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日蓮大聖人・池田大作

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カシミールと仏法東漸の道  

「内なる世界 インドと日本」カラン・シン(池田大作全集第109巻)

前後
1  池田 あなたの出身地であるカシミールは、仏法の歴史のうえで、きわめて大きな役割を果たしてきました。カシミール地方に初めて仏教が伝えられたのは、アショーカ王の時代とされています。
 仏教徒の伝承によると、仏弟子のアーナンダ(阿難)の弟子で、三番目に法を付嘱されたマディヤーンティカ(末田提)が、アショーカ王によってカシミール国に仏法を伝えるために派遣されたといわれます。このことは、漢訳の『善見律毘婆沙』とか『付法蔵因縁伝・』といった仏典に出ていますが、こうしてマディヤーンティカは、カシミール国の仏教の祖と崇められました。
 その後、中国の史書によると、西暦前一世紀ごろに、長安(今の西安市)からタリム盆地を通って崑崙山脈を越え、カシミール地方からガンダーラ、そして今のアフガニスタンにあった烏戈山離(今のカンダハール周辺)にいたる道が通じていました。中国に伝えられた仏教は、その道を通って来たことが明らかです。
 中国の記録によると、仏教の中国への初伝は西暦一世紀半ばのことですが、とくにさかんになったのは四世紀から五世紀にかけてで、弘教僧が相次いで、カシミールから崑崙山脈を越え、熱砂のタクラマカン砂漠を渡って中国に経典を伝えました。
 まず四世紀の後半、中国では前秦の苻堅王の末年(建元十七年、西暦三八一年)に、カシミールからサンガバタ(僧伽跋澄)が長安入りしました。この高僧は、中国に来てから『阿毘曇毘婆沙』と『婆須蜜経』の二経を訳出し、流布したということです。当時は五胡十六国の動乱時代に入っていましたので、その苦労もたいへんであったと思われます。
 ちょうどそのころ、やはり同じくカシミールから、サンガデーヴァ(僧伽提婆)という高僧が長安に来ていました。
 提婆は跋澄に協力して『婆須蜜経』を訳出していますが、のちに洛陽に赴き、かつて訳された『毘婆沙』を改訳したりしています。その後、揚子江を渡って江南に移り、同じくカシミール出身の沙門僧伽羅叉とともに『中阿含』を翻訳しています。
 五世紀に入ると、カシミール出身のブッダヤサ(仏陀耶舎)が長安入りしています。仏陀耶舎がカシミールからカラコルムを越え、今のカシュガルの宮中で講じていたとき、クマーラジーヴァ(鳩摩羅什)がカシミールに留学して帰国の途次、カシュガルに立ち寄りました。そこで羅什は、仏陀耶舎から『阿毘曇』、『十誦律』を習っています。
 さて、羅什は生国のクチャ(亀茲)に帰りましたが、クチャは前秦の苻堅が派遣した遠征軍によって滅ぼされ、羅什は捕虜となって東方に去り、さらに後秦の王・姚興に迎えられ、長安入りしました。
 仏陀耶舎もこの羅什の後を追って長安入りし、羅什の要請で仏典翻訳に加わり、羅什が古今の名訳をなすのに側面から協力しました。しかし、仏陀耶舎は、羅什が死ぬと、やがてカシミールに戻っています。
 その他、カシミールから中国に渡った僧には、グナヴァルマン(求那跋摩)、ダルマミトラ(曇摩蜜多)などがいます。このように、博士とゆかりの深いカシミールが仏法東漸の要衝に位置しており、多くのカシミール人の活躍があったことを思うとき、歴史や地理上の空間を超越して、不思議な縁を感じます。
2  カラン・シン カシミール渓谷は古来、インドにおいて特別な地位を占めてきました。それは地理的な位置や風光明媚な土地柄というだけでなく、この地方が世界史の黎明期以来、
 数多くの偉大な宗教的・精神的運動を生みだす揺籃の地となってきたからです。
 ヴェーダ聖典は、ヒマラヤ地方で作られ、明らかにカシミールでもヴェーダの覚者たちがブラフマンとその神聖な化身の栄光を讃える讃歌を歌ったにちがいありません。カルハナが著したサンスクリットの傑作『ラージャタランギニー』は、何世紀にもわたるカシミールの歴史をつづったもので、サンスクリット文献の中で数少ない歴史書の一つです。
 ご指摘のとおり中国の資料によりますと、アーナンダの弟子マディヤーンティカが、カシミールにやって来て、神通力で土着のナーガ族を従え、この地に仏教を伝えるのに成功したとあります。彼がカシミールへ来たということは、カシミールの資料からも確認されていますし、また多くの比丘を伴ってカシミールに移り住み、約二十年間この地にとどまったとされています。
 カシミールの歴史はきわめて複雑で、わずかなスペースではその概略さえも述べられません。アショーカ王はカシミールに布教僧を派遣したとされていますし、数カ国の代表によるかの大規模な第四回経典結集がカニシカ王の治世の西暦一〇〇年ごろ、現在のスリナガルの近郊にあったハルワンというところで行われたという伝承が根強く残っております。カシミールは、何世紀にもわたって大乗、小乗を問わず仏教研究の中心地でした。
 大乗仏教最大の人物ナーガールジュナ(竜樹)にも言及すべきでしょう。彼は中観派の始祖であり、南インドのアンドラ・プラデシュ州か、またはカシミールの出身であるとされています。もう一人のサンスクリットの詩人にして仏教の哲人であるアシュヴァゴーシャ(馬鳴)もまたカシミールの人だったと考えられています。
 八世紀にいたり、偉大なヒンディズムの布教者アディ・シャンカラ・アーチャーリヤの名前から想起されるヒンディズムの復興のあと、カシミール渓谷の仏教は衰退し、しだいに消滅しました。しかしながら、ラダク地方においては今日にいたるまで仏教は栄えています。この地方では、グンパとよばれる多数の仏教寺院が建てられ、その多くが貴重な経典類や仏教芸術の宝庫となっています。
 ラダクは今日、ジャンム・カシミール州のなかで特別な地域としての立場があたえられています。ラダクからインドの国会へ一人の議員が選出されますが、この議員は仏教徒でなければならないのです。最近では、スピトゥク寺院の最高位のラマ僧であるリンポチェ・クシャク・バクラ師と古くからラダクを統治している一族の代表ラニ・パルヴァティ・デヴィ氏が、この地区選出の国会議員になっています。
 この問題はカシミールに関する問題ですので、多少説明させていただきます。現在のインドのジャンム・カシミール州は、私の直系の先祖であるマハーラージャシンによって一八四六年に発足しました。私の一族はつねにラダクの仏教徒の問題について特別の配慮をしてきましたが、そのことで興味深い思い出があります。それは一九五二年に私と妻がラダクを訪問したときのことです。私たちは非常に熱狂的で親愛の情のこもった歓迎をうけましたが、じつは私の一族で直系にあたる者がこの地を訪れたのは、その時が初めてだったのです。
 お説のとおり、カシミールはインド・日本間の重要な文化的絆をなしております。もちろん、仏教はカシミールから直接日本へ伝わったのではなく、中国・朝鮮を経由したわけです。しかし、尊い絆は残っています。そして、私たちの対話によって、その絆がなんらかの形で復活し、継続することになれば、まことにうれしいことです。

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