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日蓮大聖人・池田大作

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ミリンダ王と対話の精神  

「内なる世界 インドと日本」カラン・シン(池田大作全集第109巻)

前後
1  池田 西暦前二世紀、アフガニスタンのカーブル地方を支配していたメナンドロス王は、やがて前一四〇年ごろ、西北インドに侵入して「ミリンダ王」と愛称され、民衆から親しまれたといわれます。この前後にはガンダーラからタキシラにかけて、西北インドには四十人を超えるギリシャ人の王が相次いで侵入し、西方の文化をインド世界にもたらしたことが知られております。
 むろん最初は、インド世界への征服者ですから武力を用いたことでしょう。
 しかし、このミリンダ王と仏教のナーガセーナ比丘との対話の記録『ミリンダ王問経』(『ミリンダ・パンハー』)を読むと、いかにもギリシャ人の王らしく、ミリンダ王は対話の精神をもっていたことが理解できます。
 「〈かれは〉賢明、経験豊かで、聡明、かつ敏腕であった。そして過去現在の事柄に関するあらゆる祈祷や儀式を、なすべきときに敬虔に行なった。かれはまた、多くの学問を会得していた。すなわち、天啓書、教義書、サーンキヤ、ヨーガ、ニヤーヤ、ヴァイシェーシカ〈の諸哲学〉、数学、音楽、医学、四ヴェーダ聖典、プラーナ聖典、歴史伝説、天文学、幻術、論理学、呪術、兵学、詩学、指算の十九である」(『ミリンダ王の問い』1、中村元・早島鏡正訳、平凡社)
 『ミリンダ王問経』には、このように紹介されています。元来のギリシャ世界の学問・教養に加えて、王はインド世界の支配者にふさわしく、インドの文化や学問、哲学をも学び取ろうとしたことがうかがわれます。現代の学者によれば、ミリンダ王は、インドの言語も話すことができたようだと推定されています。
 パーリ語の記録によると、ミリンダ王はバラモンや苦行者、それから仏教の僧侶とも積極的に対話を試みたといわれます。
 これは西暦前三二六年にタキシラに来て、裸の哲人カラノスと対話したアレキサンダー大王の故事にならったのかもしれませんが、一般的にギリシャ人の王には、異国の賢者に教えを受けようとする伝統があったようです。
 ところで、こうしてミリンダ王は、インドの哲学者と対論を重ねていったわけですが、なかなか満足できるような相手が見つからなかったといいます。そこに登場したのが、当時、興隆期に向かいつつあった仏教僧団のなかのナーガセーナ比丘でした。もっとも『ミリンダ王問経』の序説の部分には、仏教僧団が、その名誉にかけて、ミリンダ王と対論できる僧侶を探したことが記されています。いわばナーガセーナ比丘は、仏教僧団の“切り札”としてミリンダ王の都に送り込まれたといえましょう。
 当時の都は「サーガラと名づける都」にあったといわれますが、現代の日本の研究者によると、そこは今のインドとパキスタンとの国境近くにあるシアールコットの近くであろうと推定されています。博士の生地であるジャンム・カシミールの、すぐ南にあたります。
 さて、経文によれば、ミリンダ王と対論することになったナーガセーナ比丘は、次のように紹介されています。
 「かれはサンガ(仏教教団)の長、ガナ(弟子集団)の長、ガナの教師であり、その名は世に知られ、名声あり、多くの人々の尊敬をうけていた。また、かれは賢者、学者、智慧者にして聡明であり、博識に富み、巧みな説明家で教養があり、自信をもっていた。多くの知識を聞き知った人、三蔵に通じた師、ヴェーダに通達した人であり、広大な智慧を有し、伝承の教えに通じ、広大な無礙自在の理解力をもっていた。
 また、かれは九部門の師(ブッダ)の教えを会得し保持している人、最高完全なものに達した人であり、勝者(ブッダ)の言葉において教えの精神と〈文字の〉説明とを巧みに弁別した」(同前)
 まさに、当時のインド世界を代表するにふさわしい智慧者であり、哲人であったといえましょう。
 こうして、西方のギリシャ世界の哲人王と、東方のインド世界の仏教僧侶との対論が実現したわけです。その記録は『ミリンダ王問経』の中に二百六十二項の問答として伝えられていますが、記録されなかったものも含めると、三百四項目にのぼったといわれています。その内容はきわめて格調高い白熱の対論となっています。
 記録によると、対論の結果、ミリンダ王は自己の高慢と尊大を捨てて、仏法僧の三宝に対し、いたく浄信を起こすことになった、といわれます。その結果、王は在家の信者となり、ミリンダと名づける精舎を寄進したということです。さらに、その後、国王の位も王子に譲り、出家し修行して阿羅漢の位に達した、とされています。もちろん、これらは仏教徒の側の記録によりますが、現代のスワート地方からは、ミリンダ王の銘文をもつ舎利容器が出土しているという話です。
 インド世界に来て、民衆から愛されたミリンダ王が、ナーガセーナ比丘との対論を通じて仏教の教えに目覚め、熱心な信徒となっていったことは十分ありうることと思いますが、博士は、インドの大地を舞台として展開された、この東西文化の交流について、どのようなご意見をおもちですか。
2  カラン・シン 西洋の歴史家たちは、長期にわたる歴史的調査もせずに、インドの文化と歴史に及ぼしたギリシャの影響を過大評価する傾向があると私には思えます。
 その影響が、多くの点で重要であったことは否定しませんが、広大な国土をもつインドの悠久の歴史のなかでは、その重要性は取るに足らぬものといわざるをえません。
 事実、メナンドロスは、北インドの一地方を統治したにすぎず、はるか南のインド洋まで伸びている巨大なインド亜大陸は、ほとんど彼の影響を受けませんでした。おそらく、このような理由で、メナンドロスは『ミリンダ王問経』以外のパーリ語の著作には、めったに登場しないのです。
 しかし、それはそれとして、ミリンダ王は明らかに、戦場での武勇と、哲学における博識多才というめったに両立しない資質を備えた驚くべき才能の持ち主であった、といえましょう。
 王と仏教の賢者ナーガセーナの有名な問答は、もっと昔にジャナカ王と大賢人ヤージュニャヴァルキアが行ったウパニシャッドの対話を思い起こさせます。相手のナーガセーナ比丘は、博識であったばかりでなく、計り知れぬ智慧を有していたことは明らかです。あなたのおっしゃるとおり、ミリンダとナーガセーナの出会いは、東西哲人の対話がもっとも格調高い形で表れたものです。
 ミリンダ王が、この問答の結果、仏教に改宗したという話は、たしかにありえないことではありません。政治や戦争をさかんに行ってきた人々が、精神的悟りを得た智者にまともにふれたとき、突然、錬金術的な変容を遂げるという例は数多くあります。
 インドとギリシャが相互に影響しあったことそれ自体は、長い東西の対話の歴史において、一つの意義ある出来事です。何人かの学者がこの影響を西洋の観点から研究していますが、どうも彼らはその重要性を強調しすぎるきらいがあります。
 逆に、インドの学者のなかには、その意義を過小評価しがちな者がおります。アーノルド・トインビーのような歴史家は、一方に偏らない公平な見方をしていたように思われます。
 いずれにしろこの問題は、今後、研究すべき分野が豊富に残っており、とくに東洋(つまりヒンドゥー教・仏教)の立場からその研究が進められるべきでしょう。

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