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日蓮大聖人・池田大作

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現実的ヒューマニズムと社会主義  

「二十世紀の精神の教訓」ミハイル・S・ゴルバチョフ(池田大作全集第105巻)

前後
1  社会の連帯と調和をはかる社会主義ヘ
 池田 いろいろ議論を交わしているうちに、あなたが、青春の夢であったであろう社会主義に、どのようなイメージを託しておられたか、またそのイメージが、どのように生きつづけているかが、はっきりしてきました。
 じつは、私どもも、ほぼ三十年近く前になりますが「人間性社会主義」という理念を世に問うたことがあるのです。近代とくに十九世紀の資本主義の歩みが示しているように、資本主義を発展させるエネルギーは、あくまで利潤追求を第一義としており、それのみであっては、「資本の論理」のなすがままになってしまう。経済的弱者にとっては、あまりにも過酷な現実です。
 そこで、社会に平等や公正をもたらすために、諸々の社会主義運動が現れたことは周知の事実です。しかし、多くの社会主義運動とくにマルクス=レーニン主義と呼ばれるものは、動機はともかく、結果的には「イデオロギーの論理」が優先し、権力で社会体制を抑え維持することが第一義になってしまっていた。
 そこで、私どもは、″資本″でもなく″イデオロギー″でもなく、あくまで″人間性″を第一義に諸々の政策を遂行していく「人間性社会主義」の理念を提唱したのです。人間性は、人間と人間との間に薫発し、開花していくものです。それを目的とするということは、いかなる場合であれ、人間を目的とし、決して手段にしてはならないという、人間主義の水脈へと連なっていくものです。
 ゴルバチョフ 池田会長もご存じのように、「現実的ヒューマニズムとしての社会主義」は重要なテーマです。このテーマについて、利は、わが国の実情に即してお話ししたいと思います。
 池田 結構です。私は、一九六八年の″プラハの春″が「人間の顔をした社会主義」をうたったときは、大きな共感をおぼえましたし、その強圧された革命に対しては、「プラハの秋」と題するエッセイをレクイエム(鎮魂歌)として草したことがあります(「エコノミスト」一九六八年十月十五日号、毎日新聞社。本全集第18巻収録)。また、ペレストロイカの旗手が、次のように言うとき、満腟の賛同をおぼえたものです。
 「新しい社会主義像――それは人間的な社会主義像である。それはマルクスの思想に完全に適ったものである。マルクスにとって未来社会は現実的な、実践的に実行されるヒューマニズムである。そしてそれを創り出すことがペレストロイカの主要な目的であるから、我々は完全な根拠をもってヒューマンな社会主義を建設していると言うことが出来る」(「社会主義の理念と革命的ペレストロイカ」中村裕訳、一九八九年十一月二十六日付「プラウダ」)
 今回の語らいを通して、マルクスやヒューマニズムに対するあなたの思いが、より詳細に、より具体的に明らかになりました。
 ところでゴルバチョフさんがおっしゃるところの「現実的ヒューマニズムとしての社会主義」とは、正統マルクス=レーニン主義から社会民主主義へ移行するべきだという意味に理解してよいのでしょうか? あなたのおっしゃる革命的共産主義克服の論理は、この百年、ヨーロッパの社会民主主義がたどった道ときわめて似ています。ということは、あなたは現在、社会民主的な見地に立っているのでしょうか。
 ゴルバチョフ ソ連共産党を近代的な社会主義政党に変革していこうとした私たちの計画は、だれかの真似をしようとか、気に入られたいとか、という気持ちから生まれたのではありません。
 ペレストロイカはソ連共産党内部のペレストロイカも含めて、八〇年代半ばにソ連で、左派の運動のなかに生じた精神的・政治的状況を受けて行ったものなのです。本質的には、ソ連共産党がプロレタリアート独裁を放棄したのは、もっと前の段階でした。もっとも、教条主義者たちは、ペレストロイカ初期のころも階級道徳や、資本主義に対する社会主義の優越に固執していましたが。とくに軍人や国家保安関係者の間で共産主義的メシアニズムが深く根づいていました。
 しかし、スターリンの死後二十〜三十年して、知性派勢力がぐんと伸びて、教育レベルが全体的に向上し、批判的な自己意識が芽生え、一党政治やマルクス=レーニン主義、「鉄のカーテン」といったものは言語道断の時代錯誤であることが明らかになってきたのです。全体主義思想から抜け出すには、左寄りの思想を規範として、社会正義・平等を強調しながら行ったほうがやりやすいため、われわれは社会民主的な見地に立ち、市民社会の主要な価値を確認しなければなりませんでした。
 池田 そうですね。この二十年間をみてきて、よく理解できます。
 ゴルバチョフ 実質的には、一九九〇年夏に行われた第二八回ソ連共産党大会で、党の社会民主化路線が打ち出されて、現代文明的政治通念に同調する動きが見られました。また、自由選挙と多党制、人権の保障される本来の民主主義を肯定するとともに、さまざまな所有形態の可能な、多様な市場経済への移行が課題として打ち出されました。
