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日蓮大聖人・池田大作

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宝塔と生命の尊厳観  

「内なる世界 インドと日本」カラン・シン(池田大作全集第109巻)

前後
1  池田 『法華経』の説法の中心部分は、虚空会という荘厳、壮大な儀式をもって展開されています。最初、霊鷲山で説法が行われるのですが、地球の半径ほどにも匹敵する高さの巨大な七宝の塔が出現して空中に浮かび、さらに一座の大衆も空中に浮かんで説法や儀式が行われるのです。
 これは一見、不可解に思われますが、そこには、深い意味がこめられているはずです。先に博士もいわれたように、経典には巧みな譬喩が織り込まれ、珠玉のごとき深い原理がわかりやすい形で教えられています。そうした点からすれば、この荘厳な儀式には深遠な意義がこめられているはずだと思うのです。
 日蓮大聖人は、この七宝の塔は「妙法」そのものを表していると教えられています。釈尊の滅後、人々は仏を求める信仰心から、各地に釈尊の舎利を納めた塔を建てましたが、『法華経』が経典としてまとめられた時代はもちろん、こうした素地がありますから、宝塔の出現が説かれたことも十分に納得できます。
 ただし、『法華経』での塔の意味は、いわゆる仏の舎利を納めた塔とは少し趣が違います。というのは、『法華経』においては経巻所在のところに塔を建てよといっており、仏の色身というよりも、教えを記した経典を重んじているからです。
 そのように考えると、多宝の塔の常識を超えた壮大さや虚空での説法というもののもつ意義が、より鮮明になってきます。のちに述べますが、この説法の座では、仏寿の久遠が示され、釈尊は歴史上の釈尊ではなく、真理としての釈尊です。とするならば、それこそ説法がなぜ虚空でなければならなかったかを説明していると思います。大地から離れることは、時間・空間の制約下にある歴史上の釈尊を離れることを意味すると理解できます。
 仏もまた、釈尊に加えて多宝如来、十方分身の諸仏が来集したことは、その釈尊の教えが時間的にも空間的にも無限の広がりをもった普遍的な真理であることを象徴的に表しているといえるのではないでしょうか。
2  カラン・シン 『法華経』には虚空会の儀式が、あっと驚くような描写で語られていますが、まことに興味津々たるものがあります。これを読むと私は、かの雄大なヴィシュヴァルーパ・ダルシャナを思い出します。「多面的世界観」とでも訳しましょうか。これはクルクシェートラ平原の大会戦場でクリシュナがアルジュナに明かした世界観で、ヒンディズムの文献の中でもっとも有名な『バガヴァッドギーター』の最高に劇的な部分をなすものです。
 虚空会と同様、ギーターの世界観もまばゆく輝く、多種多様の側面をもった宇宙に関するものであり、その戸惑うほどの多様性が、一つの深遠な宗教的啓示という形に統一されています。実際、『バガヴァッドギーター』と『法華経』を比較研究したならば、その分野から多くの貴重な資料が得られるのではないでしょうか。
3  池田 さらに、宝塔での釈尊は、歴史的釈尊を離れて、あらゆる衆生の内部にも共通して含まれている仏性の象徴にほかならないと考えます。『法華経』が、舎利塔でなく経塔を強調している理由もそこにあると考えます。釈尊個人が偉大なのではなく、そこに覚知された普遍的真理が偉大なのであり、その真理は宇宙のあらゆる世界に遍満しているとともに、現実の世界でとらえ直せば衆生個々のなかに遍在している仏性にほかならないわけです。
 このように考えると、多宝の塔の荘厳さは生命そのものの荘厳さを示していると結論できるでしょう。それは、まさしく、生命がこの地球に匹敵するほど偉大で、尊厳なものであることを表しているのです。
 日蓮大聖人は、この塔を飾っている七宝は、衆生の生命に置きかえていえば聞法、信受、持戒、禅定、精進、喜捨、慙愧の七つの実践を意味すると教えられています。仏法を求めるこれらの実践のなかに、人間が人間として本来もっている最高の価値が輝きあらわれていくということです。

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