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日蓮大聖人・池田大作

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第一章 幼年時代、それはまえぶれではな…  

「子供の世界」アリベルト・A・リハーノフ(池田大作全集第107巻)

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1  “メルヘンの世界”から遠ざかる現代社会
 リハーノフ 際立った仏法指導者であり、卓越したヒューマニストであり、対立を世界の協調へと結ぶ、たゆまぬ行動の人である池田会長との出会いが、このような対談となって実現したことをたいへんうれしく思います。
 二十一世紀が目前に迫った今、未来世紀の主役である子どもたちに“希望の灯台”を示すことができるよう、有意義な語らいを残していきたいと思います。どうか、よろしくお願いいたします。
 池田 こちらこそ、よろしくお願いいたします。
 一九九五年、貴協会(ロシア国際児童基金協会)より「トルストイ国際金メダル」を授与されたことは、たいへんな名誉であり、私の人生における忘れ得ぬ思い出の一コマとなりました。
 とくにトルストイは、私が若いころから愛読し、敬愛してやまない大作家であるだけに、感銘を深くしたしだいです。
 優れた作家であり、子どもたちをこよなく愛し続けてこられた総裁との語らいは、必ずや、“若木”がすくすくと育ちゆくための肥沃な土壌を提供することができるにちがいありません。
 リハーノフ 一九九五年の日本訪問からは、本当に快い感動につつまれてモスクワに帰ってきました。
 創価学園の卒業式に出席させていただいたときの、心の洗われるような爽快感、魂の高揚は、決して忘れることができません。今でも、妻とよく思い出話に花を咲かせております。
 池田 ありがとうございます。
 私は、自分の人生の総仕上げの仕事は「教育」と思っていますので、子どもたちのためになることであれば、何でもしてあげたい、とつねに思っております。この対談も、その一環になれば、と念じております。リハーノフ池田会長の創作童話『さばくの国の王女さま』を、一九九六年、モスクワで発刊することができましたのも、われわれにとって大きな喜びでした。エキゾチックなさし絵や物語の展開に興味をおぼえた、という趣旨の声が私の手もとに、いくつも寄せられています。
 訪日の折も申し上げたとおり、現代のロシア、とくにモスクワなどの大都市は、拝金主義が横行し、大人の世界も、子どもの世界も、精神的な荒廃が進んでいますので、幼いころから優れた文物に親しませることが、不可欠なのです。何とかして、その良き習慣を復活させることができないものか――私がつねづね心をくだいているところです。
 池田 日本でも、事情は同じです。童話や名作に親しむ時間は、少なくなる一方のようです。“メルヘンの世界”というものは、むずかしい理屈はぬきにして、人間の生き方や人生の意味、物事の善悪のけじめといったものを“全体像”のもとで教えてくれます。
 ですから“メルヘンの世界”から遠ざかるということは、その社会がどれほどか殺風景で、ひからびた状態になっているかを示しています。いきなり大上段に振りかぶったようなものの言い方で恐縮ですが……。(笑い)
2  真実の宗教は文化運動へ結びつく
 リハーノフ いえいえ、私も同意見です。その大問題は、あとでゆっくり語りあいましょう。
 ところで、池田先生! まず簡単な前奏曲とでもいうところから始めさせてください。
 これは私たち二人というよりは、読者に背景を説明するためのものです。世界には多くの教育学の流れがあります。きわめて理論的なものや、あるいは教育の理論と実践をみごとに一致させているものもあります。
 たとえば、オーストリアの人道主義者ヘルマン・グマイネルが第二次世界大戦後、さまざまな悲劇が残した孤児や犠牲をこうむった子どもたちを守るために作った国際システム「キンデルドルフ―SOS」(「子どもの村―SOS」)があります。
 池田 総裁の教育への尊いご努力、またさまざまな伝統あるシステムは、私もよく存じ上げているつもりです。
 リハーノフ 「キンデルドルフ―SOS」は、修道女が自分の家庭はもたずに、子どもを預かって母親として育てるというものです。モンテッソーリの教育運動
 もあります。そのほか、例を挙げることはいくらでもできます。
 しかし、私がこれこそ完璧で普遍的なシステムだと思うのは、精神的にも、組織的にも、あなたがリーダーであられる創価運動なのです。そこには幼稚園から小学校、中学、高校、大学まであります。
 それだけではありません。あらゆる年齢層の子ども向け雑誌や新聞、大人向けの新聞も出していれば、幅広く広報活動を行い、全国各地に会館ももっています。文化面については美術館など、ただもう賛嘆するばかりです。
 池田 おほめにあずかって恐縮です。多くの読者をもつ児童文学者であり、なおかつ児童教育の不屈の実践者である方の発言であるだけに、重みをもって受けとめさせていただきます。
 総裁の言葉をお借りすれば、私どもの「創価運動」は、一言で言えば「仏法の大地に展開する大文化運動」と位置づけることができます。
 宗教のための宗教などというものはありえず、またあってはならず、真実の宗教は、人間の活動を通して、あらゆる面での文化運動へ結びついていかなければなりません。私どもの運動は、こうした普遍の原理の現実社会への展開なのです。
