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日蓮大聖人・池田大作

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「世界市民」の大いなる舞台 ソフト・パワーと民族問題への視点

「二十世紀の精神の教訓」ミハイル・S・ゴルバチョフ(池田大作全集第105巻)

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1  地球を祖国とする「世界市民」の輩出
 池田 かつて私は、「国連世界市民教育の一〇年」の設定を提唱しました。民衆の″善性″を掘り起こし、鍛えて、「共生のエートス(道徳的気風)」を形成していくには、なんといっても教育が要になってきます。
 あのソクラテスが国名を問われて、「アテナイ(アテネ)」と答えず、「世界市民」と答えたように、国家・民族・地域という枠を超えて、地球全体を″わが祖国″とするような、人類愛をいだいた「世界市民」、コスモポリタンの輩出は、時代の要請です。
 具体的な教育内容は、「環境」「開発」「平和」「人権」などが柱となりますが、世界市民教育こそ人類が英知を結集すべき課題であると、私は一貫して考えてきました。
 ゴルバチョフ あなたが、長年、そうした知的・社会的活動をしてきたことは、よく存じあげています。私も関心をもっているテーマです。
 池田 私は、″アメリカの良心″といわれたノーマン・カズンズ教授とたびたび語らいましたが、教授は、ゴルバチョフ総裁のグローバルな思考を高く評価していました。
 教授は、現代社会の根本問題である教育について、「世界の大部分における教育の大きな失敗は、教育が人々に人類意識ではなくて、部族意識をもたせてしまったことである」と指摘しています。
 さらに、「教育は究極的な一体感よりも限定的な一体感を、人間のあり方よりも人間の行為を重んじてしまった。人間の作った制度は礼賛するが、人間そのものを礼賛しようとはしない。人間の力は声高に賛えるが、人の命の貴さを賛えようとはしない。
 国々の国歌はあるが、人類の国歌はない」(『人間の選択』松田銑訳、角川選書)と――。
 私もまったく同感です。各国の教育が、自国・自民族の「限定的な一体感」を脱しきれず、世界・人類という「究極的な一体感」への視点を養えずにきたことが、今日のさまざまな国際社会の軋礫の根本的な原因となっているのではないでしょうか。
 ゴルバチョフ そのとおりです。「全人類的な価値」の復活は私たちの対話に一貫して流れているものです。
 池田 戦前戦中、国体主義にもとづく歪んだ教育を強いられてきた一人として、私は教育の重要性をひときわ深く実感します。創価大学、創価高校、中・小学校を創立し、国際社会に貢献する人材の育成に全魂を注いでいるのも、そうした切実な思いからであり、創価大学のモットーである「人類の平和を守るフォートレスたれ」も、その満腟の心情を託したものです。
 問題は、その教育の方法が、教えられる立場の民衆や青少年を愚昧視して、高みから教訓を垂れるようなものであってはならないということです。
 学校教育であれ社会教育であれ、教育は、強制や押しつけではなく、徹底して内発的になされなければなりません。
 ゴルバチョフ そうですね。あなたがつねづね、強調されていることですね。
 池田 ええ。その意味から、私は、一九九四年の「SGI(創価学会インタナショナル)の日」記念提言で、「青少年問題」に論及し、哲人ソクラテスが青年たちを触発した姿について述べました。
 ソクラテスの稀有な説得力、影響力の由来はどこにあったのか。それは彼自身が、だれよりも鋭敏に時代を呼吸し、だれよりも鋭く深く時代を凝視し、だれにもまして強く、一身を賭して時代を生きぬいていたからである――と。
 ソクラテスの影響力を、ふれる者をだれでもしびれさせる「シビレエイ」にたとえるメノンに対して、ソクラテス自身はこう言っています。
 「もしそのシビレエイが、自分自身がしびれているからこそ、他人もしびれさせるというものなら、いかにもぼくはシビレエイに似ているだろう」(『メノン』藤沢令夫訳、『プラトン全集』9所収、岩波書店)と。
 「自分自身がしびれているからこそ」――。そこには、教える者が学ぶ者を睥睨する風など少しもない。徹底して平等で公正な目線が保たれています。
 そこから響いてくるのは、一個の人格と人格とが、全人間的にふれあい、打ち合う、入魂と和気の共鳴和音ではないでしょうか。
 こうした全人間的な触発こそが教育の復興の眼目であると確信しています。
2  「考える心」を引き出す内発的な知恵
 池田 恩師戸田第二代会長は、優れた教育者であり、その教育法は、じつに水際だったものでした。
 たとえば、数学の授業のさい、子どもたちに「犬の欲しい人はいないか?」と語りかけることから始めます。すると教室のあちこちから手があがります。
 恩師は、目を細めて教室を見渡し、「さあ、だれにあげようか」と言いながら、黒板にチョークで「犬」と大きく書くのです。
 「これは、なんだ?」
 「イヌ!」
 「そう、たしかに犬だね」
 「は―い」
 「さあ、欲しい人はもっていきなさい」
