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日蓮大聖人・池田大作

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第十六章 微笑の奥に――少年期と人格形…  

「太平洋の旭日」パトリシオ・エイルウィン(池田大作全集第108巻)

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1  池田 人生全体から見ると、少年時代は、梅雨空の日の晴れ間のような、木枯らし月の小春日和の日のような、ほんのわずかの期間のように思えます。一方で、少年の日の出来事は、人生の全体に投影され、骨格を形づくることも事実でしょう。まさしく短くして重い人生の揺籃期です。
 そこで、人生の来し方を振り返り、また行動の底にある原体験を理解しあう意味でも、青年期以前の事柄について話しあいたいと思います。まず少年時代の思い出からお話しいただけますか。
 エイルウィン とりたててお話しするほどの、これといった少年期の思い出はないように思われます。私は、チリの中産階級に属する知的職業人の家庭に生まれました。両親にとても甘やかされて育ったのですが、おまけに七歳から十四歳までひどく病弱でした。
 池田 じつは、私も病弱で、父母に、たいへん心配をかけました。結核気味で、いつも寝汗をかいていました。息苦しくなって目覚めては、手ぬぐいで拭くときの汗は、奇妙にキラキラ光ってきれいでした……。
 病弱だったことで、人生には少なからず影響があったといえるでしょう。
2  少年時代の読書が生涯を決める
 エイルウィン 私の場合、おそらく病弱であったことが、私に多くの読書の時間をあたえてくれたのでしょう。少年時代から思春期の初めにかけての歳月に、私がもっとも感銘を受けた本は、三冊です。一冊は、イタリアの作家のエドモンド・デ・アミーチスの子どもの日記『クオレ』です。二冊目は、ヴィクトル・ユゴーの『レ・ミゼラブル』です……。
 池田 『レ・ミゼラブル』は、私の少年の日の愛読書でもありました。病弱なこともあって、本へ向かうようになったのも、あなたと同じです。
 エイルウィン そうですか。三冊目はチリの作家バルドメロ・リージョの『地下』です。この作家はリアリズムの短編小説が多いのですが、『地下』では、チリの炭鉱労働者たちが、人生で出あうさまざまな出来事を語っています。『クオレ』を読んだのは、母と一緒に声を出しての読書でした。作中のいくつかの出来事に対して、二人して涙を流したりしました。
 『レ・ミゼラブル』は、フランス語で父と一緒に読みました。そのような読書が、私が後に取り組むようになる社会問題、とりわけ貧しい人々がかかえる諸問題に対する私の感性を育んだのだと、つねづね考えております。
 池田 一幅の名画を見るようなうるわしい光景です。母上も父上も、貧しい人々の生き方に限りない共感を寄せながら、そうした人々のために働きなさいと、自然のうちに教えられたのでしょう。
 エイルウィン ええ。そう思います。
 池田 『レ・ミゼラブル』は、いうまでもなく「惨めな人々」の意です。主人公ジャン・バルジャンの数奇な生涯に託して、最終的には庶民の勝利の人生を謳いあげています。ユゴーには、ひたむきに生きる庶民への優しく強い眼差しがありました。いわば人間の魂のもつ限りない強さに共鳴していました。
 エイルウィン ええ。そのとおりです。読書の結果として、私の思考と行動を導くこととなる「正義のための使命感」が築かれ始めたのです。
 池田 テレビの普及とともに子どもたちの読書の機会が減ったと、時に危惧されていますが、子らのみずみずしい感性をやしなうためにも、読書の有用性は増していますね。
 私自身の青少年時代を考えても、もし読書がなかったら第二次世界大戦前後の暗い混乱した時代を生きられなかったと言っていいほどです。私の生涯を決めた恩師との出会いも、青年たちの読書サークルの仲間に会合への出席を誘われてのことでした。この三冊は別として、他にもっとも感銘を受けた本は何ですか。
 エイルウィン 聖書、とくに福音書ですが、さらに成人してからの私の考え方に影響をあたえた本は、ジャック・マリタンの『完全なヒューマニズム』とオルテガ・イ・ガセットの『大衆の反逆』です。いずれも半世紀以上も前に書かれた本ですが、いまだにみずみずしさを失っておらず、今日の青年たちが読むに十分値すると思われます。
 池田 オルテガの『大衆の反逆』は、少し先にもふれましたが、大衆と指導者の関係性を鋭く論じた名著ですね。マリタンには、たしか『人間と国家』という著書がありました。人間が国家のためにあるのではなく、国家こそ人間のためにある――こうしたマリタンの思考は、あなたと響きあうものがあるのでしょう。
 ところで、ご両親のことで、もっとも思い出に残っていることはなんですか。
3  貧しい人々へ心をくだく父と母
 エイルウィン 私の父は、本人の頑張りで努力を重ねて人生を築きあげた人です。父は、十四人兄弟の下から二番目に生まれました。三、四歳で父親を亡くし、その後まもなく母も逝ってしまったのです。祖父母、伯父、伯母たちが兄弟の面倒をみてくれました。
 父は、農夫だった母方の祖父のもとで田舎で育ちました。十一歳になったときに、師範学校で学ぶためサンティアゴに送りだされました。師範学校の課程終了後、歴史の教師としての勉強を続けるために教育学研究所に入りましたが、歴史の教師の資格を得ると、さらに法律を修めて弁護士の資格を取得しました。数年間は弁護士をしていたのですが、健康上の理由から、裁判所に勤務するようになりました。ここで父は、チリの最高司法機関である最高裁判所の長官というたいへん輝かしい経歴を得ました。
 父は知的で教養があり、自分自身に対しては非常に厳しかったのですが、自分以外の人々に対しては気さくであたたかく接し、貧しい人々のことに、いつも心をくだいていました。自然をとても愛し、民主主義者としての、また法律家としての堅固な信念をもっていました。
 池田 自己には秋霜のごとく、人には春風のごとく――エイルウィンさんと二重写しになって、お父さまの姿がしのばれるようです。あなたは、最高裁長官であったお父さまの影響で法律を専攻されたのですね。ご兄弟も皆さん、弁護士だそうですが……。
 エイルウィン 父は、私たちが職業を選択するにさいして、完全に本人の意思に任せていました。しかし、その偉大さ、職務において果たしていた役割などが私たちに影響をあたえたことは確実で、四人の息子たちは、弁護士という職業を継承しました。
 池田 お母さまは、どのような方でしたか。
 エイルウィン 彼女は、四人の女性と三人の男性の七人兄弟の一人として生まれています。母はきわめて知的で、感受性豊かな女性でした。たいへん献身的で、夫と子どもたちをゆったりとした愛情でつつみました。
 チリ国内と同様に、他のいかなる国であろうと、世界中で起こっているさまざまな出来事に心をくだいていました。人道上の問題、とくに貧しい人々を取り巻く問題には敏感だったようです。
 池田 大事なことですね。決して家庭にとどまることなく、目はつねに世界に開かれている。やはり、両親が世のため人のためにと、日夜、心をくだき活動している家庭では、子どもたちも自然と社会貢献の活動を継承していくものです。また、そうでなくてはいけない。
 前にもふれましたが、エイルウィンさんはどんなときにも微笑みを絶やさない、と定評がありますが、この笑顔もご両親譲りなのでしょうか。(笑い) 

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