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日蓮大聖人・池田大作

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第七章 「触発」のドラマが結ぶ絆  

「子供の世界」アリベルト・A・リハーノフ(池田大作全集第107巻)

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1  「シビレエイ」の力の秘密
 リハーノフ 引き続き、いじめや不登校、人間の暴力性や残酷性の由来などに、スポットを当ててみたいと思います。
 そのさい、決して忘れてならないことは、個性をつぶし、弱い者いじめをするというのは、大人の世界の残酷さの反映だ、という点です。
 たとえば、モスクワの初等・中等学校や職業専門学校の子どもたちの中には、麻薬を使っている者がいます。そして、麻薬に誘い込むさい、よく暴力が使われています。そうやって、残酷さがどんどん蔓延していくのです。
 根拠もなく、残酷な行為がとられることもあります。しかし、大人が自分自身に問いかけたとき、大人の世界のリーダーが、一般の庶民を圧迫していないと言えるのでしょうか? 不公平な法律、主観的な取り調べや裁判――こんな例が少ないと言えるでしょうか?
 大人の残酷さが、子どもの世界にどんどん侵入していますが、子どもの世界では、大人の言葉や主義主張といった飾りを取り去った、むき出しの暴力が横行しています。だから、子どもの世界は残酷で、不公平なのです。
 池田 大切な視点ですね。日本でも、地域によって差はありますが、中学生や高校生の間に、麻薬汚染が広がってきています。これなど、確実に大人社会の悪の反映です。子どもは、大人社会の“鏡”であるとの視点を欠いたまま、いろいろな対応策を考えても、さしたる効果は期待できないでしょう。弥縫策(一時しのぎの取り繕い)か、せいぜい対症療法にとどまり、とうてい根本療法たりえません。
 根本的な対応策は、どんなに迂遠のように見えても、子どもたちに信頼される大人社会であること、それによって、子どもたちとの信頼関係を築き上げることです。信頼関係がなければ、何をやっても、うまくいくはずがありません。
 リハーノフ 私の小学校時代の教師との間柄が、まさにそのような信頼関係でした。
 池田 古典的な話になりますが、古代ギリシャで、アテナイの青年たちに対するソクラテスの絶大な感化力を、人々が「シビレエイ」に譬えると、ソクラテスが、「シビレエイが、自分自身がしびれているからこそ、他人もしびれさせる」(「メノン」藤沢令夫訳、『プラトンⅠ』〈『世界古典文学全集』14〉所収、筑摩書房)と答えた、有名なエピソードがありますね。
 親や教師は、まず、ソクラテスのように、自分が「正義」や「勇気」に“シビレ”ていなければいけません。もし、大人たちが、そのように生きていれば、たんに口先だけではなく、「全身」で、「後ろ姿」で、子どもたちへの励ましのメッセージを
 送っていけるのです。“シビレ”ていない人に限って、かえって、子どもたちの成長を止めているものです。
 もっとも、現在の日本の政治家の無定見や、目をおおうばかりの官僚の堕落を見ていると、教育の場で「善」や「正義」を教えるのが、さぞかし難儀であろうと、思わざるをえませんが……。
 リハーノフ しかし、「シビレエイ」のような感化力をもつ教師は、最近、とみに少なくなってきているように思えてなりません。
 そうでなければ、不登校などという現象がふえるはずがありません。それは、学校や先生に魅力がなくなっている証拠です。
 学校に対する恐怖心は、教師や仲間に対する恐怖心なのです。教師のことに関して言えば、教師は、子どもの運命を左右する大きな役割をもっています。
 もし、教師が使命感や子どもに対する愛情から教師になったのであれば、最高です。そのような教師は、ただたんに数学といった知識を教えるだけでなく、子どもの友だちとなり、保護者となり、真の意味での人生の教師となるでしょう。
