Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

第十章 わが家の家庭教育  

「子供の世界」アリベルト・A・リハーノフ(池田大作全集第107巻)

前後
1  子育ては接する時間の長短では決まらない
 池田 今世紀を代表する科学者ポーリング博士と対談した折、家庭教育の話題となりました。おたがい多忙なため、あまりよい父親だったとは言えないということで一致しました。(笑い)
 ただ私自身、父親として、子どもたちを“一個の人格”として尊重し、子どもたちと同じ目線に立って、接していこうと心がけました。子どもを一方的に上から見ることはしなかったつもりです。子どもたちに声をかけるときには、お兄ちゃんといった具合に、“ちゃん”をつけ、呼び捨てにすることは決してしませんでした。また、子どもとの約束は、どんなことがあっても守ってきました。
 呼び捨てにしない、約束を守る――この二つは、わが家のもっとも基本的なルールだったと言ってもよいでしょう。
 リハーノフ 池田さん、お宅のような状況は、どこの国にも当てはまる典型的な例と言えるでしょう。
 まだ小さな子どもをかかえた若い親たちは、まず生活闘争に追われるものです。
 家族を養っていく――これはふつう、父親の戦いです。一家の長として、父親は家族を食べさせ、住居を手に入れ、必要な家財道具一切を確保するためには当然、行動的でなければなりません。たくさん働いて、より多く稼がなくてはならない。
 しかし、それだけではありません。父であり、夫である上に、若い一人の男として自己実現をはかり、仕事の上でも、また人間的にも、家族や周囲の人々から認められなければなりません。
 若い家庭というのは、まだ哲学的に本格的には取り上げられていない、非常に興味深い人生のプロセスです。最初のうちは、父親の役割や母親の役割も、子どもの成長とともにつねに変わっていきます。すべての価値が絶えず変化し、家族の一人一人も、自分で意識せずとも自己実現へと向かいながら変わっていくものです。
 ですから、若いお父さんが仕事が忙しくて、子どもの教育に割く時間がないとしても、私はそれは悪いことではないと思います。そのお父さんの姿そのものが、教育になるからです。生きていくために仕事に忙しく、家にあまりいないというその後ろ姿で、子どもを教育しているのです。
 もちろん、そのためには夫婦間の合意があり、妻が夫の役割を理解し、子どもにお父さんが忙しいわけを説明してあげることが必要です。
 池田 とくに、私の場合、三十二歳の若さで創価学会の会長という激務に就いたのですが、それ以前も、恩師の下で、多忙をきわめました。忙しい時は、全国を駆けめぐり、一年のうち、わが家で眠るのは一カ月ほど、という歳月が続きました。
 いきおい、子育ては妻任せになりがちでしたが、とはいっても、私は決して無関心ではありませんでした。たとえ短時間ではあっても、極力、スキンシップをはかるなど努力しました。あるいは、子どもたちへの直接、間接のメッセージ、地方へ出かけたときの心づくしのお土産など、コミュニケーションは欠かさなかったつもりです。
 その結果、確信をもっていることは、子育ての成否というものは、子どもといる時間が長いか短いか、接する機会が多いか少ないかでは、決してないということです。要は、“猫かわいがり”でない本当の意味での愛情を、どれだけ注いでいるかにかかっているのではないでしょうか。
 リハーノフ 私もそう思います。
 不思議なことに、何をするでもなく、始終家にいるお父さんよりも、家族のために働いて家にあまりいないお父さんのほうが、子どもには好ましいようです。
 忙しくて、お父さんがあまり愛情表現できない場合のほうが、しょっちゅうあやされるよりも大切に思われるものです。
 池田 経験上、私は、母親は子どもたちにどんなにうるさく言ってもよいが、父親がいちいち干渉するのはやめたほうがよい、とアドバイスしています。
 子どもは決して親の所有物ではありません。一個の人格です。小さくとも“対等な人格”の持ち主であり、尊敬すべき存在です。ゆえに「自立させる」ことが大切です。家庭教育の根本は、「自立させるための教育」にあると言えるのではないでしょうか。
 貴国ではどうかわかりませんが、教育はしばしば、草木を育てることに譬えられます。春、種を植える。
 育つのは種であり、草木自体です。肥料を与え、雑草を取り除くのは人間であるとはいえ、その肥料を大地から吸い取るのは草木自体の力です。育てるということは、草木がぐんぐん伸びていけるよう、さまざまに支えることにほかなりません。
