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日蓮大聖人・池田大作

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「内なる革命」による人間主義  

「二十世紀の精神の教訓」ミハイル・S・ゴルバチョフ(池田大作全集第105巻)

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1  二十一世紀の展望に不可欠な発想の転換
 池田 ここで、二十一世紀を展望するうえで、不可欠なポイントとなるであろう点を一つ、問題提起したいと思います。それは、思考の回路を「外」から「内」へ、だけでなく、「内」から「外」へ、つまり「環境革命」から「人間革命」だけでなく、「人間革命」から「環境革命」へと方向転換していく、ということです。
 ゴルバチョフ この論議は文字どおり、「二十世紀の精神の教訓」ということになりますね。
 わが国が迎えた崩壊と騒乱の時代は、太古よりの理性と本能の葛藤に、たしかに新しい局面を登場させました。今ロシアが学んでいる歴史の教訓は、全人類の関心を呼ぶものだと思います。
 池田 よくわかります。
 「戦争と革命の世紀」といわれた二十世紀は、文明の進歩とは裏腹に、史上かつてないおびただしい人命の犠牲がもたらされました。その最大の要因には、ナチズムのように「民族」を第一義とするにせよ、ボルシェビズムのように「階級」を第一義とするにせよ、視線がもっぱら「外」に向けられ、「人間」自身が二義的、三義的なものとされてきたと思うのです。
 つまり、「外」なる条件、すなわち法や制度、経済などの面から、民族的・階級的矛盾を解消することが、おしなべて人間社会の幸・不幸を決定づける根本要因とされてきたわけです。現代の「民族浄化」などは、そうした風潮の残像というか、無残なる嫡子であるといえるでしょう。
 ゴルバチョフ そうですね。とりわけ民族中心主義は大きな危険をはらんでいます。
 池田 その意味でも、私は、今こそ人間の内面へ視線を移し、「内」なる課題の解決を第一義にしつつ、「内」から「外」へと、発想の転換をはかっていくことが必要であると思います。
 その点、イギリスの詩人、T・S・エリオットは興味深い、重要な指摘をしています。
 「世俗的な改革家や革命家の運命が一段と安易のように私におもわれる一つの理由はこういうことなのです――主としてこれらの人々は世の悪を自分の外部にあるものと考えているということです。この場合、悪はまったく非個性的と考えられるので、機構を変戟する以外に手はないということになります。あるいは悪が人間に具体化されているとしても、それはいつも他人の中に具体化されるのです」(『キリスト教社会の理念』中橋一夫訳、『エリオット全集』5所収、中央公論社)
 「悪は内部にあり」「敵は自らの内にあり」――まさに今世紀の諸々の難問の核心を突いた指摘ではないでしょうか。
2  己の胸中の制覇が問題解決の根本
 池田 この点、仏教でも、あらゆる悪の根源はみずからの心の「無明」にあり、これを乗り越えること、言い換えれば「無明」を「明」に転ずることが、人生の一切の問題を解決するための根本であると説きます。
 東洋の諺に「山中の賊を破るは易く、心中の賊を破るは難し」とあるように、己に勝ち、己の胸中を制覇することは、たしかに至難の業ですが、民族問題であれ何であれ、そこをさけて通っては、事態の抜本的な解決はありえない。当然、日本とロシアでは状況が違いますが、こうした課題について、あなたのご意見をお聞かせください。
 ゴルバチョフ そうですね。ロシアの観念論哲学者、たとえばベルジャーエフなどは、ロシアに存在する悪は、すべてがマルクス主義と唯物論、社会体制の優位性、過度な分配重視からきていると考えていました。それゆえに、物質から精神への回帰を呼びかけ、各人の精神生活を「人間がもつ唯一の想像の力」として育んでいくことを訴えていったわけです。
 もし仮に、精神・モラルの優位性が認められないならば、そして絶対的な良心の法則や道徳規範が疑間視されるとすれば、世界は本当に崩壊してしまうでしょう。
 ここで最大の率直さをもって認めなければならないことがあります。
 すべての悪は、唯物論・マルクス主義にある、と考えていたロシアの偉大な思想家たちの予測は的中しなかった、ということです。
 彼らが夢見ていたことはたしかに起こりました。民族の知的、精神的、宗教的発達を阻んでいたすべての足枷が取り除かれました。ピョートル・ストルーヴェなども考えていたように、ロシアの人々は、「階級的・国際主義的社会主義」や、「政治・社会の体制崇拝」から解放され、「道標派」たちが、民衆の精神と生活に破壊的影響をおよぼすと見なしていたすべてのものから解き放たれました。
