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日蓮大聖人・池田大作

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第十三章 「父性」のあり方  

「子供の世界」アリベルト・A・リハーノフ(池田大作全集第107巻)

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1  父親受難の時代
 池田 日本の子どもたちを取り巻く異変――いじめや不登校をはじめ、育ち盛りの子どもたちにあるまじき怠惰や無気力、あるいは常識を逸脱するような凶悪犯罪――。こうした問題の背景の一つとして、「父性」の欠如が指摘されています。
 ことさらに「父性」というと、近代日本の歩みのなかで制度化されてきた家父長制での「強い父」「怖い父」を思い浮かべる方もいるかもしれません。いわゆる「権威主義的な父親像」です。
 こうした「強い父親」は、敗戦後、民主主義の名のもとに全否定されました。家父長制を軸とする家族制度こそ、天皇制を支える基盤であるとして、攻撃の的となったのです。結果として権威的な父は悪者とされ、「物わかりのよい父」「友人のような父」が、子育てにとっての理想とされてきました。
 リハーノフ 過去の弊害に対する、一種の反作用だったわけですね。
 ただ、子どもの人生における父親の役割については、まだ本格的な研究はなされてはおりません。直感的に見ているにすぎない部分がかなりだと思います。それでも父親像としてある程度、類型化ができますから、心理学のような学問の対象となりうるのではないでしょうか。
 池田 そうかもしれません。反権威主義の風潮のもとでは、社会的にも、上下の秩序感覚や道徳意識など、“父親的なもの”を中心に形成されてきた価値観はくつがえされ、軽んじられてきました。
 その結果、価値観や人格を教え、社会のルールを教えるといった本来の「父性」の役割――かつての家父長制は、もちろんマイナス面も多かったが、時代的な制約のもとで、それなりの役割を果たしてきたことは否定できません――までもが機能しなくなってしまいました。
 一言で言うと、父親の受難の時代です。自信喪失の時代とも言えるでしょう。
 この父親の「権威の喪失」こそが、子どもたちの心を無秩序にし、現在のような善悪のけじめをつける感覚もない、また心に張りのない無気力な子どもたちをつくった要因の一つではないでしょうか。
 リハーノフ まず最初の設問として――これはいちばん大事かもしれませんが――父親がいないことは子どもにとっていいことだろうか、と問いかけてみるならば、「よくない」と皆が言うでしょう。しかし、ではなぜよくないのでしょうか。
 すでに、この対談で申し上げたとおり、子ども時代の初期――年で言えば六歳から十歳ころ――つまり、まだ気持ちのおもむくまま生きているのだけれども、ものの道理も考えるようになる時代は、私の場合、まだ戦争中でした。
 父は家にはいませんでした。今になって思えば、そのことが私の心の重要な部分を占めていたのではないかと思います。私はいつも父のことを考え、心配していました。いちばん私が恐れたのは、父が殺されはしないか、ということでした。
 池田 あなたの作品でも、父親は大きな影響力を持って登場していますね。
 リハーノフ ええ。当時、私たちが住む北の都市では、ふだんよりもっと寒さの厳しい冬が続きました。飛んでいる雀が凍ってしまい、雪の上にぼとぼと落ちてくることもありました。母は私に深々と帽子をかぶせ、さらにマフラーでぐるぐる巻にしていましたので、その間の小さなすき間から周りがかろうじて見えるといった格好でした。(笑い)
 ズボンは二枚も三枚もはかされ、手袋も二重にはめていました。
 池田 なるほど。ロシアの社会風物詩には、ぬいぐるみの人形のように、丸々と厚着をした、愛らしい童子が、よく出てきますね。
 リハーノフ 早朝、私と母は凍てついた通りを歩いたものですが、母は私の手をしっかりと握って引っぱりながら、一方の私は、あまりの寒さにびっくりしながら、心に思っていたのは身近すぎる母ではなく、父のことでした。
 父の姿は、家の鏡のそばに写真があったとはいえ、はっきりと覚えていたわけではありませんでしたが、小さかった私にとって、父こそが、この世でいちばん大切な存在でした。
2  父不在のなかでつちかった責任感
 リハーノフ 父のことを思うたびに感じていたのは、何度も繰り返すようですが、不安感でした。父の身に何か起こりはしないかと心配し、恐れてばかりいました。
 あの子ども時代から今にいたるまで、私は心配性が身についてしまい、つねに孫や息子、妻のことや自分の仕事など、時にはまったくくだらないことで気をもむのが習性となっています。
 つねに何かを気に病むことが、はたしていいのか悪いのか、それは私にはわかりません。一つ言えることは、父のことを、父の安否を気づかうことが、ある種の責任感を育ててくれたということです。子どもが責任感をもつということは、大人になっていくうえで重要な資質です。とくに男の子にとっては、父性を養うことにつながると思います。
 戦争が異常事態であることは言うまでもありません。子どもが皆、父の安否を気づかわなくてはならないような事態は、あってはならないものです。――ちなみに私の父は四年間戦地にいましたが、生き残ることができました――しかし、私には、父の不在がむしろよい影響をあたえてくれました。
 池田 「責任感」という視点は、父性を考えるうえで欠かせませんね。