 しかしながら、教師が、ただ機械的に教えるだけの人間になっているケースが、あまりにも多すぎます。決まった項目を教えて、そのあとは教え子に質問をする。時には、尋問するかのように。悪い成績というのは、いわば父母に当てて書いた、子どもについての「密告」のようなものです。
 池田 「密告」とは、思いきった表現ですね。しかし、教師という存在が、どれほど重要か。
 私の恩師である戸田先生は、偉大な教育者でした。戸田先生は、牧口先生の教育理念、精神の衣鉢を継いでおられたわけですが、その恩師の信念が、どんな劣等生でも優等生にしてみせる、というものでした。
 恩師は、一九二三年、二十三歳の時に、小学校の訓導(正教員)をやめ、「時習学館」という私塾を開きました。そこで、夜間、独自の教育方針のもと、子どもたちを教えたのですが、そこで学んだ小学生たちは、ぐんぐん成長し、一流の志望校へ、どんどん進学していきました。その地域一帯に、昼間の学校はダメで、夜の学校(時習学館)でなければダメだ、という評判がたち、市立の小学校の教師から、たいへんやっかみの目で見られたそうです。
 事実、小学校の教育が、子どもを一定の鋳型にはめこもうとする、型どおりの、無味乾燥なものであったのに対し、恩師の教育方法は、子どもたちの好奇心を刺激し、学問の楽しさのなかから、一人一人の創造性を引きだす、水際だったものでした。
 その一端は、のちに創価学会の会長としての、絶妙な会員指導のふしぶしからも、うかがい知ることができました。牧口先生といい、戸田先生といい、じつに偉大な教育者でした。
2  おもしろさから学ぶことへ導入
 リハーノフ そのように子どもに奉仕する教師の姿は、おそらくいずこの国にも見いだすことができるのではないでしょうか。そして、残念なことですが、悪い教師というものも万国共通ですね。
 教え子に悪い点数をつけるとき、はたしてそれは、たんに教え子だけにあたえられる評価なのでしょうか。
 それは、教師としての失敗の証でもあります。
 つまり、教師の説明の仕方が悪かったのです。教師が、繰り返して教えることを怠ったということなのです。また、一人一人の子どもを見てあげるという責任を、感じていないということなのです。
 こうした例は、あまりにも多すぎます。
 教師を信頼するのではなく、敵として恐れ、自分の存在を脅かす脅威として感じてしまう子ども――やはり、子どもは子どもです!――は、ダチョウのような現実逃避の行動をとり、砂に頭を隠すように、自分の殻に閉じこもってしまうか、学校をさぼってしまいます。
 これは、教師と子どもの関係が、危機的になっていることを物語っています。悪い成績は、子どもが怠けずにもっと努力し、頑張るためのものだ、と言ってしまえばそれまでです。ただ、現実は、そう容易に理想どおりにはいかないものです。
 池田 それに加えて、とくに日本では、不登校の原因として、学校や勉強が“つまらないからだ”という指摘もあります。
 「一流」校、「一流」大学を出て、「一流」企業に就職することを最高のコースとする、一元的な価値観が支配的なため、すべてが、そこに集約されてしまいがちです。
 そのコースを歩むために、直接必要とはされないもの――たとえばスポーツや良書と親しむこと、遊びや友だちづきあいなど、青少年の健全な成長に欠かすことのできないものも、二の次、三の次にされてしまいます。
 また、勉強にしても、試験に合格することが第一義とされているため、戸田先生が行ったような、おもしろさから学ぶことへ導入していくのではなく、どうしても、受験のための“ノウハウ”(技術)にかたよってしまう。“つまらない”はずです。
 なかには、生徒の想像力や創造性をつちかうために、ユニークな方法を試みる教師もいるのですが、今度は、親のほうが、押しなべて歓迎しません。受験に役立つもの以外は無駄だ、というわけです。
 これでは、そのコースから外れた子どもは、全人格的価値まで傷つけられたように感じ、また、友情を育むべき友も、競争相手として、蹴落とすべき存在となってしまいます。学校がつまらなくなって落ちこぼれていってしまうのは、半ば当然でしょう。そこから、いじめや非行などの問題行動までは、一歩を余すのみです。
