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日蓮大聖人・池田大作

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神話から哲学への推移  

「内なる世界 インドと日本」カラン・シン(池田大作全集第109巻)

前後
1  池田 これまで論じあってきましたように、ウパニシャッド哲学が仏教と同じく、人間生命を宇宙との合一という広大な次元でとらえている点では、非常にすぐれた思想であったと思います。しかし、もし、そうであるならば、すべての人が宇宙と等しい尊厳性をもつはずであり、差別はないはずです。
 にもかかわらず、インド固有のカースト制度は、人間を差別観をもって見るもっとも典型的な考え方とされ、しかもそれはウパニシャッド哲学を生んだインド神話に起源をもっているとされます。
 ヴェーダは「原人(プルシャ)」から万物が生じたが、バラモン(祭司)は原人の口から、クシャトリア(王族)は原人の両腕から、ヴァイシャ(庶民)は両腿から、シュードラ(隷民)は両足から生まれたとしており、ウパニシャッドもそれを引き継いでいるものと思われます。
 もし、この神話を前提とするならば、各カーストの差別はもともと定められたものであり、個人の意志や努力では変えられず、
 人はその生まれついたカーストを受け入れ、それにしたがう以外にないことになります。これでは、ブラフマンとアートマンの合一という哲学から生ずる尊厳観も、現実の人間差別に対抗し、それを超克する何の力ももたないといわざるをえないのではないでしょうか。
 それに対し、仏教では、生命は輪廻を繰り返しながら、そこで各人が自由意志で行った行為が因果の法にしたがって、その報いを生じていくとし、人がそれぞれにもっている千差万別の姿は、このために生まれたとします。
 したがって、ここでは、差別をもって現れている個々の事象もすべて普遍的な法の世界に包含され、その意味で万人は平等となります。そればかりでなく、自己の運命もみずからの行為が原因なのですから、運命に対する主体的権利を各人がもっていることになり、これによって個の尊厳性はより徹底したものとなります。
 因果の法の支配をどこまでも徹していくなら、あらゆる人に無限に前世があったことになり、何かによって創られたり、何かの時に生じたりということはないことになります。
 元来、永遠・無限ということは、きわめて哲学的な思考の産物であって、日常生活の感覚ではとらえがたいものです。世界のいずれの民族が生みだした神話も、この世界や人間の創造劇を説いているのは、このためであろうと思います。ヴェーダが「原人」からの創造を説いているのもその一例であり、ウパニシャッドは、その意味でまだ過渡的段階であったといえるのではないでしょうか。
 これに対して、仏教では、生命が永遠に存在するものであり、始まりも終わりもないとし、つねに因果の法にしたがって転変していくと説きます。
 このような“業”という視点からの、ウパニシャッドから仏教へつながる流れ、関係性のとらえ方、とくにウパニシャッドを、神話的ヴェーダと哲学的仏教思想との間の中継的存在とする考え方に対して、博士は、どのようにお考えになりますか。
2  カラン・シン ヴェーダに説かれる壮大な神話は、いくつかの異なった段階で解釈することができます。もっとも基本的な段階では、太陽系の、いな宇宙それ自体の起源をきわめて直観的・象徴的に表現しています。
 たとえば『リグ・ヴェーダ』に記されている馬の大量生贄は、宇宙創造の過程を示しています。つまり、潜在する至高の力がみずからに制約を課することによって物質という重荷を背負い、その潜在力が光り輝き顕在化していくのです。時代をずっと下った別の段階では、ヴェーダの神話は文明の原初、つまり個人が石器時代の混沌から抜けでて人類となったありさまを表現しています。
 さらに時代を下ると、意識の段階的な進化を表現します。これは『ヒンドゥー・プラーナ』聖典の権化神話にもっとも明瞭に見られます。これらの神話ではヴィシュヌのさまざまな化身が明らかに人類の進化の跡をたどっているのです。つまり生命が最初に誕生した海に始まり、両生類原人の形態を経て人類の形態にいたるのです。
 四姓が原人プルシャから生じたというような、影響力の大きい神話を論じるさいには、そうした段階的な解釈を心にとどめておかなければなりません。神話の意味を文字どおりに解釈すれば、ヴェーダ聖典の非常に重要な要素である、全編にあふれている想像力を見落とすことになりましょう。
 祭司農民の三階級に大別するのはあらゆる社会において、きわめてふつうのことでした。そして、これに土着民を併合して加えれば、四階級から成るカースト制度の卵が早くもできあがるわけです。やがて、おそらく祭司階級が知的な権威を得たことによって、ヴァルナ(カースト)制度がインド社会の永続的な部分となったのです。
