Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

「新たなる人道主義」の世紀  

「二十世紀の精神の教訓」ミハイル・S・ゴルバチョフ(池田大作全集第105巻)

前後
1  生命の尊厳観の確立こそ最重要の課題
 ゴルバチョフ ここでは、人類がめざすべき「新たなる人道主義」について、語り合ってみたいと思います。
 初めに、私たちがペレストロイカを始めたときのことから、話をさせていただきます。
 池田 結構です。ペレストロイカが始まり、新思考の政策が注目され始めたのは、今から十年前でしたね。
 ゴルバチョフ ええ。ちょうどペレストロイカが端緒についたばかりのころでした。私は、同じ考えをもっていた仲間と、第二七回共産党大会で行う政治報告の原稿を準備していました。そのとき、私たちのなかには、明らかに「新しい人道主義的思考」「新しい世界観」が熟していました。
 ただし、それをどのように表現するか。混乱と痛みを最小限にくい止めつつ、それを人々に伝える方途を模索していました。
 全人類的価値が優先されるべきであるという結論を、私が公に発言したのは、イシク・クーリ・フォーラムの参加者との会見のときでした。その発言は「コムニスト」誌上に掲載されるところとなり、大反響を呼びました。もちろん、反響は決して一様ではありませんでした。論争は今も止んでいません。
 池田 イシク・クーリ・フオーラムといえば、アイトマートフ氏が主宰した有名な円卓会議ですね。氏も私と対談したさい、懐かしそうに振り返っていました。たしかに、顔ぶれからいつても、″歴史的宣言″がなされるにふさわしい場であったと思います。
 ゴルバチョフ イシク・クーリ・フオーラム参加者との会見の席で、私は初めて、それまで長い間考えぬいてきたことを語りました。すなわち、人類文明総体の意味とは、また進歩・文化のもつ意味とは、と問うとき、突き詰めれば、それは、「人間生命」というすべての依って立つ大地を擁護することに尽きる、と申し上げたのです。これこそが、最も自然に則したあり方であり、健全だからです。
 池田 まったく賛成です。「人間生命」は、それ自体が目的であり、絶対に手段化されてはならないものです。こうした生命の尊厳観の確立こそ、二十一世紀へ向けての最重要の課題といえるでしょう。
 以前、申し上げたように、亡くなったライナス・ポーリング博士と私との対談集が、『「生命の世紀」への探求』(本全集第14巻収録)と題されているのも、その一点で、両者の意見が一致したからにほかなりません。来るべき世紀を「生命の世紀」と位置づけたい、との私の提案に賛同しつつ、博士は次のように語っておりました。
 「二十一世紀を『生命の世紀』に、との池田会長のご発言について申し上げれば、その意味されるものは、人間生命そのものに今まで以上の焦点が合わされ、人間の幸福と健康が大事にされる時代だと思います。私の思う二十一世紀とは、分子生物学の興隆する時代で、現在における以上に、生命の実体に関する詳細な理解が得られる時代です。二十一世紀を『生命の世紀』に、ということはすばらしい考えです」
 ゴルバチョフ わかります。多くの悲劇が展開された今世紀はまた、生命それ自体の価値、人間の尊厳についての多くの格言を残しています。
 池田 ポーリング博士などは、その現代人の規格を大きく超えたすばらしい人格の持ち主でした。じつは、ポーリング博士も、ゴルバチョフ・ファンの一人だったのです。
 博士は語っていました。「今後の世界情勢の動向を思うと、私の胸はおどります。勇気がわきます。ソ連が動きだしました。ゴルバチョフ大統領のリードで、現実に世界軍縮への潮流が流れ始めました」と。
2  大地と人間と人生の一体性に感銘
 ゴルバチョフ それは、恐縮です。
 ところで池田さん、私も私の妻も、じつは、「自然」と「人生」の美しさを最も的確に描写したのは、日本の文学者・思想家だと思っているのです。この日本人の天性は、だれも真似ることはできません。もしかすると、天から与えられた資質なのでしょうか。それとも日本の自然の美しさに由来するものでしょうか。限られた少ない言葉のなかで、見事に本質を言い当てています。
 池田 総裁ご夫妻が、日本文化を深く理解し、評価してくださることに感謝いたします。好きな日本の文学者はおられるのですか。