 同じように、子どもが自立するためには、伸びようとするエネルギーが漲っていなければなりません。この点で私が真っ先に祈ったことは、健康であれ!ということでした。それは、少年期から青年期にかけて、ひどく病弱であった私の苦い反省からきています。
2  父母の“優しさ”は、最大の栄養源
 リハーノフ ここで私がとくに申し上げたいのは、「優しさ」ということです。これも一つの愛情表現ですが、表面的なものではなく、貴重な得がたいものです。
 どこの家庭でも、子どもの病気という場面に出くわします。その病気が長引いたり、あるいは不治の病であったりした場合、親は激しく自分を責め、深い悲しみを味わうものです。病気のとき、子どもはとくに、母親の愛情を求め、父親に対してもまた、特別なつながりを感じます。
 親というのは、子どもにとって正義の砦であり、痛みを乗り越えるためのいちばんの支えです。病気のときは、いくつになっても子どもは子どもです。優しさと愛情を求めてやみません。とくに、ふだん厳しいお父さん、とても忙しいお父さんの場合、そんなお父さんが示してくれた優しさは、ひときわ子どもの心にしみるものです。
 池田 あなたの著書『けわしい坂』の中で、戦争に征き、あまり家にいない父親が、幼い息子がスキーで坂をすべることができるよう、激励するくだりは印象的ですね。
 「とうさんだって、ちいさいころは、あの坂をすべれなかったんだよ。おまえのようにね。それからすべれるようになった。ただね、だめだと思う気持ちに、勝ちさえすればいいんだ」(島原落穂訳、童心社)と。
 こうした「優しさ」は、病気のときに限らず、子どもの成長の最大の栄養源です。
 リハーノフ ええ。一方、お母さんは、ここでは別の役割を果たします。母親は、すべての苦しみを自分が引き受けようとするもので、お母さんの優しさというのはどちらかというと当たり前です。しかし、男親があたえる優しさは、貴重な治療薬とでも言うべきものです。
 もっとも、母親と父親とどちらの優しさが薬になるかなど、量ることはできませんが。また、家庭によってもさまざまでしょう。
 池田 かつて、貴国のチーホノフ首相(当時)とお会いした折、「ソ連の家庭で、第二次世界大戦のナチズムとの戦いで、父、夫、あるいは兄弟を失わなかった家庭は、おそらく一軒もありません。平和のありがたさを、ソ連国民は知っております」と語っておられたことが、今でも心に残っています。
 わが家も大戦中のたいへんな社会状況のなかで、兄たちは戦場に駆り出され、家業もまったく振るわない苦しい時期がありました。そのなかで、せめて体さえ人並みに健康であったらと、つらく、悔しい思いを味わいました。
 人間、健康でなければ一切が始まらない――このことを身をもって痛感した親として、子どもたちの健康を、何よりも優先して考えざるをえなかったのです。
 私に限らず、心身ともにすこやかな人間に育ってほしいというのは、親であれば当然の願いです。
 あなたは、児童文学者として、子どもたちのために優れた文学を生みだすだけでなく、国際児童基金協会の総裁として、具体的に、現実の上で、子どもたちを守るために行動しておられます。そうしたご自身の経験の上から、心身ともに健康な子どもたちを育むための家庭のあり方を、どのように考えますか。
 リハーノフ 家庭教育において「健康」というのは、一つの大きなテーマです。
 子どもは、周囲の環境すべてによって育まれていきます。第二次世界大戦の話をされましたが、当時、私とあなたはそれぞれ別々の戦線にいながら、「戦争」という環境に育てられました。民族・文化の大きな違いはあっても、そういう意味では同じように育っていったのではないでしょうか。
 私は幼いころから、大人には黙って、ひそかに天に向かって、父を救ってくださいとひたすらに祈ってきました。天はどうやら私の願いを聞いてくれたようでした。父は二度負傷しましたが、命はとりとめ、戦争から帰ってきました。
 負傷したときは、一度目も二度目も、西部戦線から東部へ列車で運ばれるときに私たちの住むキーロフ市を通り、二度ともキーロフ市内の病院に送られました。その病院には母が働いていました。戦争という非常事態にあって、私は二度も父と会い、話をし、抱きあうことができたのです。
 父と何を話したかは覚えていませんが、多分、くだらないことだったでしょう。戦争が終わったらどうなるかなどという話題は、皆、縁起が悪いと言って、人々の口にのぼることはありませんでした。父も回復すれば、また前線に戻らなければなりませんでした。それにしても父に会い、手でふれてくだらない話ができるというのは、このうえなく幸せなことでした。
