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日蓮大聖人・池田大作

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第四章 血なまぐさい軍事政権から脱却―…  

「太平洋の旭日」パトリシオ・エイルウィン(池田大作全集第108巻)

前後
1  池田 ところで、あなたは創価大学でのご講演(一九九四年七月)で、次のように語られました。
 「チリは長く血なまぐさい軍事政権の時代を脱却してから(中略)わずかな歳月でありますが、確かなことは、民衆みずからが民主主義を高らかに叫び、法治国家を心から尊ぶという歴史へと、顕著に変化してきているということであります」
 民衆みずからが民主の精神に目覚めた――その一言は、まさしく民衆とともに歩んできた哲人政治家の“勝利宣言”でありました。
 あなたとあなたの祖国が走りぬけてきた民主主義への道、この二十年の歴史について、率直にお聞きできればと思います。
 エイルウィン たいへん思いやりに満ちた評価をいただいたことに感謝申し上げます。
 私の国の民主主義復興過程の先頭に立てたことは、幸運で名誉なことでしたが、この成功と功績を個人のものにするのは、不公正でしょう。国家の成功や失敗を政権の主導者に帰することはしばしば行われます。それはある程度、時として、的を射ていることもありますけれども……。
 歴史は、有能で天才的な統治者が克服しがたい障害にぶつかったり、必要不可欠な国民の支持を得られず挫折していることを示しています。
 チリで民主化が達成できたのは、基本的にはチリ社会の心からの熱望に応えたことと、好意的な国際状況のおかげです。
 私および民主主義をめざす政党連合、さらに私の仕事に共鳴して行動をともにしてくれたいくつかのグループの功績は、長年にわたる分断と憎悪と暴力に疲れきった国民の心からの熱望に応え、導くことができたことです。
 池田 エイルウィンさんのような謙虚な人格の指導者だからこそ、皆の力を結集しえたのでしょう。
 ところで、軍部独裁勢力を台頭させた動因として、どのような社会的背景があったのか。この点を将来のために、もう少しお話しください。
2  イデオロギーと少数与党の時代
 エイルウィン 率直にお答えしたいと思います。六〇年代は世界の大部分の地域で、強烈なイデオロギー化がなされていました。フランスでは学生たちがパリで“現実主義者になろう、不可能を求めよう”との不条理なスローガンのもと、激しい騒乱を引き起こしていました。
 チリでも大勢の若者や知識人や労働者が、根本的で早急な変化を望んで結集していました。このころ、“革命”という言葉が流行していました。しかし、革命の構想は、より公正で、より人間的な社会を求めつつも、それを獲得するための方法や理想とするモデルが一致していなかったのです。
 池田 たしかにイデオロギーが、いっさいに優先するかのような時代でした。日本も同じでした。私はキルギスの優れた作家チンギス・アイトマートフ氏と、対談集(『大いなる魂の詩』。本全集第15巻収録)を出版しました。興味深かった一つに、ロシア革命の初期、宗教はアヘンとするドグマのもと、宗教否定を民衆のなかに浸透させるため、やっきとなっているなかでのエピソードがあります。
 アイトマートフ氏の少年時代、村の男たちが、神の存在する天に向けて鉄砲を何発か撃つ。そして「これで神は死んだ」と引き揚げたというのですね。宗教を葬り去っていく過程が、こっけいなぐらい教条主義的なのです。一つの型に無理やり人間をあてはめようとした、イデオロギー至上主義のもろさを、かいま見る気がします。
 エイルウィン そのとおりですね。それで、前にも述べましたように、そのころ、チリは三極化されており、それぞれが掲げる理想は相いれないもので、異質の社会モデルを求めていたのです。
