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日蓮大聖人・池田大作

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第八章 傷ついた心を癒す“励ましの社会…  

「子供の世界」アリベルト・A・リハーノフ(池田大作全集第107巻)

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1  子どもの暴力が引き起こす悲劇
 リハーノフ 幼いころの体験というものは、その後の人格形成に、意外と深く根を下ろすものです。
 たとえばある時、何らかの状況で、両親が小さい子どもに意地悪いことをしていたとします。子どもは時間がたつにつれて、しだいにそのことの記憶が薄れ、やがては忘れてしまいますが、その子の心の中にある天秤が、両親に対する負の目盛りに振れているとでも表現すればいいでしょうか、ある種の恨みが、意識下に残ってしまいます。
 それが、いずれ子どもが大きくなって成人するころに、乱暴さとなって、時折、顔をのぞかせるようになります。両親のちょっとした言葉とか、笑い方が気に入らないといった理由で、またはまったく理由もなく、突然、攻撃的になったりします。
 池田 一九九六年、日本でも悲惨な事件が起きました。最高学府を出た、まじめで温厚な人柄の父親が、十四歳の息子の暴力に耐えかねて、金属バット
 でなぐり殺してしまった事件です。
 不登校から始まった家庭内暴力は、しだいに激しさを増し、カウンセラーとも相談して、母親と長女は別居、父と子だけの生活をしていました。息子の言うことを受け入れ、趣味を共有しようとエレキギターを習うなど、あらゆる手だてを講じましたが、暴力はエスカレートするばかり。とうとう思いあまって、殺人におよんでしまったのです。
 もちろん、報道からうかがい知るだけで、その一家の過去に何があったのか、くわしいことはわかりませんが、少なくとも、“鬼のような”両親ではなかったことで、大きな波紋を呼びました。
 リハーノフ そのような悲劇は、ロシアでも現実に起こっていますが、この種の事件の心理分析はあまり行われておりません。このような分析は、教師や医師が取り組む専門的なものでよいと思います。
 あなたが今語られたような殺人は、すでに進行した事態の結果です。最初の兆候は、悲劇的結末を迎えるずっと以前に、日常のなかで、行き過ぎた言葉や行動として表れているはずです。
 そういう乱暴な行動は、きまって理屈に合っていないものです。心の底に沈澱したアンバランスが原因だからです。両親に暴言を吐くことで逆に安心し、また、後悔したりさえします。
 この暴発のような行動は、理解しがたい、説明しがたいと感じる人が大半でしょう。ところが、じつは説明がつくばかりか、生い立ちのなかで、どのような人間関係を経験してきたかを知ることによって、ある程度、予測も可能です。
 池田 この父親の場合、カウンセラーに相談したところ、抵抗すると、それ以上の暴力を誘発するので、子どもの言うことは受け入れ、逆らってはいけない、
 と指示されていたというのです。この点が、日本でもさまざまに論議を呼びました。
 子どもの理不尽な暴力には、体を張ってでも対決すべきだ、いやそれは小さい時なら可能だが、十四、五歳になってからの暴発では不可能だ、また家庭内の対応では限界があり、社会的な救済システムを考えるべきだ、等々です。もちろん、このカウンセラーも、生い立ちに何らかの分析を加えて対応策を案出したのでしょうが、実際は、暴力の火に油を注ぐ結果にしかならなかった。現実には、いろいろと対応策を講じても、“小さな暴力”は、ふえる一方です。じつに複雑でやっかいな問題です。
2  大人の悪い手本が子どもの残酷性の源に
 リハーノフ どの悲劇をとっても、ほとんどが親子関係に端を発しています。親の子どもに対する、また自分自身に対するほんのささいな過ちも、その家庭の歴史となって残っていくものです。