 リハーノフ なるほど、よくわかります。このようなシステムをごく表面的に分析しただけでも、次のようなことが言えると思います。
 成長過程にある人間が一つの教育段階から別の段階に進む途中で、どうしてもたちはだかる壁があるものです。
 しかし、創価システムのなかではそのような壁に傷つくこともなく、バランスよく落ち着いて、円滑に成長の階段を上りながら一貫教育を終え、確固たる
 価値体系のなかで精神的な成長を遂げていくことができます。
 池田 温かい励ましのお言葉です。
 リハーノフ 創価システムをじかに見て、私は「自分の果たせなかった夢が実現しているのを見た」という思いでロシアに帰りました。
 一九八七年に私が児童基金――当時はソ連の全国組織としてでしたが――を設立したときに夢見ていたのは、まさにそのような独立したシステムの創設だったのです。
 もっとも創価のような教育システムではなく、不幸に見舞われた子どもたちの救済組織としてでしたが。
 しかし、結局、その後のソ連、続いてロシアの社会変動によって、自分の夢を実現することはできませんでした。やはり、事を成就させるには社会全般の安定性が必要であり、ロシアにはそれが欠けています。
3  社会主義の理想とガンジーの予言
 池田 たしかに、社会主義イデオロギーが崩れ去ったあとの精神的な空白ということをよく聞きます。
 「金メダル」を授与してくださったときの総裁のスピーチが、心に焼きついています。
 すなわち、「まるで、クレムリンの足もとに動物の死骸が積まれていて、残忍なカラスの群れがたがいに襲いかかりあいながら、その死骸をずたずたに引き裂いている、といった印象です」「そして、この恐るべき争いのなかで主役を演じているのは、十年前のいわゆる民主改革の初期には、まだ子どもだった青年たちなのです」と。
 痛ましい限りですが、悪に染まりやすく、崩れるのも早ければ、立ち直るのも早いのが、青少年時代の魂の特徴です。その可能性を信ずるところから、私どもの共同作業も始まるのですね。
 リハーノフ わが国の政治の崩壊、とくに制度の崩壊は、どうしてもモラル(道徳心)の破綻を招きました。それは青少年に顕著に表れています。
 池田 重ねて申し上げますが、日本など自由主義社会の現状も、お世辞にも及第点のつけられるようなものではありません。
 ロシアが、社会主義体制の崩壊という激震に見舞われたショックによる“心臓発作”であるとすれば、日本の現状は、ひょっとすると、気がつかないうちに徐々に進行している“がん”かもしれないとさえ、私は思っているのです。
 リハーノフ しかし、創価の成果にはただ賛嘆するばかりで、きわめてユニークな現象であると思います。あなたの最大の功績は日本社会の中に、すべての人に開かれたグローバルな独自の市民社会を作られた、ということでしょう。
 それは一つの殻の中にさらに別の殻を作るということではなく、英知と豊かな精神性をもつ内なる組織体で、その組織体の透明な壁をすりぬけてポジティブ(積極的)な力が両方向に働き、行き来しているのです。
 池田 おっしゃるとおり、会員個々にあっても、あるいは組織面においても、社会との間に“垣根”がないことが大切です。
 リハーノフ こんなことを言うといやな思いをされるかもしれませんが、あなたが実現された社会的理想は、社会主義の理想に近いものだと思います。もちろん、社会主義の声高な政治スローガンや、巧妙な世界制覇の野望などは除いた上での話ですが。
 池田 いえ、決していやな思いなどしません。体制が崩壊したからといって、社会主義が志向していた理念である「平等」や「公正」という言葉は、決して死なせてはならない。
 これは、ゴルバチョフ元ソ連大統領との対談でも述べたのですが、私は、仏法を基調とした私どもの運動の一側面を「人間性社会主義」と形容しました。ほぼ三十年ほど前のことです。この信念は今も変わっておりません。
 総裁のおっしゃる趣旨は、私にはよくわかるような気がします。インドのマハトマ・ガンジーにも「社会主義は水晶のように純粋である」(K・クリパラーニー編『抵抗するな・屈服するな――ガンジー語録』古賀勝郎訳、朝日新聞社)という、きわめて含蓄の深い言葉があります。「水晶のような手段」すなわち「純粋な心の持主で、誠実にして非暴力的な社会主義者のみ」(同前)が、その建設者たる資格をもつ、と。これは、ガンジーの痛烈なアイロニー(皮肉)でもあります。
 リハーノフ ガンジーの言いたい意味は、よく理解できます。「平等」や「公正」を実現するには、まずエゴイズムを克服した「私心なき人間」が前提となりますからね。
 池田 ガンジーが言うような社会主義であるためには、何らかの宗教的バックボーン(背骨、支柱)が必要だったのです。それなのに、無神論という“玉座”に傲然と居座っている現実の社会主義者ほど、そのようなイメージと遠いものはなかったのでしょう。
 残念ながら、その後の社会主義の歩んだ、非暴力とは正反対の血塗られた道は、ガンジーの言葉の正しさとその予言的性格を、証明しました。
 したがって、ガンジーの言葉から必然的に浮かび上がってくる、誠実にして純粋な人間像は、たしかに、私どものめざしている「人間革命」というテーマと、強く響きあってくるでしょう。

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