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日蓮大聖人・池田大作

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第十一章 演劇的家庭論  

「子供の世界」アリベルト・A・リハーノフ(池田大作全集第107巻)

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1  問い直しを迫られる現代の家庭像
 池田 家族あるいは家庭という人類最古の共同体は、現在、重大な危機に直面しているようです。
 危機の姿は、国家や民族によって、さまざまです。しかし、先進諸国における離婚率の急増など、「父・母・子ども」を核とする、これまで自明の理とされてきた共同体のあり方に、根本的な揺らぎが生じていることは否定できません。
 その意味では、家族・家庭のあり方という問題は、人類の存続にかかわる大課題であると言っても、決しておおげさとは言えないでしょう。
 リハーノフ 「家庭―社会―人類」、このような方程式の存在には、それなりの意味があると思います。家族の状況を見れば、その社会の安定度なり不安定さがわかります。ひいては国家の、そして人類の将来を推し量ることもできるのではないでしょうか。
 私たちは、人類とか、どこかの国の社会とかグローバルな概念を考えるとき、抽象的なとらえ方をします。たとえば、それらの将来について、設計を十分に練ったり、せめて現状を把握するための一般的指標をもって考えているかというと、必ずしもそうではありません。
 ひるがえって、家庭はぐっと身近なものになります。自分の家庭が崩壊しようとしているとき、私たちは人類について考えたりしません。そこに盲点があるとも言えます。なぜなら前にも話題にしたテレビ等の影響で、人類は個人と無関係ではなくなっているからです。
 その変化には、経済の影響もあります。グローバル化した経済社会は、人類が生き残るために、すべての人々の力の結集を要求しています。
 池田 とくに日本では、高度成長期にめざされてきた模範的家庭像、父親像や母親像が、社会の激動や混迷にうまく適応できなくなってきています。そうした家庭は皆、なかんずく子どもたちにとって、憩いやくつろぎ、励ましの場ではなく、息苦しい閉塞感をもたらす空間にさえなりかねません。
 一部では、従来の家庭像を問い直しています。そして、その再構築をうながすための家族解体論さえ、議論になることがあります。
 リハーノフ ここで過激な役割を果たしているのは、女性運動や科学の成果の極端な形です。
 自己の権利を主張することは、基本的に認められるべきだと考えます。しかし、女性運動の活動家のなかには、夫、妻、子どもという三点で成り立つ家族は、すでに無用だと主張する人もいます。そのような考え方はしばしば、共産主義などの新しい思想が形成されるのを背景として歴史に登場しました。
 彼らは、家庭にあっては夫は女性の権利を制約するだけの存在だと主張し、それを体験を通して証明します。夫の世話をし、洗濯をし、料理をし、夫にしたがう……経済的にも夫はむしろ足手まといとなっている。なぜなら、教養と専門的経験をもつ妻のほうが、時として夫の収入を上回っていたりするからです。子どもは結婚しなくても産める。だから、そのためだけに結婚し、余分な義務を背負い込むことはない、と。
 さらには、科学の進歩によって、ことに医学の進歩のおかげで、居心地のよいクリニックで人工受精を受ければ、女性は男性の助けを借りずに子どもをもうけることができるようになりました。
 報道の伝えるところによれば、旧ソ連の時代、ノーベル賞受賞者の精子を注文して、生まれてくる子どもに最高の頭脳を確保しようとする動きもあったようです。
 この種の哲学は、愛情、愛着、献身といった、人類がもつ美しい資質、そしてこの世に生を享けた目的とも言える資質をそっくり捨てるのと同じなのは、だれの目にも明らかでしょう。技術を母体とするプラグマティズム(実用主義)の行き着くところは、家庭という理想をナンセンスにします。家庭とともに社会や人類の価値そのものをも否定していくものです。
2  「善の言葉」が堕落する時代
 池田 そうした「人類がもつ美しい資質」が、そのまま美しいもの、善なるものとして認められにくくなっています。そこに、現代の最大の問題があります。
 「現代は善の言葉が堕落している」と言ったのは、シモーヌ・ヴェイユです。その堕落は結局のところ、野放しのエゴイズムに由来します。
 人間である限り、エゴイズムを完全に捨て去ることはできないでしょう。しかし、むき出しのエゴイズムを悪であると自覚することは、人間的素養、教養、文化の必要条件です。
 その自覚を欠くと、たとえば自由や権利などという「善の言葉」も、あっという間に堕落の坂道をころげ落ちていってしまいます。
 人工受精は、否定できない面もありますが、ノーベル賞学者の「精子銀行」などは、あまりにも多くの問題があります。
