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第八章 第三世代の人権――内部にひそむ…  

「太平洋の旭日」パトリシオ・エイルウィン(池田大作全集第108巻)

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1  池田 現代世界の急速な変貌にともない、人権についても新しい概念が提唱されてきています。それはご存じのように「第三世代の人権」といわれるものです。
 すなわち、「信教の自由」や「表現の自由」など、十八世紀ヨーロッパの市民革命にともなって主張された自由権的基本権を「第一世代の人権」、また、労働基本権など二十世紀になって認められた社会経済的基本権を「第二世代の人権」というのに対し、第二次世界大戦後に主張されている、新しいタイプの人権が「第三世代の人権」といわれます。
 その中身は、まだ十分に確定したわけではありませんが、一九八六年の国連総会で採択された「発展の権利に関する宣言」が示すように、その中核をなす権利として、いわゆる、「発展の権利」が認められつつあります。
 この「発展の権利」が主張されるようになった背景には、いうまでもなく、発展途上諸国の深刻な貧困があります。多くの地域で、今なお人間が人間らしい生活を送るための最低限度の環境すらあたえられていない、という状況があります。
 そのような状況に置かれている人々にとっては、第一世代、第二世代の人権が憲法や法律にうたわれていたとしても、実際には絵空事のようなものでしかないでしょう。人権はたんに法律の条文上に掲げられているだけの「絵に描いた餅」であってはなりません。万人に対して人権をあくまでも実質的に保障すべきであるという主張が出てくるのは、むしろ当然のことでしょう。
2  人類は生きのびる権利を保障できるか
 エイルウィン あなたが言っておられることは、まったくそのとおりであると、私は思います。人権とは礎石であり、その基盤の上に国民と国家が共生を築くべきなのです。全員が文化的に平和的に共存していくためには、人権が守られていることが不可欠な条件、あるいは要件でしょう。これはしだいに拡張され、普及されてきた考えであり、その意味でその有効性と遵守をだれに求めるべきか、それを見きわめるための真剣な努力が必要とされます。
 厳密に司法上の観点から見て、私は権利というものを、あえて個人と国民、あるいは人間共同体のものとに区別しています。また、個人のものであっても、その有効性や現実の行使を、行政あるいは司法の裁定によって国が保障するものと、その行使を国が許可しても保障しないものとに区別できます。
 これらの違いを理解するためには、いくつかの事例が役に立つでしょう。私たちが公民権や政治的権利にふれるとき、日常生活上の権利はさておき、個人の自由についての権利とか公的事柄に参加する権利といったものを考えます。これらの権利が守られ、その行使が保障されているのは、法的にそう定めているからで、司法機関を通じて国家が全国民に保障しているのです。個人が一方的にその権利を奪われてしまえば、裁判所に出向き、人権保護法に訴えるという、訴えの自由に庇護を求めるか、あるいはその自由が奪われているならば回復させることでしょう。
 法律は全国民に選挙に参加する権利を、制度として認めています。しかし、経済的・社会的権利は同様ではないのです。
 たとえば、労働者の組合結成の権利や最低賃金、労働時間の基準をなんらかの業務に関して法律上の制度を国が定めたとしても、国が全員に働く権利を保障する、あるいは労働者自身やその家族に対して一定水準の生活を保障するための有効な方策を有しているわけではありません。発展途上国のみならず、先進諸国でさえ数百万人もの失業者がいるということは、このことの証でしょう。私たちが生活するこんなにも豊かな世界に、十二億人ものかろうじて生きのびているだけの人々がいることを、どのように説明したらいいのでしょう!
 池田 まったく、おっしゃるとおりです。第一、第二の人権が国家に対する権利であったのに対し、第三世代の人権は国家を超えた国際社会に対して主張されているところに大きな特徴があるとされています。
 このことは人権が、もはや主権国家というこれまでの枠組みを超えて、人類社会全体として取り組むべき課題であることを示しているように思います。第三世代の人権の登場は国際社会が質的に変化しつつあることを示すものとして、きわめて重要であると言えましょう。
  