 私の場合、父は病気がちで年齢もあって、出征しませんでした。私は八男一女の九人兄弟の五男でしたが、四人の兄たちは次々に戦地におもむき、実質的には、私が一家の中心とならざるをえませんでした。
 とくに一時除隊になっていた長兄――結局、ビルマで戦死します――が、戦火の拡大とともに、ふたたび戦場の人となるときに、私に言い残した「お父さん、お母さんを頼んだぞ」という一言は、いまだに耳朶に残っています。
 戦争といえば、いやな悲しい思い出ばかりですが、そこで“家長”的役割を演じざるをえなかったことが、私の男の子としての自覚というか、責任感を育んだことは否定できません。
 リハーノフ 父が帰ってきたときの喜びは、計り知れないものでした。しかし、一、二年もすれば、幼年時代から少年時代へと成長するにつれて当然、私も変わっていきました。
 父は忙しく働いていましたが、どうもあまり満足感が得られなかったようで、つねに何かを探し求め、平和な生活に飽き足らないようでした。加えて、ロシアでは、戦争中よりも終戦直後のほうが生活はたいへんでした。
 わが家にも子どもがまた一人、つまり私の弟が誕生し、私は十四歳になっていました。母は幼い弟にかかりきりで、父は仕事に忙しく、私は孤独でした。父とのふれあいが少ないことが淋しく、強い不満を感じていました。
 もっとも一つ、共通の関心事がありました。ハンティング(狩り)です。わが家には祖父が持っていた古い銃が壁にかかっており、ハンティングに連れていってほしいと父にせがんだのですが、どうしても聞き入れてくれません。しかし、私のあまりの熱心さに母が口添えをしてくれたのです。
 父親と同じ趣味を共有できたことで、父とはさまざまに語りあうことができました。その楽しかったときのことは、今でも覚えています。
 池田 いいお話ですね。
3  父親にはルールを教える役割がある
 リハーノフ ここで、本来の父親の義務とは何かを思い出してみたいと思います。
 それはまず、「厳格さ」です。「厳格さ」を欠いては父親とは言えません。厳格であるということは、当然、衝突も避けられないし、義務を説いたり、子どもが羽目を外せば戒めなければなりません。
 仕事に厳しい父親は、優しくしたり、愛情を表現したりするのが苦手な場合が多く、なかなか自分を切り替えることができません。とくに努力をしなくても、しぜんにそれができる父親はすばらしいと思います。そうすれば、子どもも「公明正大さ」を感じるからです。
 悪いことをするとお父さんは叱るけれども、行いがよいときは、いつも心を開いてくれている。いわば閉じたり、開いたりする扉のようなものです。決められたルールを破らないかぎりは、お父さんの心の扉はいつも開かれているのです。
 池田 よくわかります。家庭であれ学校であれ社会であれ、人間の生活が円滑に運営されるためには、必ずルールがあります。
 「名月を とつてくれろと なく子かな」(小林一茶)の状態を脱し、そのルールにしたがって、どう自分のわがままや欲望をコントロールしていけるかどうかに、人間の成熟はかかっています。
 そのルールを、身をもって教えていく責任は、母親以上に父親の双肩に担われていくでしょう。
 リハーノフ まったく同感です。
 恐縮ですが、もう一度、私の父と私、そして、私と私の息子、つまりイワン・ドミートリーに話を戻させていただきたいと思います。
 私が自分の職業を選んだのは、高校の時でしたが、父の影響を受けることはありませんでした。私は文学に熱中していましたが、父は文学に無関心でした。別にそのことで、亡くなった父を責めているわけではなく、父が天国でやすらかに眠っていますように祈っています。
 ただ、もっと親密な親子関係であったなら、機械工だった父にならって、ジャーナリストなどというふわふわ空でも飛んでいるような職業ではなく、もっと堅実な仕事を選んでいたかもしれません。
 しかし、父が私を地上に引きずり下ろすようなことは決してしなかったことを、ありがたく思っています。
 池田 じっと見守っておられたのですね。
 リハーノフ ええ。一方、私の息子はといえば、とくに仕事の話をしたわけでもありませんでしたが、私の生き様をじかに見て育ちました。私の友人が来るたびに、さまざまな問題や衝突が話題にのぼりますし、息子の耳にしぜんと入ります。私も息子に隠し立ては、一切しませんでした。
 ひょっとして、それがかえってあだになってしまったかもしれません。他の職業を知るチャンスを逃してしまったかもしれません。父親の影響が大きすぎたかもしれないとも思いますが、やはりあくまでも間接的な影響であって直接的なものではありません。
 ジャーナリストという、私と同じ職業を選んだ息子のイワンは、それとともに精神的重圧も受けなければなりませんでした。それに私が気づいたのは、かなり後のことですが。
 一応名の通った作家であり、発行部数二百万部の雑誌編集者である父親と同じ業界に足を踏み入れるのは、息子にとって決して生やさしいことではありません。そのなかで、独立した人格として生きぬいていかなくてはなりません。
 横やりもあったようですが、彼はこの業界に入るとまもなく、独立したジャーナリストとしての本領を発揮するようになりました。今は、父親の応援なしで自分でゼロから作った雑誌「ニャーニャ(子守り)」のオーナーでもあります。
 池田 しかし、現代のように自由が保障された社会で、そのような親子の連携プレーがなされているということは、すばらしいことです。

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