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日蓮大聖人・池田大作

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第三章 教育と文化の花開かせる“祈り”…  

「子供の世界」アリベルト・A・リハーノフ(池田大作全集第107巻)

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1  子どもは「差別なき心」をもつ国際人
 リハーノフ 私も、あなたと同様、みずからの人生を子どもたちの成長にささげている人間であると自負しています。そのゆえか、先験的にとでも言いましょうか、幼年時代というものがたんなる年齢区分ではなく、特別な世界であるということがしぜんに理解できるのです。
 この“少年と少女の国”は、国境も偏見もない王国であり、もっとも柔和で、もっとも信じやすく、もっとも傷つきやすい「子ども王国」とは言えないでしょうか。
 池田 まったく同感です。そして子どもたちは、その「王国」の中で、よいことも悪いことも、海綿が水を吸い込むように、ぐんぐん吸収していきます。怖いくらいです。
 リハーノフ ええ。その幼年期の思い出という共通項で、民族を異にするさまざまな人々も、皆しっかり結びついていると言えます。なぜなら、幼年期の
 思い出は、多くの場合、似通っていることが多いからです。
 思うに、この「子ども王国」、幼年期こそが、もっとも国際性豊かな世界なのかもしれません。
 そのよい例として、さまざまな民族の子どもたちを幼稚園か学校の一つのグループとかクラスにした場合、彼らが、いとも簡単に友だちになることに着目する人は少なくないと思います。
 池田 幼児こそ、まさしく国際人の資格である「差別なき心」の体現者と言えるでしょう。人間は長ずるにしたがって、民族や宗教の差異にこだわったり、富や権勢を鼻にかけたりして、その心が曇らされ、「差別なき心」の付き合いがむずかしくなってきます。
 以前、アメリカのスピルバーグ監督の映画「ET」が話題になりました。
 ET(エクストラ・テレストリアル=地球外生物)と呼ばれる奇妙な風体をした異星人を、地球の子どもたちが何の抵抗もなく“かわいい”と受け入れているのに対し、大人たちの反応は、おおむね“気持ち悪い”といったものだったようです。
 「差別なき心」のお手本のようなものであり、もしかすると幼児は、国際人というよりも、宇宙人なのかもしれませんね。(笑い)
 リハーノフ この映画は原作もよく知っています。じつは、ロシア語で初めて出版したのが、私だったのです。(笑い)
 幼年期はこのような共通性をもつとともに、やはり文化の違いによって、個性の違いが出てくることも事実でしょう。民族固有の表現方法といってもよいかもしれません。
 日本の教育論について私はあまり多くを知りませんが、東京色彩研究所(色彩研究所は世界でも唯一)の創立者であり所長でもあられる太田昭雄氏の美的情緒教育とその実践については、くわしく存じ上げているつもりです。太田氏は、あなたと同じく、「トルストイ国際金メダル」(国際児童基金協会が授与する最高の栄誉賞)の受賞者です。
 太田氏は、私が存じ上げるところ、ロシアの心理学、芸術論に関心を寄せておられ、氏自身の理論にもロシアのものを一部取り入れられているようです。
 彼の美術教育システムは、国際的な理論をふまえながらも、真に日本的であり、独創性の高いものです。私は、彼が創立し、学園長を務めている幼稚園、学校、色彩研究所を訪ねたことがあり、たいへん感銘を受けたことを覚えています。
 たとえば、美についてロシアとは時にまったく違う解釈がなされていること、また、日本の書道が、日本語のアルファベットや漢字と意味的つながりをもっていること、その漢字の一つ一つが芸術作品であり、独特の絵になっていると知りました。
 池田 興味深いお話ですね。太田氏は、私のメダル授与式のときに、ご夫妻で列席してくださいました。残念ながら、あいさつを交わす程度の時間しかありませんでした。
2  子どもたちへの日本の伝統の影響は?
 リハーノフ わずかでも日本の民族的伝統を知ってみると、また一度でも石庭にたたずんでみると、ふと次のような問いかけをしてみたくなります。
 日本という伝統を重んずる民族文化のなかで、子どもたちはどのように育っていくのだろうか、伝統は子どもの創造性にどう影響しているのだろうか、と。伝統は、子どもの創造性を萎縮させてしまわないか、それとも反対に子どもの創造性をユニークな形で膨らませてくれるのだろうか、と。
 美しく賢明に生きる日本人の大人の世界が、どのように子どもの創造性、子どもの世界に影響しているとあなたはお考えですか。年長者を敬い、礼儀作法を尊ぶ日本的なものが、子どもの心と行動にどのように発現してくるのでしょうか。
 これは、固有の民族的習慣、伝統をかなりの部分で喪失してしまった私たちロシア人にとって、より広くはロシア語圏に住む人々にとって、重大な関心事でもあるのです。
 池田 リハーノフさんに限らず、ロシアの友人と対話していて、いつも面映ゆく感ずるのですが、現代の日本に、民族文化の伝統的美質が、正当に受け継がれているとは言えないのです。