 たいていの場合、子どもの残酷性の源は、親にあります。子どもは、良いことも悪いことも、大人のまねをして育っていきます。たとえ、大人の見せた悪い手本が、ほんのわずかなものだったとしても、安心はできません。悪い手本とよい手本が、同じ比率で、子どもに伝わるとは限らないからです。一粒の悪でも、子どもの中で巨大にふくれあがるのには十分です。そして、ある日突然、肥大化した悪が周囲を驚かせたりします。
 この不意の落とし穴はまた、文学の永遠のテーマでもありますね。この解けない謎を解こうとして、なんと数多くの名作が誕生したことでしょうか。
 池田 ジャン・コクトーの『恐るべき子供たち』
 などはその書名からして、すぐに思い起こされます。姉と弟が、愛と憎しみが交錯するなか、悪魔的な力に吸引されるように破局へと誘われていく様は、古典的な悲劇を思わせるような彫琢された人間群像を、鮮やかに抽出しています。
 もう一つ忘れられないのが、ヘルマン・ヘッセの『デミアン』です。その冒頭は、両親と姉たちに囲まれて、何一つ不自由のない良家の男の子が、年長の悪友のたくらみにはまって、悪の道へ引きこまれていくシーンで始まります。弱味をにぎった悪友から金を強要され、両親に隠れて持ち出そうとする秘密、その秘密を抱き続ける戦慄――。ヘッセは続けます。
 「ぼくが歩み入ったとき、父がぼくのぬれた靴のことにこだわったのは、ぼくにとって好都合だった。そのために話がそれた。父はそれよりもっと悪いほうのことに、気がつかなかった。そしてぼくは内心、小言をあのもうひとつのことに関係させながら、それをがまんすることができたのである。同時に、ある妙に新らしい感情が、心のなかにきらめいた。さかばり(逆針)をいくつもふくんだ、たちの悪い、しんらつな感情である。つまり、ぼくは父に対して優越感をいだいたのだ。ぼくはほんの一瞬、父の無知に対して、一種のけいべつを感じた。(中略)それはいやな、うとましい気持だった。しかし強いうえに、深い魅力をもっていた。そしてぼくを、あらゆるほかの想念よりもかたく、ぼくのひみつ、ぼくの罪過にしばりつけてしまった」(実吉捷郎訳、岩波文庫)子どもたちの世界にも、いかに悪が深く根を張り、暗い闇の境域が広がっているかということが、強い説得力をもって迫ってきます。
 フロイトならきっと、“エディプス・コンプレックス”論の素材として、メスを振るうことでしょう。
 リハーノフ フロイトが必ずしも間違っているわけではありません。無意識は時に、故意の否定的行為の背景となっている場合があります。
 池田 前章にて、私は、フロイトならびにフロイディズム(フロイト学説)のあり方について、少々注文をつけました。それは、フロイディズムには、無意識の世界を重視するあまり、意識の働きを軽視する傾向、すなわち、理性や意志力を働かせるのは徒労であり、物事は、それ以前のどろどろした得体の知れない力によって、ほとんど決定されてしまっているかのような考え方を生む傾向があるのではないか、ということです。
 とはいえ、私は、無意識の広大な世界を発見し、計り知れない影響をあたえたフロイトの功績を、軽視するつもりはありません。
 われわれのテーマに即して言えば、子どもといえども、生まれつき、天使のように純粋無垢なわけでは決してなく、それぞれが、とくに両親との性愛的関係にまつわる「過去」を背負っていることを解明しました。子どもを、“神聖視”する、いわゆる「子ども神話」のベールをはぎとったことの画期的意義は、否定しようがないでしょう。
 仏教では、その「過去」を、出生以前にまでさかのぼり、三世にわたる「宿業論」として展開しています。ともあれ、親子関係といっても、「子ども神話」を絵に描いたような、愛情につつまれたものはむしろまれです。現実には、たがいにさまざまな宿業を背負っているとしか言いようのない、愛憎のドラマが繰り返されています。
 リハーノフ マーク・トウェインが、おもしろいことを言っています。「おじいさんよ! おばあさんよ! 孫を愛しなさい。なぜなら、孫だけが、あなた方の子どもに対して復讐することができるからだ」と。(笑い)
