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日蓮大聖人・池田大作

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輪廻観の起源  

「内なる世界 インドと日本」カラン・シン(池田大作全集第109巻)

前後
1  池田 生命が輪廻するという考え方は、インドではウパニシャッドに始まるとされていますが、ほぼそれと同時期の
 西方ギリシャにおいても、たとえばピタゴラスが、そのような考え方をもっていたということが伝えられています。
 あるとき、ピタゴラスが道を歩いていたら犬がいじめられていた。ピタゴラスが咎めて「やめろ、なぐってはいけない。これはきっとわたしの友人のたましいにちがいない。なき声をきいていると、わたしにはそれがわかるのだ」(『田中美知太郎全集』14、筑摩書房)といったという話です。
 これは、とりたてて理論的に輪廻思想を説いたものではありません。しかし、さりげない言葉でそうした考え方が述べられた事実に、むしろ、この輪廻観が当時のギリシャ人にもいだかれていたことがうかがわれます。
 ギリシャ人とインド人とは、フュステル・ド・クランジュがその著『古代都市』で、古代ギリシャ人の生活や考え方を、古代インドの『マヌ法典』を引きながら、共通の倫理観に立った社会として紹介し分析しているように、また、言語学上でも、ギリシャ語とサンスクリットの類縁性が「インド・ヨーロッパ語族」という概念を生みだしたように、元来が共通の根から出た民族です。
 そうしてみますと、輪廻思想は、なにもウパニシャッドで初めて現れたのではなく、それ以前から、インド・アーリア人の基本的な考え方として流れていたのではないかとさえ思われます。
 ただ、それまでは漠然と考えられていた――ということは当たり前のこととしてあえて問われなかった――のが、ウパニシャッドにいたって、アートマンについて思索が深められるにつれて、明確に意識されるようになった、ということではないでしょうか。
 たとえば、善を行えば知性健康に恵まれた人間に生まれ、悪を行うと不幸な姿に生まれるという考え方が、もともとあったとします。そうしたなかで、行いによって移り変わる生命の奥に、一貫して変わらない存在の核というべきものがあるのではないかと考え、「アートマン」の概念を立てたのがウパニシャッドです。
 そうしたものを想像するには、かなり高度な抽象的思惟を必要としましょう。なぜなら、移り変わる多様な姿は具体的に目に見えますが、不変の核というべき存在は目に見えず、抽象的思惟でしかとらえられないからです。
 ともあれ、そのような不変の核、つまりアートマンの存在を考え始めると、すべての存在は、本来、平等で無差別であるはずだということになります。この無差別な核に対して、差別の種々相がなにゆえ生ずるのかを論ずるにあたって、あらためて古来の輪廻観、業の考え方がとりあげられるようになったのではないでしょうか。
 もちろん、これは、一つの推測にすぎません。私は、この推測を裏づける資料も、逆に否定する資料ももっていません。博士は、このような考え方に対して、どう評価されますか。
2  カラン・シン 輪廻という概念が、世界の偉大な宗教の多くに見られるのは事実です。セム系の諸宗教ですら、死後も霊魂は存続すると信じています。しかし、それらの宗教はただ一度の生のみを仮定しており、その後は霊魂が幾劫もの間リンボ界にとどまって最後の審判を待つのだとしています。
 これに対して東洋の諸宗教では、再生がその哲学全体の中心概念であり、これと密接に結びついているのがカルマ(業)という概念であるわけです。
 “業”の概念を正しく理解することは非常に大切です。西洋の思想家のなかには、“業”とは人間のおかれた状況を宿命的なものとして甘受することにすぎない、という誤った主張をする者もいます。事実はこれとまったく反対です。
 “業”とは、各人がいかなる時点においても、種々の択一的行動様式のいずれかを選ぶ能力をもっており、また事実そうした選択が必要なのであって、各人は自分が行った選択にもとづいて自分の行為の結果を刈り取ることになる、ということを意味します。
 “善”の行為とは無知と激情からの解放を助ける行為のことであり、“悪”の行為とは個人が無知や激情にますますはまりこむ原因となり、それによって究極的な解放をより困難にする行為のことです。
 ウパニシャッドの真髄は、不滅のアートマンという概念と業の概念をうまく結びつけ、それによって個々の人間が道徳的・精神的に発展するための骨組みを生みだすことができた、という点にあります。
 輪廻・業という二つの概念が密接に結びついていることは明らかです。しかし、アートマンの存在の認識が業の概念に先立つものであったかどうかは判定のむずかしいところです。
 私の考えを述べますと、ウパニシャッドの先覚者たちが不滅のアートマンを直接体験したとき、彼らの周囲に存在する現実の不平等を説明するためだけではなく、究極的には悟りにいたる明確な行為の軌道を人類に提示するためにも、業に関する綿密な理論を発展させようという知的要求が生じた、ということです。仏教の立場も、これと非常によく似ているように思われます。

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