 一つはマルクス・レーニンの理論を継承し、共産主義あるいは社会集産主義的統治形態の確立を望んでおりました。もう一つの分派は、キリスト教のヒューマニズムの価値観を信奉している者たちで、共同体的な社会を望んでいました。最後の分派は、個人主義的自由主義の理想への執着、あるいは守勢か分かりませんが、資本主義制度のモデルを理想としていました。
 ある程度、この三つのいずれにも可能性がありました。一九五八年に選出されたホルヘ・アレサンドリ大統領、六四年に選出されたエドワルド・フレイ・モンタルバ大統領、そして七〇年に選出されたサルバドル・アジェンデ大統領は、それぞれ資本主義的自由主義的選択、キリスト教民主主義的選択、社会・共産主義的選択を代表する政府を率いていました。
 ここは、その統治の総括をする機会ではないのですが、三政権とも少数与党で、その支持者たちは国民の三分の一を代弁するだけで、残りの三分の二の反対を誘発してしまいました。
 池田 三分の一ずつの政治勢力がいずれも政権に就き、そのことでいっそう混迷が深まったと、前にもおっしゃっていましたね。
3  残虐な軍事独裁政権の口実
 エイルウィン そして、さらに、大統領権限の強い憲法制度は、政府が議会の過半数の支持を得ることを必要ともせず、また難局を解決するための便法的なメカニズム(行政機構)を設けることもしませんでした。
 アジェンデ大統領の時代に“人民連合”という少数与党の政府連合が、法律を無視したり、蹂躙したりして、手段を選ばずに目的達成を強行して危機的状況におちいりました。企業の国営化を進めるために行われた手段としては、所有地や企業の“乗っ取り”や暴力的選挙や、法律的には容認しがたいことを合法と言いぬけるやり方などがありました。さらに、貧民街や下町では党派性の強い“親衛隊”や“対立グループ”の暗殺、反対の立場をとる者たちに対する言葉による威嚇が行われて、不安定で険悪な雰囲気が生まれました。
 経済政策の失敗、実業界の人たちの間で定着してしまった恐怖感や不信、反対派によって煽動されたサボタージュ、運送業者たちによるストや操業停止、インフレと物資不足……。これらが渾然一体となった状況が、国を無秩序的混乱状態におとしいれてしまい、一九七三年九月十一日の軍事クーデターを釈明し、正当化させる根拠として利用されてしまったのです。
 池田 歴史には、正確に見ると偶然ということはないと思います。クーデターが起こりうる状況にあったのですね。
 エイルウィン ええ。その結果、軍事政権が出現することとなりました。その目的は崩壊した制度を再建することだけであり、そのために必要な期間のみ政権に就くのだと言っていたのですが、実際には政治的には独裁的で、経済的には自由な新しい統治形態を定着させ、無期限に権力を維持することを行ったのです。
 共産主義的独裁制におちいる危険から国民を救うとの口実のもと、より残虐で反動的な独裁政権が生みだされたのです。
 その大規模な人権侵害ぶりは、チリの歴史上、もっとも悲惨な痕跡をとどめており、クーデター前のチリの状況や危機を口実としても、悲惨な現実を見れば弁明の余地はありません。
 池田 あの残虐非道のナチスによる、ユダヤの人々への迫害もそうでした。最初は、ちょっとした口実をもちだして始められたのです。それが市民権の制限から、いつの間にか侵害へと進み、最後はホロコーストという六百万人以上ともいわれる人々の生命を抹殺する結果になりました。ナチズムの毒牙を、多くの人が見抜けなかったのです。
 エイルウィン チリにおいても、初めは耳に心地よい言葉で、もっともらしくクーデターを正当化しようとしたのです。
 池田 そうして長期化した軍事政権を打倒したのですから、あまりにも長く苦しい道程であったことは、想像にかたくありません。独裁下の“冬の時代”には、いくたの試練や挫折や呻吟があり、また犠牲や裏切りも少なからずあったことでしょう。民主化のために戦った「同志」と呼べるような方々に、どのような方がいますか。また、そうした方々との思い出は。

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