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アショーカ王と西方世界  

「内なる世界 インドと日本」カラン・シン(池田大作全集第109巻)

前後
1  池田 最近のインド古代史研究の進展により、古代インドと西方世界の文化交流が、これまで一般に考えられてきた以上に行われていた事実が明らかになりつつあります。
 もっとも古くは、かのインダス文明とメソポタミアとの間で物資の交易が行われていたことが確認されていますし、その後においても、“文明の十字路”ともいうべき、インダス川の上流、西北インド地方を通って、西方から、さまざまな民族が侵入して、一時的には破壊・殺戮を伴ったものの、インド亜大陸に、新鮮な息吹と刺激を吹きこみました。ちなみに、その代表的な事例を挙げてみると、アーリア民族のインド侵入、アケメネス朝ペルシャのインド侵略、マケドニアのアレキサンダー大王のインド遠征、などがあります。
 インド亜大陸の特徴は、周囲から孤立しやすい地理的条件(北方は世界の屋根であるヒマラヤ山脈がそびえ、東側西側とも海洋に隔てられている)からいって、つねに、唯一の入口たる西北インド地方を通って侵入してくる諸民族、諸文化を受け入れ、これを同化させてきた、ということです。
 もっとも、この特徴は、西暦紀元前後にインドに海から入る航路ができてからは、少しそのルートに変化が見られるにしても、インド亜大陸の文化は概して孤立的であり、交流が行われた場合も、受動的な側面が強いという説があります。
 そのなかで、アショーカ王の西方世界への使節派遣は、積極的、能動的な側面をもっていて、非常に興味深く思われます。
2  カラン・シン インドと西方世界の交流に関するあなたのご質問は重要なものです。その問題は、二つの側面から考察しなければなりません。一つは、一般に用いられている学説では、アーリア諸族は中央アジアから二つの大きな流れをなして移住した――つまり、一つは西方のイランへ、いま一つは南方のインドへ移ったということです。
 ヴェーダ聖典とゾロアスター教のガーサー経典に見られるいちじるしい類似がその証拠の一つとなっています。もっとも不思議なことに、その点に関して十分な研究が行われたことはないのですが――。
 もう一つは、アーリア民族とインド固有の文明の相互影響にかかわる点です。アーリア人が接触した民族は未開人であったとする古い考えは、今日では偏狭で不満足な研究手法であると考えられております。事実、インダス流域文明として知られる広大な遺跡が明らかに示しているように、アーリア人侵入以前のインドの諸民族は、高水準の文化的・経済的発展を遂げていたのです。
 さらに、前二者ほど優勢ではありませんでしたが、重要な第三の要素として、おそらくインダス流域文明の時代以前からすでにインドに住んでいた土着部族がおりました。今日私たちが知っているインド文化は、ヒンドゥー教も含めて、以上三つの大きな流れが創造的に融合した結果なのです。
 以上のことを私が述べたのは、それがインドとそれ以外の世界、とくに西方諸国との関係を理解するうえで重要なことだからです。
 あなたが紹介された「インド亜大陸の文化は概して孤立的であり、交流が行われた場合も、受動的な側面が強い」という意見には、私は同意できません。事実は逆です。インドはつねに重要な通商路の交差点であり、文明伝播の十字路となってきました。受動的どころか、外部からの影響に創造的に反応してきたのです。
 このインドの姿勢をいみじくも言い表したヴェーダの一節があります。「崇高な思想をあらゆる方面から呼び寄せよう」というものです。著名な学者であり政治家であった故ムシン博士は、インド文化の研究ならびに発展のための国際的なフォーラムとして、彼が四十年前に設立したヴァラティヤ・ヴィディヤ・バヴァン(インド学士院)のモットーに、この一節を選定したのです。
3  池田 私が「孤立的・受動的」といったのは、侵略的ではなかったという意味です。インドはその歴史を通して、インド亜大陸から外へ軍を派遣して版図を拡大したことはなかったといってよいでしょう。アショーカ王の残した摩崖法勅から、この大王が、インド国内各地はもとより、西方の諸国にまで使節をつかわしたことは明らかです。大王が使節を送った相手は、西方では、シリア、エジプト、マケドニア等の五カ国の王が確認されています。
 また、ギリシャ人の仏教への接触も、早くからなされ、アレキサンダーのインド遠征の時、その軍隊にいたギリシャ人のなかで、仏教に帰依し、僧侶になった人たちもいたようです。
