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日蓮大聖人・池田大作

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第十四章 民族主義の帰趨――グローバリ…  

「太平洋の旭日」パトリシオ・エイルウィン(池田大作全集第108巻)

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1  池田 潮の干満と同じように、歴史も“遠心作用”と“求心作用”のせめぎ合いを繰り返しているのでしょうか。イデオロギーという軸への求心力を失った世界は、ひとしく時流の遠心力に振りまわされているようです。なかでも二十一世紀をめざす人類にとって、最大の課題の一つは「民族」の問題でしょう。
 これは「国家」の問題と重なる部分もありますが、「国家」よりも根が深く、時に「国家」の存立を揺るがすほどの問題であることは、ソ連邦の解体や旧ユーゴスラビアの例をまつまでもありません。
 まず、「民族」という問題がこのように根深く人間や社会に取りついている理由は、そこにアイデンティティー(主体性、独自性)の問題がからんでいるからだと私は思います。
 エイルウィン 民族主義は“アイデンティティー”をあたえる集団の感情です。そのアイデンティティーは“所属”感覚をあたえ、記憶というものをもつようになって以来、存在し続けています。とはいえ、民族主義は歴史上、さまざまな激しさの度合いを示しながら存続してきました。
 民族主義――国家あるいは祖国への愛、および責務のごときもの――が、家族や人間、人間の基本的人権や宗教、イデオロギーなどに対していだかれるような他の忠誠をはるかに超越した(ハンス・コーンが言及しているような)人間であるための“第一の忠誠”となった時代がありました。
 民族主義がその極限にいたったときには、恐るべきものになると私は考えます。なぜならば異民族間の理解や協力を阻む遠心的な力に関連してくるからです。
2  「民族」のかかえる善悪両面
 池田 自分が本当の自分であるということの確実性の感触、生きることの根拠、自分とはいったい何ものであるかという根源的な問い……。これは均質的で画一的な産業文明の時代を迎えて、いっそう切実さをましているといっても過言ではありません。
 武力やイデオロギーをもってしても消滅させることができず、間歇泉のように噴き出し、ついには抑圧者を逆に放逐してしまう「民族」という巨大なエネルギー……。私は、やはりそこに善悪両面があることを正視しなければならないと考えます。
 エイルウィン 全面的に賛成です。アイデンティティーと所属感覚としての民族主義は善ですが、排他主義と狂信におちいると悪になります。
 池田 まず良い面としては、戦後世界において、少数民族、非抑圧民族を差別と支配から解放する歴史の駆動力となってきました。今日、国際社会は「民族自決」が、原則として正当に要求しうる権利であることを認めるにいたっております。私は、この歴史の流れを決して逆流させてはならないと考えます。
 それら民族の権利は、たとえばアジア・アフリカ諸国の良心ともいうべき“バンドン精神”“平和五原則”にのっとって、徹底して擁護されるべきである、というのが年来の主張です。
 しかし一方、それは自民族の絶対化、他民族の排斥に傾斜する危険をはらんでいます。民族主義の“悪”の側面です。民族エゴの噴出・衝突がいくたの流血の惨事を生み続けている今日、「民族」の根深さや独自性のみを強調するだけでは、もはやなんの価値さえも生まれません。どんなに困難ではあっても、なんらかの形で、「民族」を乗り越えゆくグローバルかつユニバーサルな理念を模索しつつ、そこへの求心作用を強めていくことがさけて通れない課題であると思います。
 いまだ見ぬ新たなるグローバリズムの曙を開くために、今こそ人類は英知を結集すべき時を迎えているのです。
 エイルウィン 現在は、驚くほど発展したコミュニケーションのおかげで、人間は“人類の英知を結集しうる”状況にあります。しかし私はこの総合的観点というものは、長期にわたる困難な一連の処理によるものだと思うのです。
 “ナショナリズム(民族主義)は歴史のなかで長期にわたる一つの性向であり、疑いなく頻繁に度を越した激しさで将来にわたり発生し続けることでしょう”――プロウデルであればこのように言うでありましょう。このナショナリズムは、あなたが言及されている“グローバリズム”の可能性の行く手を阻むものとなりましょう。その理由は、ナショナリズムが最終的に受け入れられるかどうかは別にして、“内面的な普遍性”を困難にする強い力だろうからです。
 また同様に、現在、いわゆる西欧世界で一般的に受け入れられている過度の個人主義が、(これが他の社会の文化にどの程度、同じように浸透しているのか、私には分かりませんが)民族主義がもたらす所属感覚を、徐々に弱めている可能性があります。
 ですから、均質的で画一的な産業文明を迎えてアイデンティティーの必要性がより切実さをましている、との意見に対して、私は疑問を呈します。その反対に私は、少なくとも表面的には、ヨーロッパやアメリカ合衆国、さらにラテンアメリカでさえ、個人主義や競争がもたらす人間性の喪失によって、社会が徐々に細分化されている現象があると受けとめているのですが。
 いずれにしても今日、国際社会が「民族自決」を原則として正当に要求しうる権利であると認めるにいたったことを、私もうれしく思っておりますし、あらゆる国々の権利が、あなたがまさに適切に思い起こされた“バンドン精神”や“平和五原則”にのっとって、徹底して擁護されるべきである、とのあなたの主張に私も賛成です。
3  「閉じた心」から生まれる民族の怨念
 池田 あなたは創価大学の記念講演で、「人類の間に平和という理想を実現することは可能か」と、みずから問いかけ、「可能であると確信している」と語っておられます。しかし現実には、その平和の理想の実現を突き崩す最大の脅威の一つが、先にも若干ふれましたが、民族紛争の激化です。
 現在の民族紛争を、あたかも人類史の業のような、半ば宿命的なものとして受けとめる悲劇論もありますが、私はその根にある民族意識は後天的なものであると思っております。なぜなら民族意識の基盤をなす文化自体、人間にとって後天的なものだからです。
 政治的経済的理由もありましょうが、そこには長い歴史的背景から生じた民族の怨念というべきものがある。さらにいえば、そこにはもっと深く人間の「閉じた心」の次元にかかわる病理が横たわっております。その「閉じた心」とは、みずからを狭いカラに閉じ込めて独り善しとし、「自」と「他」の間を分断させ、民族と民族を対立させていく悪の働きであります。
 エイルウィン 民族紛争のもっとも大きな原因は、あなたが「閉じた心の病理」と呼んでいるものに根ざしている、とするあなたの意見に、私も同意いたします。多様性を恐れる人々は、異なった生き方や習慣や伝統をもつ人々を排除しようとします。自分たち以外に真実は存在しないと狂信し、他の信条を攻撃するのです。私は意見の不一致は恐れませんが、教条主義を恐れます。私は、人生の理想を確信し戦う人を恐れるのではなくて、理想の名のもとに他の人々を殺したり攻撃したりする人を恐れるのです。
 池田 民族が異なれば、必ずそこに衝突が起こり、紛争になるという決定論には私は与しません。歴史的に見ても、異なる民族同士の共存、共生の事例をあげることは容易であり、むしろ、そのほうが常態であるといっても言いすぎではないからです。
 問題は、自民族を絶対化し、他民族や少数民族を蔑視し、排斥、攻撃することにより紛争になる場合です。その極端な例は世紀末の今も、「民族浄化(エスニック・クレンジング)」などという忌まわしい事態となって現れております。
 では、なぜ最近まではともかくも共存してきた異民族同士が、これほど激しく血で血を洗う抗争を繰り広げているのか。そこには、冷戦が終結しイデオロギーの重しが取れたからだ、というだけでは説明できないものがあると思います。

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