 しかしながら、『バガヴァッドギーター』において主クリシュナが「四階級から成るヴァルナ制度は、内なる性癖と外なる仕業を基礎にして創られた」といっていることを想起しなければなりません。これによれば、ヴァルナ制度は必ずしも固定化した体制とはみなされていなかったことになります。もっとも後代になって、いくつかの固定化をもたらす要素が導入されたことは事実ですが――。
 また、インドにおいて最初の大帝国を興したのが、下層カーストの出身とみなされているチャンドラグプタ・マウリアであることも想い起こしてよいでしょう。インド史上のもっとも偉大な聖者や賢人のなかにも、いわゆる下層カーストの出身者が数多くおります。したがって、カースト制度が膨大な人口を社会的に組織化するための一つの方法であったとみなすことはできましょうが、この制度が精神的な悟りや解放の妨げとなったことは一度もないのです。隷民に関するぶしつけな表現の多くは、もともと原典にあったものではなくて、おそらくは後世になってから書き入れられたものと考えてよいでしょう。
 カースト制度は、ヒンドゥー教徒以外の注釈者の間に、多大な混乱をもたらす原因となってきました。理念的にいえば、カースト制度は、異なった段階や性癖の人々が精神的に成長するための媒体を提供するものと考えられていました。
3  世界中の人々は、四種類に大別することができます。
 まずバラモン(指導者階級)がおります。教師法律家・専門職等がそれにあたります。次にクシャトリア(王族)がおります。支配者政治家等がそれです。それからヴァイシャ(庶民)つまり銀行業者農民等がおります。そして最後に使用人・肉体労働者等のシュードラ(隷民)がおります。
 四姓が理念としてもっているはずの資質は、道徳的・知的な性格のものであるということも注目すべき点です。この点でギーターはブッダと意見が一致します。ブッダも「人をバラモンにするのはむき出しの頭髪でもなく、血統でもなく、生まれでもない。真理と正義を具えた人がバラモンなのである」(『法句経』)と述べているからです。
 この点に関する私の所見を終わるにあたって、私はどうしてもヒンドゥー哲学を理解するうえでまことに重要な、グナという概念にふれざるをえません。
 三種のグナ、つまりサットヴァ、ラジャス、タマスがあり、それぞれ純質翳質と訳せましょう。インド哲学の体系においては、これら三種のグナはあらゆる現象にかかわりあっています。そして解脱(モークシャ)の道は、タマスからラジャスへと移行し、それからサットヴァにいたり、最終的にはグナを完全に超越することにあるのです。理想的な人間のことをギーターではグナティータ、つまりグナを超越した者、と呼んでいます。
 カースト制度においては、私心なく純粋で、すべての事象に同一の真理を見る理想的なバラモンはサットヴァ・グナを表象します。なにものをも恐れない
 忍耐強い王族はラジャス・グナを表します。富の創造にたずさわる庶民は欲性、つまりラジャスとタマスが混じりあって、つねに下方へ向かって流れているものを象徴します。人に仕えるために生まれてくる隷民はタマス、すなわちすべての人の道具となる肉体を表象します。
 一個の人間においても、身体のさまざまな器官がこの四段階の秩序を表していると考えることができましょう。知力を表象する頭部はバラモン的要素に、闘争のための器官である両腕は王族的要素に、食物の摂取と配分に常時かかわっている胃は庶民的要素に、つねに身体に仕え、他のあらゆる器官を支えている両脚は隷民的要素に該当するといってよいでしょう。
 ブッダは、その説教の対象を特定のカーストに限定しませんでした。彼が伝統的なウパニシャッドの教師たちと異なっていたのは、たぶんこの点にあったのでしょう。しかし、仏教僧団(サンガ)にカーストがなかったというならば、ヒンドゥー教の遊行托鉢僧団にもやはりカーストがなかったといえます。ヒンドゥー教徒は、僧団の黄衣をいったん身にまとうと、階級的な背景をかなぐり捨てます。そして、もはやカーストを示す称号で呼びかけられることは一切なくなるのです。
 松の林を吹き抜け、すべてを豊かにし、しかも、なにものにも縛りつけられない清浄な山の空気のように、覚者は人の群れの中を動きまわります。彼の住む所が混雑した都会であろうと、あるいは寂しい山の頂であろうと、彼はつねに“家なき人”なのです。なぜなら、たとえ社会的な義務を果たしても、覚者は家族にも、カーストにも、種族にも、宗教にも、一切縛られることがないからです。

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