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日蓮大聖人・池田大作

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「人間復興の世紀」への指標  

「二十世紀の精神の教訓」ミハイル・S・ゴルバチョフ(池田大作全集第105巻)

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1  「新しきヒューマニズム」は人間の中に
 池田 これまで「二十世紀の精神の教訓」とのテーマで語り合ってまいりましたが、総裁とは、多くの点で意見の一致をみることができました。実り多い語らいであつたと心から感謝いたします。
 ゴルバチョフ 私のほうこそ、池田会長との対話は、じつに楽しく示唆に富むものでした。生命の尊厳を護り、生きとし生けるものを擁護していこうという思想に、深く共鳴しているという点で、あなたと私は、同じといえるでしょう。
 残念なことに、多くの、ことに西欧の知識人たちは、近代思想の否定は、新たな宗教的原理主義と保守主義の台頭をはらんでいると考えているようです。これに関して、私は、「新しきヒューマニズム」とのテーマで、あなたの所感をうかがいたいと思います。
 池田 そうですね。人間の生命を手段化するような、いかなる思想もイデオロギーも宗教も、決して正当化されてはならないということは、この対談を通して、何回となく確認し合ってきたところです。
 ゴルバチョフ 私も、あらゆる多様性と個別化の可能性を秘めた″生命″そのものが、至高の価値であり、すべてに対して唯一の原点であるべきだと考えます。
 そうであるとすれば、社会的制度の変化、改造それ自体は、目的たりえないはずです。そのような制度上の変化は、幸福でありたい、安寧でありたい、満足の人生でありたいといった、人間の要求に呼応していなければなりません。
 新しきヒューマニズム、人間存在の精神的価値は、人間自身のなかに求められるべきです。人間こそが、すべての尺度であり、あらゆる主義主張の真偽を見極めるうえでの、評価基準とならねばなりません。
 池田 まったく同感です。往々にして、その基準を見失い、何が目的であり、何が手段かを混同してしまうところに、現代の悲劇があるといえます。
 ゴルバチョフ いかなる場合も、人間生命が基本であり、理論は従です。生命そのものが″価値″なのです。したがって、人間の生命を犠牲にしてもよいという大義名分などありえませんし、それを裏づける理論や理念もまたありえません。
 たった一度だけ与えられている生命です。人生の喜び、心と心のふれあいを味わうのも一度きりなのです。ゆえに生命の権利は神聖であり、何人もこの唯一の生命を侵す権利をもってはいません。
 「手段を選ばず」的な考え方を正当化できるような目的はありません。これこそが、私たちの二十一世紀への選択なのではありませんか。
 池田 そのとおりです。その意味からも、巷間いわれる「一人の人間の生命は地球よりも重い」との標語は、文字どおり″二十世紀の精神の教訓″として語り継いでいかねばなりません。
 ただ、これは一見当たり前の原則のようでいて、いざ実行しようとすると、すぐさまアポリア(難問)に直面してしまいます。
 そのアポリアとは、戦争や殺人、暴力やテロなど、いわゆる人間の本性に根ざす″悪″をめぐって、古くから論議されてきたものです。この点をしっかり押さえておかないと、生命の尊厳・非暴力といっても、いたずらに悪を容識しながら無為徒食に甘んずるという、およそ人間らしからぬ、弱々しい、怠惰な生き方にまで堕しかねないからです。
 そのことを考える一例として、帝政ロシアの末期を暗く彩っている、テロリストたちの生き様にふれてみたいと思います。仲間から″詩人″と呼ばれ、二十八歳で刑場の露と消えたカリャーエフなどは、その代表的人物でしょう。彼の心の葛藤に、少しふれてみたいと思います。
2  ロシア・テロリズムの「悲劇」と「病理」
 池田 まず、彼をめぐる有名なエピソードがあります。
 ――この若きテロリストは、暴虐なモスクワ総督セルゲイ大公を殺害しようと、苦心に苦心を重ねながら行方を追っていた。
 あるとき、苦労のかいあって、街頭で大公の車を発見。千載一隅のチャンスとばかり爆弾を手に待ちかまえていた。すると、大公の脇に、がんぜない幼子が同乗しているではないか。暴君を殺害すれば、幼子まで巻き添えにしてしまう。投ずるべきか否か、わずか数秒の間に、カリャーエフは巨大なジレンマにつかみとられ、ついに爆弾を手にしたままチャンスを逃してしまうのです。
 私は、このエピソードを、アルベール・カミュの著作で知りました。カミュは、カリャーエフら一連のテロリストを、「心優しき殺害者たち」と呼んでいます。
 ゴルバチョフ ええ。十九世紀終わりから二十世紀初めにかけ、ロシア・テロリズムの陰には、教養ある道徳人たちの悲劇があり、革命が彼らを殺人者にしてしまいました。
 しかし、忘れてならないのは、悲劇があっただけでなく、そこにロシアの革命的インテリ層の病理があったということです。私たちがこの対談でふれてきた、マキシマリズム(極左主義)の革命的性急さの病理があったということです。
