そのため、これを普遍的な生命観として人々に認めさせることができないわけですが、博士は、人類全体が人間以外の生き物を包含した生命尊厳の思想に目覚める可能性について、どうお考えになりますか。

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