 いつも学校が終わると、私は病院にいる母のところへ行きました。やはりだれかの父親であろう軍の男たちが、治療を受けていました。病院の匂いやうめき声、たばこの煙、こういったものから、教科書では得られない、生きた教育を受けたように思います。
 それは厳しい現実ではありましたが、有益なすばらしい教育でした。環境は時に、子どもに悪い影響をあたえることもあり、子どもをだめにしてしまう場合も多々あります。しかし、このテーマは、また別の機会にゆずることにしましょう。
3  母の温もりと言葉が、明日への活力に
 池田 そうした体験が、作品に昇華されているわけですね。
 話は変わりますが、家庭教育では子どもたちが幼いほど、父親よりも母親の存在のほうが大きな重みをもっているようです。「教育の父」ともたたえられるスイスのペスタロッチも、教育の重点を「心」に置き、家庭教育、なかんずく母親の役割を重んじています。
 じつは小学生のころ、担任の先生から作文を誉められたこともあって、子ども心にも、将来は文筆活動をと、夢見たものでした。恩師の戸田城聖先生に師事してから、恩師の経営する出版社で、少年雑誌の編集にたずさわったこともありますが、その折、山本伸一郎のペンネームで、ペスタロッチの伝記を書きました。
 彼は、六歳のときに他界した父親の分まで、一切を捨てて子どもたちに献身しぬいた母親の姿から、人間の優しい感情と信頼を学んだのであろう、と私は思っています。
 幼児の心の世界は、じつに純粋です。母親や周囲の大人たちの言動というものを、そのまま受け入れがちであり、その吸収力はすごいものがあります。そして、いったん心の中に刻まれた経験が、物事を理解する上での基準として銘記されていくのです。
 幼児の反応が、時として頑で、柔軟性に乏しいものとして大人の目に映るのは、そのためと言っていいでしょう。あるいはその基準に合わない出来事に遭遇し、不思議に思ったからこそ、幼児の口から「なぜ」という疑問が発せられるのだとも言えるでしょう。
 これは、ある教育学者が、かつて一人の幼児を一定期間、見守り、観察してきた体験から見いだした、幼児の心理です。その意味では、心の中に刻印された経験がどのようなものであるかに、親はもっと心を注ぐべきではないでしょうか。
 リハーノフ 子どもはもともと、胎児として母親の一部なわけですから、少なくとも最初は、母と子のつながりが強いものです。もちろん、その後いろいろ変わってくるものですが。
 女の子は、お母さんとのつながりが、とくに強いものです。しかし、男の子は、ロシアの言い回しにあるように、「切り取られたパンのひとかけら」のようなもので、親から離れてしまいます(笑い)。母と別居して、しかも私のように千キロも離れている場合は、まったく疎遠になってしまいます。
 母は今、私が子ども時代を過ごした町に住んでいて、私はモスクワ住まい。故郷に帰るたびに、十四歳年下の弟をうらやましく思います。弟は、すぐそばではないにしても、わりあい母の近くに住んでいるので、やはりつながりが強いのです。
 モスクワにいるときは、病で家から外に出ない母がどうしているだろうかと、いつも心配しています。私が電話をかけると元気になるようで、母はいつも必ず私や私の妻リリヤ、息子や孫がどうしているかと聞いてきます。モスクワのような恐ろしいところで、私たちがどんな暮らしをしているか、やっていけているのかと心配しているようです。
 このような心配の情は、年老いた愛情深い女性の知恵の表れだと思います。子どもがもう六十歳を超えても、相変わらず子どもとして気にかけているのです。
 池田 いくつになっても親は親、とは古今変わらぬ真理のようですね。
 先のペスタロッチの場合は、生ある者を生ある者自体として、つまり一個の人間として愛する思想の原点が、母親の温かい体温にあったと言えます。
 私の心の奥にも、母の温もりと言葉が今もって熱く息づいています。そして、時に激務に疲れた心身を癒し、明日への活力を沸き立たせてくれるのです。
 もとより市井の一庶民であった母親です。口癖も平凡なもので、「他人に迷惑をかけてはいけない」「ウソをつくな」の二つです。さらに少年期に入って、「自分で決意したことは、責任もってやりとげなさい」という一言が加わりました。
 おそらく、どこの家庭でも口にする言葉でしょう。しかし、人間としての自立を図っていく上で、絶対に欠かすことのできない人間性の側面だったと、私は実感しております。
 あなたはこの点、どのようにお感じでしょうか。また、家庭教育に関するご見解を、ご自身の体験を交えながら、お聞かせいただければと思います。

1
1