 池田 よくわかります。なおかつ申し上げたいことは、病理とはいえ、それは、現行のテロリズムが帯びている救いようのない病理とは、よほどニュアンスを異にしていた、ということです。
 いうまでもないことですが、カミュにしても、テロには反対でした。しかし、そこにはすぐさま、ツアーリの暴政という、より巨大な暴力を容認するのかという反問が待ちかまえていることも、自明の理なのです。
 民衆を塗炭の苦しみに落とした暴政は、人間の名において許すことはできない――こうした叫びが、暴力的な形をとるか、トルストイのように非暴力的な形をとるかは別にして、澎湃と沸き上がったことも事実です。
 私の個人的心情としては、非暴力の道を選ぶことは当然ですが、完全な閉塞状況のなかで、正義感に燃え、血気にはやる青年たちのやり場のない怒りや心情も、理解できないわけではありません。
 とくに、私が注目したいのは、彼らが、暴力愛好のメンタリテイーとは対極にあったこと、人間の尊厳を守るはずが、テロ行為に訴えざるをえなかったという矛盾を真正面から受けとめていたこと、そして、そうしたなか、ぎりぎりの選択をなしゆく「意志」と、倫理的な「緊張感」の持ち主であったということです。
 カミュは、それらのテロリストについて、「彼らもまた暴力の不可避性を認めてはいたが、それが正当化されないことを告白していると信じられる節がある。殺害とは、必然的ではあるが、許せないもののように彼らにはみえたのである」(『反抗的人間』佐藤朔・白井浩司訳、『カミュ全集』6所収、新潮社)と語っています。
 当時のテロリズムには、たしかに許しがたいこことはいえ、こうした共感を呼び起こさざるをえない「意志」や「緊張感」をはらんでおり、それが、ある種の″救い″になっているのだと思います。
3  「非暴力は勇気の極致」
 池田 人間性のやむにやまれぬ発露である「意志」や「緊張感」――換言すれば、真の意味での精神の力こそ、生命の尊厳という価値を見いだしていくうえで、欠かすことのできないものです。
 このことは、テロリズムとは、およそ対極に位置している非暴力の使徒ガンジーにして、次のような言葉を残していることからも、裏づけられると思います。
 「私の非暴力は、危険から逃げ去り、愛する人たちを保護もせず放置することを認めない。私は臆病よりも暴力を選ばざるを得ない」「非暴力は勇気の極致である」(『抵抗するな・屈服するな』古賀勝郎訳、朝日新聞社)と。
 人々が、生命を手段化する″イデオロギーの悪酔い″から醒めようとしつつある現在、なお私が″生命の世紀″への展望を楽観視できないのは、そうしたよく生きようとする「意志」や倫理的な「緊張感」が、まったく欠落しているように思えてならないからです。
 ゴルバチョフ よく理解できます。先に「病理」と申し上げたことに関して、私は、セルゲイ・ブルガーコフの言葉を引用してみたいと思います。ちなみにブルガーコフは、カミュにも影響を与えています。
 テロリストについてつづっている中で、彼は第一次ロシア革命についてふれ、「きわめて遺憾なことは、近年出現した手段のためのマクシマリズムも、目的のためのマクシマリズムに結びついていることである」とし、「手段を選ばぬということ、英雄主義的な『すべては許されている』というこの確信は、インテリゲンツイア(知識人層)のヒロイズムの人神論的性格を最高度に表すものである」(『ヒロイズムと苦行』、『道標 ロシア革命批判論文集』I〈長縄光男・御子柴道夫訳〉所収、現代企画室)と述べています。
 ロシアのテロリストは、ナロードニキ(人民主義者)もロシア社会革命党員も、たしかに教養のある人々ですが、それと同時に、やはり心の弱さがみられます。彼らは、概して、興奮状態のファナティック(狂信的)な人間で、たとえそれが正義のためであっても、暴力はまた新たな暴力を呼び、社会の道徳規範を壊してしまう、ということに気づいていませんでした。
 私たちコムソモールは、小学生のころから、マルクス主義もボルシェビズムも、政治テロを強く否定しているということを知っていました。
 これが原因で、レーニンとテロリストとして処刑された兄アレクサンドル・ウリヤノフの見解が分かれてしまったということも知っていました。とはいえ、実際にはボルシェビキたちは、政治テロをさけて通ることはできませんでしたが。
 池田 たしかに、そうした当時のロシアの特殊性は、考慮する必要があるでしょう。私も、テロリズムを肯定しているわけでは決してないのです。ただ、昨今の一般市民はおろか、老人や婦女子などを巻き込んで、いっこうに恥じることのない都市型無差別テロの残虐さ――そこに露呈されている無惨なまでの生命感覚の荒廃を考えるとき、カリャーエフのようなテロリストにさえ、私などは、まだしも救いを見いださざるをえないのです。
 しかし、おっしゃるようにテロリズムの芽を断つためには、無条件に否と断じていくことが肝要であることは論をまちません。

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