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日蓮大聖人・池田大作

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第十四章 「母性」のあり方  

「子供の世界」アリベルト・A・リハーノフ(池田大作全集第107巻)

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1  変質する現代の「母性」
 池田 「母」――古来、多くの人々が、母をたたえ、「母なるもの」への憧憬を謳いあげてきました。
 しかし、今日、「母性」を神聖視することに疑問が呈され、「母性」そのものが、問い直されています。
 「子どもをかわいがれない」
 「子どもの愛し方がわからない」
 という母親たちがふえてきているというのです。
 たとえば、児童虐待の現実は、深刻さを増しています。いけないとわかっていながら、子どもに暴力をふるったり、厳しい折檻をしてしまう自分をどうしても抑えられない。そして、そのことで、自分をどこまでも責め、さいなむ。
 そうした苦しむ母親たちを見つめてきた専門家や、心理学者たちは、母性を聖なるものとし、理想化する人々の考え方や、社会の傾向そのものを批判しています。
 「母性本能」というが、「母性」は、そもそも本当に「本能」なのか。「母性」というのは、一つの幻想なのではないか――。さまざまな意見がありますが、いずれにせよ、「母性」のもつ光と闇の両面に目を向けなければならないことは確かだと思います。
 リハーノフ 母性――それは未知なるものではありません。幾千の詩と幾百の小説が、この母なるものにささげられてきました。多くの文学作品は、母の存在を、主人公の人生描写の重要部分と位置づけていると言えないでしょうか。
 一方、父の存在は文脈に見え隠れしつつ、まれに登場しても、たいていが仕事で忙しくしている。ところが、母は――彼女はつねに隣にいる。幼子の時も、少年時代も、そして青春期にあっても。
 母性について多くの論文が書かれ、お母さん向けの雑誌も出され、母親のあり方がさまざまに論じられています。すべてがすでに研究し尽くされ、語られ尽くされた感もあります。
 しかし、池田さん。あなたがおっしゃるとおり、母性というような明らかな存在、価値が、今、その特質を変え、壊れ、崩れ始めているのです。
 この点についても、私たちは常識にとらわれずに語りあいましょう。
 池田 深層心理学などで分析されているとおり、母性には、子どもを産み、育むという特性がある一方、子どもをいつまでも自分のものとし、呑み込んでしまうような一面があるのも事実です。
 母の愛は深い。しかし「盲愛」は子どもを滅ぼしてしまうことすらあります。
 あなたも、『若ものたちの告白』という著作の中で、子どもに対する両親の“破壊的な愛情”について述べておられます。
 現代社会において、母性というものが、あるいは歪み、あるいは肥大化し、あるいは欠落したというように、正常なあり方から逸脱してしまっている傾向がある。それは、父性の問題と表裏一体の現象だと思われます。
 そうした状況のなかから、「機能不全家族」という言葉が生まれています。子どもたちに絶大な影響をあたえる母性が歪んでしまえば、世界の未来は暗いでしょう。
 かつて私は、「母」と題する詩に託して謳いました。
   もしも この世に
   あなたがいなければ
   還るべき大地を失い
   かれらは永遠に 放浪う
 現在の母性をめぐる状況は、行き先のない人類の精神の放浪を暗示していると言ったら、言いすぎでしょうか。
2  児童虐待の現実を見つめて
 リハーノフ ロシアの母親像について考えるとき、あなたが語られた日本の母親たちの姿と、完全に一致しているように思われます。
 あなたは、子どもの虐待について述べられました。残念ながら、ロシアでも同じことが起こっています。医師の研究によれば、モスクワの場合、児童を虐待する程度においては、母親のほうが父親たちより、さらに残酷性が大きいということです。
 一九八三年ころ、小児科医であったある有名な医学者が、母親によって傷つけられる子どもたちの写真を何百枚も示して、児童虐待症候群についての報告を社会に発表しました。
 私たちは、近所の出来事や、一部の新聞記事などを通して、断片的にはそのようなことを知っていました。しかし、医学者が数百の実例を挙げて語るとき、それは想像を絶するものであり、なべて母性は善なるものであるという感情に、疑いを抱かざるをえなくなります。むろん、すべてがそうでないことはわかっていてもです。