 その証拠に、スリランカの史書である『マハーヴァンサ』には「ヨーナ人(ギリシャ人)長老マハーダンマラッキタが三万の比丘をつれて、ヨーナ国の都アラサンダーから来た」(『南伝大蔵経』第六十巻、参照)と記し、
 またパーリ語の『サマンタパーサーディカー』には、ヨーナ人ダンマラッキタがパンジャーブ西部のアパランタカ地方へ一つの経典を伝え、同じくヨーナ人マハーラッキタがバクトリアに行って、一つの経典を伝えるとともに多くの人を教化したことが記されています。これらは、アショーカ王の時代に、ギリシャ人の伝道僧が派遣されたことを証拠づける文献として注目されています。
 アショーカ王の西方諸国各地への使節派遣は、それ自体、仏教の伝道使節ではなかったとしても、それを機縁として、西方へ仏教が伝わり、ギリシャ・ローマの思想、哲学、宗教に影響をあたえたであろうことが推測されます。
 実際に、仏教の西方への影響性を示唆するいくつかの事実が最近、発見されています。
 まず、キリスト教が西方で広まる前に、すでに、イギリスに仏教が伝わっていた可能性を暗示する文献があります。それは、オリゲネスの『エゼキエル書註解』に出てくる一節で、「その島(イギリス)ではすでにドゥルイド僧たち(Druid)と仏教徒とが神の唯一性の教えを弘めてくれていたので、そのためにずっと以前から、それ(キリスト教)への傾向をもっていたのである」(中村元『インドとギリシアとの思想交流』、『中村元選集』16所収、春秋社)というものです。この一節中に、ドゥルイド教(古代ケルト人の宗教、ケルト人のイギリスへの渡島は西暦前五世紀に始まるとされている)の僧侶たちとならんで、明確に“仏教徒”の言葉が出てくることからも、西方への仏教伝播があったことは明らかでしょう。
 また、それを裏づける考古学的遺品として、東北イングランドのノーサンバランドの旧ローマ城壁の内部から、ガンダーラ彫刻がいくつか発見されていますし、
 スウェーデンでは小さな仏像が見つかったことが報告されています。
 さらに、時代が下って、「ヘレニズム時代」になりますと、エジプトの国際都市アレクサンドリアを中心にして、仏教が西方の宗教、思想に大きな影響をあたえたことが、今日、確かめられています。
 西暦紀元の少し前に、アレクサンドリアの近くで、ユダヤ教の一分派、テラペウテス派が誕生したのですが、その僧侶たちの生活態度に仏教の影響が認められるといわれています。すなわち、この派の僧たちは、静かな瞑想生活を送り、食物は菜食であったといわれています。
 また、同じユダヤ教の一分派で、西暦紀元ごろに死海の沿岸にあったとされるエッセネ派も、その生活態度などの特徴のなかに、仏教の影響の跡を示すいくつかの重要な特色が見いだされることは、学者の間で認められています。
 さらに、キリスト教についていえば、イエスが仏教の影響を受けて、その教説を展開したとする説は少々極端であるにしても、正統キリスト教から異端として排斥された初期の神学、なかでもアレクサンドリアを中心に起こった神学には、仏教の影響が認められるように思われます。すなわち、グノーシス派の神学、クレメンス、オリゲネスなどの教義がそれです。
 これらの神学には、業による輪廻観や無我の思想、縁起の思想が説かれ、概して一神教的な傾向よりも、汎神論的な方向への展開が見られ、異教徒の存在を認める寛容性に富んだ教えが説かれていて非常に興味深く思われます。
 ところで、不思議なことに、これまで述べてきたような、西方へ影響をあたえた仏教は、原始(プリミティブ)仏教や部派仏教がほとんどで、のちの大乗仏教はあまり西方へ流れていないようです。その理由として、大乗仏教が成立したころにはすでにパルティア帝国(イラン高原を本拠地とし、東は北インドから西はメソポタミアまでを領域とする)が存在していて、インドと西方との交流を妨げていたことが指摘されています。
 この大乗仏教の西方への伝播について、博士はどのように推測されますか。
 それとともに、西暦前三世紀のアショーカ王以来、西暦紀元後にいたるまで、仏教が西方へ浸透したにもかかわらず、なにゆえに西方では、その後、仏教が定着しなかったのかという問題があります。仏教が東南アジアおよび東アジアの稲作農耕民族の国々に定着したことを考えると、なにかそこに風土的な問題が大きく横たわっているようにも思われますが、この点について、博士の所感をお聞かせください。

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