 真の民主主義への移行は、権力の根本を固める必要性から生まれたものでした。一九一七年十月まで、ロシアでは、権力の根本は、神聖とみなされていた専制君主でした。ボルシェビキ(社会民主党内の多数派=後の共産党)は自分たちの権力を世界的な共産主義革命、社会主義の世界的な勝利と結びつけていました。ペレストロイカの最終段階に私たちが権力の根本としたのは、民主主義、国民主権であり、国民の政治的意志の優位でした。現代の社会民主主義は、こういった観点に立っており、私たちもその方向へと進んでいきました。だからこそ、ソ連共産党の独裁に終止符を打って、多数政党制のもとで自由選挙を行うために、共産党の社会民主化をめざしたのです。
 池田 ペレストロイカは東欧の自由化にも大きな影響をおよぼしましたね。
 ゴルバチョフ 私たちが進んだ道は、当時、ポーランド統一労働者党やハンガリー社会主義労働党、ブルガリア共産党をはじめとする東欧の与党共産党の大半が歩んだ道と同じでした。
 ある意味では、共産主義から社会民主主義への移行は、たとえばポーランド統一労働者党などよりもわが国のほうがやりやすかったともいえます。わが国のボルシェビキは、ロシア社会民主党から分離した少数派であり、革命前は社会民主主義者のメンシェビキは、ロシアの労働運動に大きな影響力をもっていました。
 わが国の社会民主主義の特徴は、ゲオルギー・プレハーノフをはじめとするリーダーたちが、第一次世界大戦時に祖国防衛論者に変わっていったことです。それにともない、社会思想と愛国思想を組み合わせた政策が取られました。社会正義と各個人の社会保障、しかるべき生活条件を主張しながらも、社会主義者たちは世界制覇をしようとか、人間・世界を総体的に改造しようなどとは考えていませんでした。彼らはつねに漸進主義者だったのです。
 そして、最も重要なことですが、ロシアの社会主義者ゲルツェンやフランスのフーリエを読んでみればわかりますが、社会主義思想史においては、選択の自由こそ、最も神聖なものとされていました。社会主義者にとってつねに重要だったのは、人が自発的に集団に入る、集団生活を選択する、ということなのです。共産主義者はつねに均一な幸福を強制していました。
2  ドストエフスキーの社会主義観
 ゴルバチョフ 社会主義者は共産主義者と違って、社会の調和と連帯をはかっていき、その連帯も今現実に人々が感じている心の発露からなるものであって、そのうちに感じるであろうものをあてにしたものではありませんでした。その意味では、社会主義者は一律平等の共産主義者よりも、キリスト教に近かったといえます。
 ここで注目に値することがあります。それは、ヨハネ・パウロ二世が法皇職に就いて以来、近年、ローマ・カトリック教会が目立って左寄りになってきていることです。パウロ二世はその回勅のなかで、繰り返し労働者階級・社会的弱者の問題を取り上げ、資本主義の猛獣的本能に対し、厳しく批判をしています。
 私との会見の折も、ローマ法皇は、社会的理想の重要性を強調していました。また、革命主義の破綻からの救いを福祉社会建設のなかに見ているようでした。一九九一年からバチカンにおいて、「絵画に見る労働者階級の権利闘争」という展示会が行われているのは特筆すべきことでしょう。
 池田 よく理解できます。宗教の名に値する宗教であるならば、この世で最も悩める人、不幸な人、弱い立場の人への憐れみと同苦に、その宗教の基盤をおいているからです。これについてはすでにあなたと語ってきました。「宗教――人間の紋章」のところでもふれましたが、キリスト教にあっては「九十九頭」よりも「悩めるさまよえる一頭」に重きを置くことが第一義とされてきました。
 仏教にあっても、病子への慈悲と抜苦与楽こそ、仏道修行の要諦とされてきました。また私どもの宗祖が、「旃陀羅せんだらが家より出たり」と、みずから最下層の出自であることをむしろ、最大の誇りとされていた意味もここにあります。社会主義のアルフア(出発)であリオメガ(すべて)である平等、公正の理念が宗教本来のあり方と深く通じ合うことは当然といえば当然のことでしょう。しかし、そこに落とし穴があることも、歴史の教訓として忘れてはならないことですね。私は、あなたが社会主義と一律平等の共産主義の本質的な違いを指摘されていることに注目したいと思います。
 ゴルバチョフ おっしゃる意味はよくわかります。
 池田 「一律平等」な共産主義的ユートピアとは、人間が、知識や才覚だけで理想社会を作り上げることができるとする、近代人の思い上がりの反映であり、神々の火を盗んで人間たちに与えようとした、かのプロメテウス――マルクスは、早くも博士論文の中で、このプロメテゥスの神々への反逆をほめたたえていました――にも似た野望の産物であることを、ドストエフスキーは、類まれな正確さで感じとっていたようです。
 『カラマーゾフの兄弟』には、有名な次のような叙述があります。