 “貧困からの脱却”、だれが推進するのか
 エイルウィン 私たちが自由に採択する権利、発展の権利といった国民の権利について言及する場合、その遵守や実効性を国家の法令によって保障することは不可能です。なぜならばこれらの権利の実際的な具体化は、しばしば国家の決定権限を超えた要因によって左右されるからです。
 完全にというわけではなく、あくまでもある程度ということですが、そのような権利の実現は、国際社会の状況しだいであり、少なくとも現在までのところ、あらゆる民族に対して、これらの権利の実現を保障するための有効な手立ては見つかっておりません。
 あなたがいみじくもおっしゃっているように、“第三世代の”と呼ばれている人権は、主権国家の枠を超えて人類全体の問題となってきているのです。しかし、それでは、いったいだれがその権利の主張を受けとめる責任者となっているのでしょうか?
 あらゆる権利には、それに応じた義務をともなっています。したがって、義務を主張することのできる法的主体が必要です。しかし、現在のところ、“国際共同体”は、そうした性格を有してはいません。またそこに加盟している主権国家が、より上位に立つそのような権力を喜んで受け入れようとはしていません。また大国が国民総生産のわずかなパーセンテージを、発展途上国の援助のために拠出することを任意で取り決めても、実際には果たしていないのです。
 池田 残念ながら、そのとおりのようです。そうしたなか、あなたは、一九九五年三月にデンマークのコペンハーゲンで開催された国連「社会開発サミット」で、“発展の権利”について広範な討議を主宰され、国際的なコンセンサス(合意)をまとめあげられました。画期的な労作業でした。
 エイルウィン サミットの掉尾を飾った社会発展宣言では、可能なかぎり多くの人々に“発展の権利”が達成できる道を切り開きながら、貧困の追放、雇用機会の創出、社会の統一の促進をはかるための行動に関する十項目の合意と数項目の代替案が発表されました。もしこれらの合意が遂行され、このサミットで提示された行動計画が実行されるならば、人類は“発展の権利”を実現する過程で、大いなる前進をするであろう、と私は確信しております。
 池田 貧困問題の解決のために多年にわたって続けてこられたご努力に、最大の敬意を表します。あなたが創立された「正義と民主主義」財団の掲げる崇高なテーマの一つが、「貧困への挑戦」であることもよく存じております。
 エイルウィン 世界の総人口の五分の一が余儀なくされている悲惨こそ、平和に対する絶え間のない脅威です。
 であるならば、この貧困という災難を終結させるために、人類がとるべき必要な措置はなんであるとお考えですか。
3  ともに地球に生きる隣人としての自覚
 池田 近年は「人間の安全保障」という概念にもとづいて平和の問題をとらえ直そうという動きが高まりつつあり、あなたがご指摘の「貧困」という問題も、大きなウエートを占めるテーマとなってきております。
 その解決をはかるうえで私が重要だと思うポイントは、まさに的確なご質問のなかに、見事に言い表されていると言えましょう。一つは、「貧困という災難」という言葉です。世界の人口の五分の一にあたる人々が余儀なくされている「貧困という災難」は、はたして自然災害によるのか、それとも“人災”によるものなのか――まず、この視点に立って、問題の真の所在を分析していく作業が、解決の糸口を探るうえで欠かせない前提になっていくと思われます。
 もちろん、自然災害が貧困問題を引き起こす直接的な原因となっているケースは少なくないでしょうが、それだけが「貧困という災難」を恒常的な存在へと固定化させている元凶でないことは、また事実であります。
 UNDP(国連開発計画)は昨年発表した年次報告「人間開発報告書一九九六」の中で、いわゆる南北格差について、「もし現在の傾向が続けば、先進国と途上国の経済格差は不公平どころか非人道的なものになるだろう」と警告し、二極化の動きに注意を喚起しております。貧困問題を、国際社会の構造的な問題としてとらえる必要がありましょう。
 エイルウィン おっしゃるとおりです。
 池田 もう一つの重要なポイントは、「人類がとるべき必要な措置」という言葉にあります。この点は先の“人災”という問題とも関連しますが、貧困問題を解決していくうえでは、運命を共有する“地球社会の隣人”としての自覚と責任が一人一人に強く求められてくるのではないでしょうか。
 国連の「第一次貧困撲滅の十年」が本年(九七年)スタートをみましたが、その成否はまさに、国際社会の一致した取り組み、いうなれば“人類共闘”の枠組みを確立できるかどうかにかかっているのです。
 こうした取り組みを進めるうえで、私がなによりも第一に訴えたいのは、一人一人の人間に本来そなわる「潜在的な力」を十分に引き出すことのできる環境づくりを眼目としなければならない、という点です。
 貧困の撲滅といっても、たんに物的・資金的な援助という“応急処置”だけで対処できるものではなく、むしろ長期的な視野に立ったエンパワーメント――すなわち、一人一人がその能力を十全に発現させていく環境づくり、自助努力のための条件を整えていく作業こそが肝要と思うのです。
 人々に「自立」をうながす「人間開発」がひとたび軌道に乗るならば、その社会や国家はしだいに安定していくはずであり、その意味からも、いわゆる“参加型の開発”への発想の転換が必要ではないでしょうか。一人一人にそなわる「潜在的な力」という、再生も拡大も可能な資源を十分に「開発」する環境づくりを、国際社会が一致して推し進めていくことが、紛争を未然に防止し、あまりにも悲惨な“悪循環”を断つことにつながるはずです。
 これはまた、いみじくもあなたが創価大学での講演(一九九四年七月)の中で強調された、社会の全階層をうるおす「公平なる成長」という方向性と軌を一にする考え方ではないでしょうか。
 人権という観念が生まれてから二百年以上を経過した今日でも、貧困という現実上の困難のゆえに、多くの人々にとって人権の理想は、まだ実現していないというのが現状です。また、貧困だけでなく、旧ユーゴスラビアをはじめとして、世界の各地にはまだまだ戦乱と紛争が続き、多くの民衆が今なお恐怖に苦しめられていることも見のがすことはできません。
 今日の困難な人権状況を見るとき、これからの人類が実際に、人権の理想を実現していくためには、なにが必要か、もう少し掘り下げていきたいと思います。

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