 池田 たしかに、一方的に母性を美化することはできません。仏法でも「母の子を思う慈悲の如し」と、仏の精神の精髄ともいうべき慈悲を、母親の子どもを慈しむ情になぞらえている一方、「貪愛」と言って、わが子を自分の思いどおりにしようとする剥き出しのエゴイズムという“悪”と“醜”の面からも目を離しておりません。
 リハーノフ なるほど。この問題については、第一に法的側面について考えざるをえません。
 じつは、自分の母親によって怪我を負わされ、病院に運ばれてくる子どもは、ふつう、その事実を告白しようとしません。後のことを恐れて、うそをつきます。ただし年齢が低い場合、お母さんがいないところで打ち明けたりします。
 これは何を意味するのでしょうか。母親の子どもに対する虐待は、事実上、罪に問われることはなく、だれも止めることができないのです。
 たとえば、隣の家庭から子どもの悲鳴が上がったとします。だれか、その家に踏み込んでいく権利を持つ人間がいるでしょうか。近所の一一〇番を受けて警察が行く以外ありません。
 しかし、一一〇番するような近所の人はほとんどいないのです。子どもが虐待されているという確信を一〇〇パーセント持っていない限り、近所の人も一一〇番するのをためらうからです。そうした確証を得ることは容易ではありません。
 少なくとも、私自身は、母親が自分の子どもを虐待した罪に問われたという事例に、一度も出合ったことがありません。そして、罪を問われないことで、このような母親の行動はエスカレートしていくのではないでしょうか。
 池田 日本でも、母親が子どもに食事を与えず餓死させたり、折檻死させたりする事件がまれに起こります。しかし、それはまだ極端なケースです。
 しかし、おっしゃるとおり、子どもへの虐待は、子どもの親に対する暴力と同様、家庭という一種の密室、本来、信頼関係によってのみ秩序が保たれる場で生じるものだけに、法の目が届きにくく――元来、法による規制とは、本質的になじみにくい性格のものです――それだけに陰惨なものになりがちです。
3  自分の不幸を子にぶつける精神的不安定
 リハーノフ いずれにしても、この虐待という行動は、一つの結果であり、そこには、そのような行動をとる原因があるはずです。残虐性の奥底には何があるのでしょうか? はたして、人間のエゴなのか。女性としての不幸なのか。それとも、道徳的な歯止めの欠如なのか。
 人生、だれでも何らかの不幸に遭遇するものです。ある人は貧乏で悩み、ある女性は、酒癖の悪い男性に苦しみ、または、思いやりのなさや裏切りにあい、悲しい思いをします。
 そういう時、ある女性たちは自分の不幸を周囲から隠して、みずからの愛情を一心に子どもに注ぐことで悲しみを癒そうとします。
 ところが、まったく正反対の行動に出る場合があります。本人の性格によるところも大きいと思われますが、思うようにならない人生、周囲への鬱憤を、すべて子どもにぶつけてしまうのです。そして、子どもたちが苦しまなければならないのです。
 池田 そうした行動は、結局、かえって自分を傷つけてしまうだけです。
 リハーノフ そのとおりです。またこれは、精神科が取り上げるべき問題だとも言われています。
 たしかにそのとおりかもしれません。子どもに対する残虐な行動は、それが自分の子であれ、他人の子どもに対してであれ、精神的抑制力に欠陥があることの証拠です。それが事実だとすれば、そのような行動をとる母親は、子どもから引き離してでも徹底的に治療されなければならないはずです。
 先ほどの医学者に見せていただいた写真で、五、六歳の男の子のものがありました。その子は、身体の半分以上が青あざだらけでした。子どもが母親の思ったようにしないと、彼女はその子を何かにつけてひどくつねったのだそうです。この子どもの場合は、医療の立場から即座に救出されなければなりませんでした。
 池田 むごい話ですね。
 リハーノフ ただ、一般的に母親の虐待行動は、その輪郭がはっきりせず、不明瞭な形である場合が多いのです。
 あなたが述べられたように、子どもを不当に虐待したのち、その母親は、今度は自責の念に駆られ、良心の呵責に苦しむという場合が多いようです。こういった問題は、家庭内部の問題、プライベートな問題として扱われてしまいがちで、分析の対象にしにくい面があります。
 母性そのものは、決して幻想ではありません。母性の本質が慈愛であることに何らの疑問もないわけです。そのうえで、このしぜんの営みが変化にさらされているのも事実です。

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