 池田 痛烈な皮肉ですね。『トム・ソーヤーの冒険』や『ハックルベリー・フィンの冒険』を書いていた時代ではなく、暗く、悲観的な人生観におちいっていた、文豪の晩年の言葉でしょう。
 リハーノフ 冗談はともかく、復讐心というものは、往々にして説明のつかない意識下の性質を帯びているようです。これが残酷性の、もう一つの背景です。
 池田 そうですね。さらに言えば、仏教の「宿業論」は、「無意識」や「集合的無意識」の深みをふまえたうえで、どう善性を掘り起こしていくかに焦点を当てているのです。
3  虐待され捨てられる子どもたち
 リハーノフ ここでもう一点、子どもたちの正常な成長のために、ぜひ直視しなければならない、ある特殊な状況が存在します。譬えるならば、“残酷性”という名のコウモリが、そのかたい羽を広げて、暗い、人目のない隠れた場所で、人の心を支配しているかのような状況です。
 その典型が、また最悪の形が、家庭内の子どもに対する性的虐待です。そのほとんどのケースは、義父によるものです。このような性的攻撃は、あたかも母親が自分の安心の場を持つことの――それもかなり疑わしいものなのですが――、まがりなりにも家庭を持つことの代償として、子どもたちに加えられます。
 ロシアでは、このような犯罪的児童虐待が、ますますふえています。その背景には、家庭の崩壊を恐れるあまり、こうした問題が、隠されたままになっているからなのです。
 ここ数年のロシアで特筆すべきは、暴力と犯罪のいまだかつてない増加です。わが国を表面的にしか知らない人々は、民主主義の兆候を歓迎したりしていますが、はっきり言って、ロシアは、偽りの民主主義です。
 犯罪で、いちばん取りざたされるのが、実業家を狙ったビジネスマン殺しです。
 もっとも、殺されたほうも、どこかで汚いことに手を染めていたり、みずから犯罪とか、汚職構造の一翼を担っていたりすることも、多いようなのですが。
 池田 ペレストロイカで脚光を浴びた、ルイバコフの名著『アルバート街の子供たち』で、主人公が、流刑地で自問する言葉は印象的です。
 「そもそも道徳とはなんなのだろうか?レーニンは、プロレタリアートの利益にかなうものが、道徳的なのだと述べている。しかし、プロレタリアも人間であり、プロレタリアのモラルも人間のモラルであることには変わりない。雪のなかの子供を見捨てることは、非人間的な行為であり、つまり非倫理的な行為ということになる。他人の生命を犠牲にして、自分の生命を救うことも、非倫理的なことなのだ」(長島七穂訳、みすず書房)と。
 たとえば、「雪のなかの子どもを見捨てる」という、だれが見ても非人間的行為であっても、プロレタリアート(労働者階級)の利益になるものなら、それが「善」であるとされてきた。こんな極論というか不条理が、大手を振ってまかり通ってきたのですから、それを強制していた力(暴力)が取り除かれてしまえば、価値観は混乱し、収拾のつかない混乱を招いてしまうでしょう。
 リハーノフ ええ。ところが、子どもの人身売買など、民主主義どころか野蛮としか言いようのない事件には、だれも真剣に取り組もうとはしません。
 そのような子どもたちは、ほとんど行方不明のままになってしまいます。また数多くの子どもが、家庭や施設から逃げ出して浮浪児になっています。さらには捨て子の数が、一九九四年に十一万五千人増加し、一九九五年にはさらに十万人近くふえました。この数字は、戦時中の状態に匹敵するものです。
 池田 先日も、ある外電が報じていました。ロシア人にとって、捨て子(ベスプリゾールニキー)は、一九一七年のボルシェビキ革命から続く、国内戦争時の社会の大混乱を連想させる現象であったが、一九九一年のソ連崩壊で到来した経済危機で、ぼろぼろの洋服を着せられた子どもたちがどこでも見られるようになったため、この言葉にきわめて現代的な意味をもたらした――と。
 総裁のご心痛、ご苦労は察するにあまりあります。

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