 一九一七年から七十年余りの間、「反啓蒙主義」だ、「反動主義」だとされてきた思想が、幾歳月を経て初めて、文化・思想言語として堂々と認められるようになりました。そこには内面性の優位と人間の精神的成長、そして革命的過激主義批判を標榜する「道標派」も含まれます。
 しかし、マルクス=レーニン思想を乗り越えた結果、はたして人々は、より開明的になり、自国の運命やロシアの行く末をより深く考えるようになったでしょうか? ストルーヴェが夢見たように、ロシアの威厳と過去を尊ぶ人が増えたでしょうか?
 池田 重要な問題です。そこがポイントです。
 ゴルバチョフ われわれの悲劇は、ソ連、つまりソビエト・ロシアの崩壊、統一国家内の関係の地すべり的な崩壊、経済・文化そして人間的つながりの崩壊が、一九九一年八月の反マルクス、反共革命の結果起こった、ということです。
 ロシア史において、共産主義を打ち負かした勝利のこのときほど、民族的ニヒリズムが色濃く支配していたことはありませんでした。
 このときに、またも「革命によるじめつけの思想」「革命的ショックの焼き直し」が出てきたのです。
 池田 なるほど。おっしゃることは、私なりによく理解できます。
 帰するところは、私たちが、この対談の当初から論究しつづけている大テーマであり、おそらく、後世に語り残すべき「二十世紀の精神の教訓」の中でも最大のものであろう「急進主義」と「漸進主義」というテーマヘと、向かっていくのではないでしょうか。
 二十世紀末に生きる私たちは、フランス革命からロシア革命へといたる近代革命の系譜の破綻を目の当たりにしているだけに、この系譜に疑問を投げつづけてきた、いわゆる″保守主義者″――ゲーテやエドマンド・バーク、アレクシス・トクヴィル、先に論じたガブリエル・マルセルなども、当然その一人です――の考え方を、虚心に再評価すべき段階にきていると思います。
 彼らは、それぞれに、特色ある個性的な芸術や思想を残していますが、「急進主義」か「漸進主義」かの二者択一を迫られれば、例外なく「漸進主義」を採ったことは間違いありません。
3  人間の良識と常識を重んじて
 池田 かつて私は、ハーバード大学で行った第一回目の講演(一九九一年九月)で、トクヴィルの『アメリカの民主政治』について論じました。ここでは、ゲーテがエッカーマンに語っている印象深い一文を引用してみたいと思います。
 「本物の自由主義者は(中略)自分の使いこなせる手段によって、いつもできる範囲で、良いことを実行しようとするものだ。しかし、必要悪を、力ずくですぐに根絶しようとはしない。彼は、賢明な進歩を通じて、少しずつ社会の欠陥を取り除こうとする暴力的な方法によって、同時に同量の良いことを駄目にするようなことはしない。彼は、このつねに不完全な世界においては、時と状況に恵まれて、より良いものを獲得できるまで、ある程度の善で満足するのだよ」(『ゲーテとの対話』山下肇訳、岩波文庫)
 言わんとするところは、私たちの日常生活を振り返ってみれば、深く納得できる、いわば健全なる常識です。
 ゲーテの言う「思慮ある前進」とは、「漸進主義」の異名といってよく、してみれば、「漸進主義」とは、人間の良識や常識を、最も重んじた生き方といえるでしょう。
 近代革命というものが、その良識や常識を無視とまではいかないまでも、小バカにするところから出発したとするならば、それを支えてきた進歩信仰、理論信仰とも合わせ、重大な反省と検討を迫られることは間違いありません。
 ゴルバチョフ わかります。正直なところ、人間はいまだにどうやって精神性を高めていけばよいのか、どのようにすれば人間的に成長できるのかがわからないでいるのです。
 自分の祖国、国家というものに対する責任感、国民に対する自身の責任の自覚をどうやって高めていけるのか、わからないでいるのです。なぜロシア人は、ドイツ人が国を統合しているときに、みずからすすんで国をばらばらにしたのでしょうか?
 宗教では、この問題をごく簡単に解いています。罪人と退転者は地獄に落ちると脅かしています。ただ、究極のものへ自分を近づけようとして、心の命ずるままに神を求め、自分の内に神を感じ、やみがたい良心の内なる声を聞こうという人は、少数派ではないでしょうか。そういう人は、輝く精神をもっているものです。そういう人は、神とは、宗教とは何かを知らずとも、自分の良心の声を聞くことでしよう。
 このような観点からソビエト史を振り返ってみてください。国家をあげての強制的な無神論は、『旧約・新約聖書』を発禁本にしてしまいました。神を信仰すると宣言した人は、事実上、大学の入学資格や出世の可能性を失い、社会の脱落者になっていきました。

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