 ゴルバチョフ そうですね。私がまだ共産党書記長をしていたころ、当時の習慣で、ロシア語に訳された徳冨蘆花の撰集の初版が、私のところに届けられました。私はこの小さい本を家に持ち帰り、ライサに渡しました。彼女はこの本に深く感銘したようです。その後、私自身もこの本を読んでみました。私は農民の子です。私の祖先は、土を耕して働いてきました。
 そんな私が、徳冨蘆花の本を読んで、最も驚き感銘を受けたのは、大地と人間と人生の一体性を、見事に謳いあげている点でした。
 「土の上に生れ、土の生むものを食ふて生き、而して死んで土になる。我儕われらはひ畢竟ひっきょう土の化物(=生まれ変わり)である。土の化物に一番適當てきとうした仕事は、土に働くことであらねばならぬ。あらゆる生活の方法の中、尤もよきものをえらみ得た者は農である」(『みみずのたはこと』、『蘆花全集』9所収、新潮社)
 池田 話をうかがっているうちに、一九九四年五月のモスクフでの出会いを思い出しました。あなたは、ご自身の来し方を振り返りながら、現在のような人間になった「責任」の多くは、人生の多くの時間を過ごしたスタープロポリの、草原や山、その自然にあるのかもしれないと語られましたね。
 『自然と人生』をはじめ徳冨蘆花の著作は、私の若いころの愛読書であっただけに、ことのほか、今の話に親近感をおぼえます。ご存じのように日本人・蘆花は、トルストイの熱烈な信奉者でした。
 一九八一年の第三次訪ソのさい、私は、モスクワ市内の「トルストイの家」博物館を訪れました。そこには、ヤースナヤ・ポリャーナの老文豪を訪問した蘆花の様子が写真となって飾られており、あらためて往時をしのんだものです。
 私は海苔づくりを生業とする家庭に生まれ、海に慣れ親しんで育ちましたので、森や草原とは少し趣が違いますが、いずれにせよ日々、胸いっぱいに呼吸してきた生命空間の広がりという点では、急速に自然破壊の進んだ二十世紀後半、とくに世紀末にあって、人間はいかにも貧寒になってしまったといわざるをえません。
 ゴルバチョフ そうですね。その意味でも、″私たちの惑星″の自然を擁護することに人生を捧げる人々によって、私が「グリーンクロス・インターナショナル(国際緑十字)」という新しい組織の会長に選ばれたことを、誇りに思っています。これもみずからの運命の象徴なのかもしれません。
 私は、シュバイツァー賞を受賞しているのですが、これは私にとって、とても意義深いことと思っています。というのも、シュバイツァー博士は、宣教師としての生涯を通して、今あなたと私が取り組んでいるのと同じ課題に挑戦した人だからです。彼もまた、二十世紀において体験した戦慄と苦悩から、人類を救い出しうる「新たなる人道主義」の基盟を形成することに腐心しました。
 池田 なるほど。シュバイツァー博士のことは、私も日本の青年たちに、その人生と生き方について語ったことがあります。
 ゴルバチョフ そうですか。
 彼の言葉に耳をかたむけてみましょう。「善」と「道徳」の新しい解釈に関して、「人間は、助けうるすべての生命を助けたいという内的要求に従い、生命あるものならば害を加えることをおそれるというときにのみ、真に倫理的である。かれは、この生命が、どれほどの尊い関心に値するかを、またそれらが感受能力があるかどうか、どの程度にそれがあるかを問わない。生命そのものが、かれには神聖なのである」と述べています。
 このような道徳観と生命へのアプローチは、二十世紀の機械的世界観から、人類を脱皮させうる、多くの示唆を含んでいます。二十世紀の機械的世界観にあっては、人間は往々にして、自然を改造し、征服し、物事の道理を無視して、世界をねじ伏せてきたみずからの行動が何をもたらし、はたしてその先どうなるのかを思慮するにはいたらないのです。
3  現代文明の危機とは拡張主義思想の危機
 ゴルバチョフ 人類は永遠の存在ではないこと、自然の破壊と改造には限界があること、過去の否定が、必ずしも向上をもたらすとは限らないこと、後には何も生まないような否定もあるのだということ――二十世紀の半ばを過ぎて、ようやく人類は、そうした現実に思いを致したといえるでしょう。
 近年、多くの識者によって指摘されているところの現代文明の危機とは、拡張主義思想の危機であり、その最後の奇形です。したがって、現代においては、「どの拡張主義が云々」と、その種類やタイプを比較することは、ナンセンスといわざるをえません。
 共産主義の拡張と科学至上主義の拡張は、他のすべてを一つのものに従属させるという点で、つまり、共産主義では、「平等」というイデー(理念)に、科学至上主義では、「科学」に従属させるという意味において、両者は共通項で結ばれるのではないでしょうか。