 リハーノフ そうですね。同様の結末を引き出すものに、極端な政治思想があります。社会主義革命直後のわが国では、「共有化」の理想が家族のあり方にまでおよぶ勢いでした。
 とはいっても、当時のロシア社会は、しっかりした家庭観、道徳観をもっていました。ゆえに、この「共有化」の考えを全面的に拒否し、のちには過激な政治家たちもあきらめざるをえませんでした。しかし、いずれにしてもそのようなことがあったわけです。
 共産主義の下では、あらゆるものが共有化されるのだ――工場も、土地も、住宅も、財産も、そして女性も、というような、いかがわしい似非共産主義思想が蔓延したのです。あたかも、解放された女性たちよ、いつでもだれでも気の向くままに選べばよい、家庭? それよりも自由を大切にしたほうがいいのでは?――と言わんばかりでした。
 そういう極論を構えた女性たちと、彼女たちを支えた男性たちが数百人もいたでしょうか。その多くは知識階級崩れの人間たちでしたが、しばらくは革命の渦のなかで、全国民を誘惑すべくうごめいていました。
 しかし、彼らはその後、いずこへともなく消えてしまいました。
 不貞、離婚、その後に残される子ども、そして、その子の将来といった問題が深刻な今、家庭そのものの内部に多くの問題をかかえていることは、言うまでもないことですね。
3  家庭は劇場、家族は俳優
 池田 話を元に戻しますが、私は、社会が現在直面している危機的状況を打開する一つの方法として、演劇的家庭論というアイデアに着想してみたいのです。
 リハーノフ それは、どういうアイデアなのですか。
 池田 俳優が、ドラマのなかでそれぞれの役割を演じていくように、家庭という劇場で、父親役や母親役、一定の年齢に達したならば子役などの役柄を演じていくという発想です。
 現状を固定的にとらえるのではありません。名優がみずからの役柄を見事に演じきっているときの余裕や落ち着き、自己統御などの徳目を、家庭という劇場の俳優たちが備えているとするならば、家庭の雰囲気も、よほど変わっていくにちがいありません。
 仏法では「願兼於業」(願って業を兼ぬ)ということを説きます。自分がどんな悪業(恵まれない立場や境遇)を負って生まれても、宿業を転換して法を弘めるために、みずから願ってそのような姿で、今世に生を享けたのだという法理です。
 であるならば、「願兼於業」を自覚する人には、みずからの境遇に対する不満も恨みも慨嘆もありません。その人は、勇気をもって現状を肯定したうえで、未来へ力強い一歩を踏み出していくでありましょう。ゆえに、私どもの宗祖は、筆舌に尽くしがたい大難を受けられたとき、「本より存知の旨なり」と、悠然としてそれに対処していかれたのです。
 また、私の恩師も、軍国主義下の二年間の投獄生活の苦労を問われたとき、「願ってもない、えらい目に遭いました」と、いかにも恩師らしく、豪放磊落に語っておられました。
 まさに名優の面影が彷彿としております。人生観の根幹にかかわることですから簡単にはいきませんが、こうした余裕や落ち着き、自己統御、あるいはある種のユーモアのセンスのようなものをもとうと、おたがいが努力をすることです。
 親であれ、子どもであれ、いずれも一個の人格であり、人間として平等の存在です。家族という同じ舞台の上で劇を演じている一人一人は、ともどもに家庭創造のドラマを支えているという意味においても平等なのです。
 役者が協力しあわなければ、どんな舞台も失敗に終わります。おのおのが、その役回りを賢明に演じ、責任を果たさなければ、成功は望めない。
 また、劇にハプニングはつきものです。その場合でも、皆で団結して乗り越えていく。家庭も、これと同じではないでしょうか。
 もう五十年近くも前です。恩師の事業が行き詰まり、進退きわまった一夜、私は恩師のお宅にうかがいました。
 奥様も心配されていたのでしょう。若い私を、なにくれと、もてなしてくださる立ち居振る舞いの端々にも、深い苦悩と心労が、ありありと浮かんでいました。ご長男も、まだ小さかった。
 しかし恩師は、奥様に「仕事のことは、心配するな」と、一言。そして、「大作、将棋盤だ!一局、やろう!」と将棋盤を用意された。すでに夜半を過ぎていましたが、恩師は、まるで子どものようにはしゃぎながら、将棋の駒を並べ始めたのです。
 今思えば、これもご自身の楽しみからというより、むしろ沈みがちな家庭の気分を引き立てる意味あいがあったのではないかと思えるのです。
 「一家の長」といえば古めかしい言い方ですが、苦境のさなかにも泰然自若と振る舞うことで、父親としての大きさ、存在感を示されたのではないか。恩師は、父親として、夫としての一幕の劇を、みごとに演じられたと思えてならないのです。
 ある意味で、「家庭は劇場」であり、「家族は、その劇場の俳優」と言える。大事なことは、各人がそれぞれに“よりいい演技を”と心がけていくときに、家庭はもっと豊かで、もっとはつらつとしたものになるのではないでしょうか。

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