 また、いわゆる“優等生”にしても、こうした一元的な価値観が支配的ななかでは、無意味な優越感のとりこになりやすく、エリート意識の強い欠陥人間が、形成されがちです。
3  豊かさのなかの精神的な貧困と飢餓
 リハーノフ そう。問題はまさにそこなのです。
 前章で論じた「群れ」は、アウトサイダー(部外者)や落ちこぼれたちを集めるだけでなく、見せかけの優等生たちをも糾合していきます。それは、「群れ」をなす最大の目的が、他人を排除することで感じる優越感にほかならないからです。
 さて、こう考えてくると、「平和な時代」イコール「個々人の平和」とは言えません。社会が、一見平穏で豊かに見えるからといって、それがそのまま、自動的に人間関係を穏やかにしてくれるわけではないからです。
 むしろ物質的豊かさが増すにつれて、人間関係の複雑さ、むずかしさが増すことはあっても、減ることはないと言えるのではないでしょうか。
 池田 そのとおりです。豊かさのなかの精神的な「貧困」「飢餓」の問題は、先進国社会が共通してかかえている問題です。
 一九九六年六月、アメリカの大統領選を前に「ニューズ・ウィーク」誌が「アメリカの夢――理想の社会はどこに」という企画を載せていました。その書き出しが、「うまくいっているのに、だれもが不満を持っている。それが私たちの時代のパラドックス(逆説)だ」というのです。
 経済的繁栄と個人の自由、労働条件、衛生状態、社会保障制度、人権、性、宗教などの差別の改善等、「一言でいえば、アメリカは非常に住みやすい国になった。にもかかわらず、国民は指導者をののしり、将来を悲観している。政治家や経営者などの『知的エリート』に対しては、侮蔑と不信感をむき出しにしている」と。
 リハーノフ 政治家には見えてこない新たな問題を、庶民は敏感に察知していると、私も思います。
 ところで、どうも物質的に豊かになっても、人間関係の残酷性は薄らいでいかないようです。
 便利さ、豊かさ、生活水準が、もし善良さとか優しさ、他人への思いやりといった資質に影響をあたえ、人間関係をより穏やかなものにしている場合でも、それは、むしろ間接的作用であって、もし直接的影響が認められる場合には、好ましくない影響がほとんどです。
 その一例として、残酷性について考えてみたいと思います。残酷性は、どこから生まれてくるのでしょうか。何のささやきなのでしょうか。一般に教養人と見なされている人々が、家庭という社会から閉ざされた空間で、かわいいはずのわが子に、突如としてみせる野蛮な態度を、どのように説明すればよいのでしょうか。
 池田 ドストエフスキーの小説(『カラマーゾフの兄弟』)の中で、イワン・カラマーゾフは、教養ある紳士、淑女と言われている人々が、いかに子どもに対して残虐な行為を働くかを列挙し、こんな台詞を口にします。
 「じっさい、よく人間の残忍な行為を『野獣のようだ』と言うが、それは野獣にとって不公平でもあり、かつ侮辱でもあるのだ。なぜって、野獣は決して人間のように残忍なことはできやしない。あんなに技巧的に、芸術的に残酷なことはできやしない」(『ドフトエーフスキイ全集』12、米川正夫訳、河出書房新社)と。
 最初はこれを、人間の残酷さを表すレトリック(修辞)かと思っていたのですが、よく考えてみると、レトリックでも何でもありませんね。他の動物の場合は、同一種のうちでは、ケンカなども一定の歯止めがかかっていて、殺しあいまではいきません。狼などのような凶暴な野獣でも、負けたほうはスゴスゴと退散していくだけで、命まではとられないでしょう。
 ところが、人間は、この歯止めがかかっていないので、戦争のような大暴力から、いじめのような小暴力まで、平気で殺しあいにまでいたってしまいます。たしかに「野獣のようだ」というのは、不公平であり、野獣に対する侮辱かもしれません。

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