 「社会主義は決して単なる労働問題、すなわち、いわゆる第四階級の問題のみでなく、主として、無神論の問題である、無神論に現代的な肉をつけた問題である、地上から天に達するためでなく、天を地上へ引きおろすために、神なくして建てられるバビロンの塔である」(米川正夫訳、『世界文学全集』18所収、河出書房新社)と。
 若いころのマルクスが、人間疎外の本源的な反映として宗教を位置づけ、それゆえに、宗教批判を一切の根本としていた点を考えれば、ドストエフスキーの社会主義観はまさに肯綮こうけい(急所)に当たっていました。また、ロシア革命とその後の推移をみれば、ドストエフスキーの先見性は、いちだんと際立ってきます。レーニンの言う「ロシア革命の鏡としてのレフ・トルストイ」と対置して、「ロシア革命の予言者としてのフョードル・ドストエフスキー」と評されるゆえんではないでしょうか。
3  疑似宗教的役割を果たした共産主義
 池田 その無神論としての世界観的な性格ゆえに、共産主義イデオロギーは神なき時代の″代替宗教″″疑似宗教″的役割を演じてきました。たとえば、マルクス、エンゲルスの『共産党宣言』が「プロレタリアは、革命においてくさりのほか失うべきものをもたない。かれらが獲得するものは世界である」(大内兵衛・向坂逸郎訳、岩波文庫)というとき、その極端に抽象化された画一・一律平等性から発信されてくるメッセージは、いうところの科学的イメージとはほど遠いメシア的な使命感です。
 そこには、当初から、すなわち、窮乏化する一方のプロレタリアートを背景にして、その言葉が一定の妥当性をもち、革命の士気を鼓舞するエネルギー源たりえていたときから、特有の狂信とフアナティズムの臭気が漂っています。しかもその臭気は、時代の推移とともに増大していきます。この狂信とファナテイズムこそ、まさに憎悪や敵意の温床であり、世界宗教や普遍宗教の証ともいうべき慈悲や愛とは、正反対の暗い情念であることは、申すまでもありません。ですから、私は、あなたがゲルツェンやフーリエの社会主義を、むしろキリスト教に近かったとおっしゃる意味が、とてもよく理解できるのです。
 ゴルバチョフ 池田さん、あなたは、革命に邁進しようとするプロレタリアートに影響を与えつづけたマルクスの『共産党宣言』の矛盾を、繊細にかつたいへんに深くえぐり出していると思います。
 その矛盾とは、『共産党宣言』が一方では資本主義の欠陥を暴露するという方法で人々の良心とモラルに働きかけて抵抗を呼びかけておきながら、もう一方においては、憎しみをあえてかきたてる形で破壊と暴カヘと人々を仕向けていくというやり方です。
 驚くべき点は、共産党宣言が十九世紀の労働者階級のみならず、かなりの教育レベルを有する人々にも同様の影響をもちつづけたということです。
 池田 共産主義のイデオロギーが疑似宗教的な役割を社会で果たしてきたゆえんですね。その意味からも知識や情報量の増大した二十世紀が史上空前ともいうべき軽信の時代であったという声さえあがるのもわからないではありません。
 日本のある識者は、プラトンが『国家』の中で、国家を奇妙な野獣にたとえているのに対し、国家あるいは社会という言葉もプラトンのいう野獣という言葉よりもよほど曖昧な比喩にすぎないと言っています(小林秀雄『プラトンの国家』、「日本の文学」43所収、中央公論社。参昭)。一見、学問的色彩がほどこされているように見えても、煎じ詰めればきわめて曖昧な概念であり、その学問的色彩にたぶらかされる人間、とくに知識人の愚かさが、浮き彫りにされたのも二十世紀だと思います。
 ゴルバチョフ 最近、イタリアを訪問したさい、私はイタリアの社会主義者たちから一冊の本をいただきました。これは一九二〇年代の終わりにフアシストたちによって銃殺されたリベラル社会主義の父カルロ・ロッセリの本です。ロッセリは書いています。
 「マルクス主義は、資本主義世界の考察における大きな貢献によって栄えたというよりは、味方の闘争家に、彼らの信じるものが合理的であると思い込ませた。その強さがあったから栄えたのであり、精密さと実用的という当時大流行であった要素を表に出していたからである。
 史上最強の小冊子である『共産党宣言』を読み返してみれば、大反響を呼んだ理由が歴然としている。この宣言に抵抗することはむずかしく、その影響を初めて受けた平凡な人間にとっては、もう、まったく抵抗することが不可能である。どんなにワンマンな人間でも、どんな行動的な人間でも、これほどの憤激を人々に呼び起こすことはできなかったし、この熱狂的な学究がかの有名な二十ページの原稿でこれほど人の気持ちをつかむようなことは、他のだれもできなかった。
 マルクス弁証法は説得され、彼の手中に完全に墜ちてしまった暁には、復讐の神ともいえるような文章が読む者の頭を揺さぶる……。良識という体裁をもったロマンテイックな夢である」(『リベラル社会主義』)
 カルロ・ロッセリもまた社会主義者であったわけですが、マルクス主義および共産革命には反対の立場をとっていたのです。これはまことに注目に値する事実です。

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