 たしかに、ボルシェビキがロシア正教を弾圧し、教会を徹底的に破壊したような野蛮な形ではありませんでしたが、明治維新にしても、第二次世界大戦後の民主改革にしても、伝統をふまえた上での内的必然性に突き動かされた変革とは言えません。
 ペリーの砲艦外交といい、マッカーサー率いる進駐軍といい、変革の主因は、いずれも外圧でした。
 外圧によるものである限り、無理が生じ、伝統文化との何らかの断絶がもたらされざるをえません。ゆえに、明治の文豪・夏目漱石は、明治維新の変革を「外発的開化」と呼び、断絶に苦しみぬいたのです。
 リハーノフ とはいっても、日本人はたいへん礼儀正しい国民で、歳事を大切にすることで知られています。
 この歳事は、日本では文化的、精神的現象とすらなっているようです。都市化現象で、必ずしも以前のとおりではないにしても、日本の人々は清潔好きです。
 また、幼稚園から始まって、学校、大学の中で、そして政治その他のあらゆる場面で、さまざまな式典が行われていますね。そのようなセレモニーに準備の時間とお金を費やすことを、日本人は少しももったいないとは考えないようです。
 ロシアではこのような行事や式典は軽視され、より日常的、実利的なことが先行されています。ところが日本では、すべてが世代から世代へと、大人から子どもたちへと受け継がれていっているように見えました。
 池田 温かいご理解に感謝いたします。ただ、近年の日本の祝日の決め方など、すべてが伝統をふまえているとは言えません。
 「文化の日」「体育の日」等々、伝統や折節のリズム感など関係ないのです。式典に関して言えば、“ハレ”(正式)と“ケ”(日常)のリズムを欲する人間の本然的な欲求に根ざすものでしょう。
 もっとも、四季の折々のなかで、生活にリズム感をあたえている歳事、たとえばお正月のための餅つきや、女の子の成長を祝う三月の雛祭り、五月の男の子の成長を喜ぶ節句など、好ましいものもあります。
3  子どもたちの瞳の輝きに無限の希望が
 リハーノフ 一方、日本は、一般的にそのような伝統的、民族的なものの枠外に位置づけられる技術の分野でも、先端を行く国として、別の側面をもっています。
 みごとな自動車、テレビ、オーディオ、バイク、コンピューター、エレクトロニクス――この強力な技術の創造物が、社会全体にどのように影響しているのでしょうか。
 それが本来の日本的伝統や習慣を脇へ押しやってしまうようなことはありませんか。それとも、逆に、たとえば厳格なしつけといった伝統があるからこそ、驚くべき技術生産が可能となっていると理解すべきなのでしょうか。
 いずれの場合にしても、伝統と技術は対抗しあっているのですか、それとも対抗関係にはないのですか。そしてそれは、子どもの世界にどのように投影されていますか。
 好むと好まざるとによらず、幼児はかなり早い時期から、社会のいたるところに浸透している技術的創造物の影響のなかに生きていくと思われます。テレビに代表されるような技術性が、冒険とファンタジー、想像力をかき立てる良書との出あいなどを特徴とする幼年期の本来の姿と、どのように融合しているのか考えるべきでしょう。
 池田 おっしゃるとおりです。テレビやテクノロジーのことは、日本でも大きな問題です。
 ただ重要であるがゆえに、じっくり論じる意味でも、次章に大きなテーマとして取り上げたいと思うのですが、よろしいでしょうか。
 リハーノフ おっしゃることはよくわかります。そうしましょう。
 池田 先に「差別なき心」と申し上げたように、「“少年と少女の国”は、国境も偏見もない王国である」――私も、あなたとまったく同じ実感をいだいております。
 私はこの三十七年間で、五十四カ国を旅してきました。その折々に、さまざまな国の子どもたちと出会ってきました。
 子どもたちの瞳の輝きには、民族や境遇を超えた、ある共通のものを感じます。瞳の奥に宿る無限の希望、とでも言えばいいのでしょうか。こうした実感は、決して私だけのものではないはずです。
 印象深かったのは、一九九五年、訪問したネパールでの「出会い」でした。
 ヒマラヤを撮るために、宵やみ迫るカトマンズ市郊外の丘にのぼったときのことです。
 村の子どもたちが、遠巻きに私を見ていました。手まねきすると、私の元にやってきます。夕陽に照らされて、ほんのり赤く染まったヒマラヤの峰々が、私たちを見つめていました。
 私は励まさずにいられなかった。
 「仏陀は、偉大なヒマラヤを見て育ったんです。あの山々のような人間になろうと頑張ったのです」「みなさんも同じです。すごい所に住んでいるのです。必ず、偉い人になれるんです」と。
 リハーノフ そのほほえましいシーンが、目に浮かぶようですね。
 池田 子らの身なりは貧しかった。しかし、瞳はきらきらと、まばゆいほど光っていました。
 おっしゃるとおり、幼年期の心のカンバスに、差別や偏見という色はありません。そのカンバスに、泥を塗りつけるのか、色彩豊かな人間性のハーモニーを描いていけるのか――大人の責任は重大です。
 だからこそ私は、大人に対する以上に真剣に、子どものなかの「大人」に語りかけるように接するよう、自分に課してきました。
 リハーノフ 子どもというのは、うそを敏感に感じとり、
 とくに大人が子どもに話すときに大人が子どもっぽいしぐさで話しかけるのをきらうものです。

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