 池田 同感です。理性や科学に依拠しながら、人間の歴史の進歩・発展を楽観的に信ずることのできた″幸福な時代″は、とうに終わりを告げました。そうした近代文明のあり方への懐疑は、すでに十九世紀の世紀末において、幾人かの先覚の人々によって、警鐘が鳴らされていました。総じて二十世紀の歴史は、そうした警鐘の正しさを跡づける歩みであった、ということができます。
 あなたのおっしゃる拡張主義思想の特徴をじつに的確に形容している人に、フランスの文明批評家のポール・ヴァレリーがいます。彼は、それを「ヨーロッパ」のイメージでかたどっています。
 「ヨーロッパ精神』の君臨するいたるところに、欲望の最大限、仕事の最大限、資本の最大限、生産能率の最大限、野心の最大限、権力の最大限、外的自然変改の最大限、交渉と交易の最大限が現れているのが見られるのだ。これら最大限の総体が『ヨーロッパ』である、或は『ヨーロッパ』の相である」(『ヨーロッパ人』渡辺一夫・佐々木明訳、『ヴァレリー全集』11所収、筑摩書房)と。
 貪欲なまで認識し、行動し、支配し尽くそうとする、いわゆる″ファウスト的自我″のもつ悪魔的側面です。
 たしかに、それは、近代文明を発展させる最大の駆動力ではあったが、おっしゃるとおり、その拡張主義は、ローマ・クラブの有名なリポートのタイトルが、『成長の限界』とされているように、明らかに壁に突き当たっています。
 ゴルバチョフ まさに一刻も猶予できません。
 現代の危機の特異性は、私たちが今、初めて、人類滅亡をまぎれもない現実の可能性として凝視している点にあります。人類史上初めて、生存圏の安定が破壊されるという兆候が現れました。その自己再生の可能性も絶たれています。
 技術と文明の向上、完成を基とする技術本位のプロセスは、自然と人間の対立を緩和させなかったばかりか、逆に深刻の度を深めてしまいました。もしもこの対立が解決されなければ、人類を待ち受けているものは、核戦争の後遺症にも匹敵する惨憺たる事態しかありません。
 池田 おっしゃるとおりです。今や人類は、あくまで″最大限″をめざそうという意志や欲望に、なんらかの制限を加えなければ、文明そのものが滅亡しかねない時期を迎えています。巷間、「地球二十九日目の恐怖」などということが盛んにいわれています。
 ――一つの池に最初一枚のハスの葉を入れ、その葉が一日ごとに三倍に増えて、三十日で池いっぱいを覆ってしまうという前提を置いてみると、池の半分がハスの葉で覆われるのは二十九日目ですが、池全体が覆われるのには、あと一日しかありません。
 まだ半分は大丈夫と思っていても、じつはたった一日の猶予しかない。人口や資源、千不ルギー問題などの現状は、まさに、この二十九日目の状況にあるのだ、と。
 ゴルバチョフ いわゆる地球の温暖化現象(温室効果)、オゾン層の破壊(オゾンホール)、土壌の疲弊、海洋汚染等、近年幾度となく警鐘が打ち鳴らされているにもかかわらず、政治家はこの問題をあまりに軽視しているようです。彼らは、目前の権力闘争と勢力拡張に余念なきあまり、足下の大地が燃え、すべてが崩れ落ちそうになっているのが見えないのでしよう。
 ゆえに、エコロジークライシス(環境危機)とは、伝統的価値観、規範の危機であり、精神の危機、世界観の危機にほかならないと申し上げたい。
 池田 まったく同感です。指導者が最優先して考えなければならない問題です。
 ゴルバチョフ 池田さん、最近、特別に理由があってのことではないのですが、ゲーテを読み返し始めました。私たちの若いころ、とくに学生時代は、だれもが彼の『ファウスト』を読んだものでした。もちろん、私も読みました。ただ、当時はなぜかゲーテの英知を素通りしてしまったようです。
 ちょうど五〇年代の初めのころでしたから、私たちは皆コミュニスト(共産主義者)で、その意味では、ヘーゲルに傾倒していましたので、「過去を否定することなくして進歩はない、過去を強く否定すればするほど、また過去の遺物と容赦なく戦えば戦うほど、未来の繁栄はより確実になる」と信じていました。
 かのゲーテは、ヘーゲルと熱い論争を交わし、啓蒙主義時代の幻想、無限の進歩思想に反論して譲りません。彼は、ヘーゲルの公式は頭脳ゲームでしかなく、生きた生活や現実の人間の歴史は、いかなる図式にも当てはまるものではない、と書いています。

1
1