 子どもたちは一瞬、困惑してしまうが、ややあって、一人の少年が叫ぶ。「なんだ、字か!」。どっと教室に笑い声があがる。
 こうした大らかな語らいのなかで、恩師はおもしろい実例をあげながら、黒板の字が抽象された「記号」であることを教え、数学というものが数の記号のうえに成り立っているという根本概念を、小さい頭に知らずしらずのうちにしみ込ませてしまうのでした。そうすれば、小さい頭は、みずからの力で活発に応用を始めるわけです。
 このように、教育で大切なのは、「考える心」「伸びゆく心」を内側から引き出していく内発的な「知恵」です。
 ゴルバチョフ あなたの恩師は、数学の名教師でもあったのですね。
 池田 そうです。恩師はまた、「地球民族主義」の創唱者でもありました。それは、人類が自国の国民性や民族の伝統を尊重しつつ、内発的な動機によって、″地球家族″を自覚する段階に進んでいけるという強い信念から発したものでした。
 もとより私は、激発する民族紛争に、教育のみで対処しうるとは考えていません。とくに旧ユーゴや旧ソ連の現状をみれば、短いスパン(期間)では、教育というソフトな対応では、歯が立たないようにも思えます。ゆえに、経済面や政治、ある場合は国連などによる軍事的強制力をともなったハードな政治的対応も必要とされるでしょう。
 しかし、それはソフトな対応が可能になるための条件づくりという意味でのハードな対応であり、長いスパンで民族問題打開の方途を探るには、教育こそ抜本療法である、というスタンス(姿勢)を忘れてはなりません。
 仏法で説く「慈悲」(マイトリー)は、語のもともとの意味は「友情」でありました。全人類的な「究極的な一体感」を志向する仏法の理念も、「友情」という日常的で身近な一体感、連帯感の延長上にあるものなのです。そこで、世界市民教育のあり方、可能性についてのご見解をお聞かせください。
 ゴルバチョフ グローバリズムというテーマは、ロシア哲学にも一貫して流れているものです。
 おそらく、十九世紀の終わりから二十世紀の初めにかけて出たロシアの思想家ほど、人類を″偉大なる集合体″、あるいはさまざまな民族が構成する″生きた社会的有機体″という、一つのまとまりとしてみるべきだと強調した例もないでしょう。
 ロシアのメシアニズムや「モスクフを第三のローマに擬する」思想をよしとする必要はありません。
 そこには、思いつきの域を出ないものが、かなりあるように思えるからです。しかし、ロシア思想の特徴として、普遍主義、グローバリズムがあることを否定することはできないでしょう。ロシア人は、他民族の幸福のために自分を犠牲にして、「全人類を救う」ことをつねに夢みていました。
 池田 なるほど。ロシア民族の歴史の底流に通うコスモポリタニズム――。それは貴国の誇り高き伝統ですね。
 ゴルバチョフ ロシア人は、自国は貧しいにもかかわらず、アジアやアフリカ、後にはキューバなど他の民族解放運動を黙々と、最初は熱狂的といえるほど応援をしつづけ、世界における義務を果たしていきました。
 思想のためのこうした自己犠牲は、幾分ユートピア的であるとはいえ、それでも全人類的な何かがあります。これは誇張ではありません。
 十九世紀ロシアの偉大な思想家は皆、西欧派であれ、スラブ派であれ、その主義主張を超えて、等しくロシアが背負っているグローバルで全人類的・宇宙的な使命について語り、われわれは人類になんらかの教訓をもたらさなければならない、と主張しています。
 まさにこれは、わがロシア精神の特徴です。ドストエフスキーが、プーシキンについて語った有名なスピーチの中に、こんな一節があります。
 「ロシヤの放浪者にとっては、心の安らぎを得るためには、ほかならぬこの全世界的幸福というものがどうしても必要であるからであります。(中略)それ以下の値段では決して妥協しないのであります」(『作家の日記』小沼文彦訳、『ドストエフスキー全集』14所収、筑摩書房)
 池田 よくわかります。
 そのスピーチの後半で、ドストエフスキーは、「最終的な目的としてロシアの国民性が持っている全世界性と全人類性への志向、これをおいてほかに、ロシア国民の精神の強みとして何があるでしょう」(同前)と語っていますね。
 彼が「プーシキンほど、全世界のあらゆる文化に共鳴しうる感性の幅の広さをもった詩人はいなかった」(同前)と賛嘆したとき、まさにロシア人の全人類的な魂の精華を、詩人プーシキンのなかにみていたからにちがいありません。
3  ロシア民族の底流に通う世界主義
 ゴルバチョフ まったく、そのとおりなのです。
 ロシアで初めて中道を説いたパーベル・ミリュコフは、「この化石のような民族主義と、真の文化、民族的伝統との間にいったい、どんな共通点があるのだろうか?」と問い、みずからそれに答えています。
 「存在しないもの』の追求は、存在するものへの気まぐれな軽視につながる。ロシアには崇敬に値する民族の過去がある。ロシア文化の伝統が存在するのだ。七十、八十年前にチャダーエフがその存在を執拗に否定していたとき、すでにあったのだ。
 今やその伝統はさらに歴史を刻み、より豊かになっている。そこにまた、数々の偉人の名が加えられ、それによって、すべての文化的民族がもちうる『メシアニズム』標榜の権利とでもいうものをわれわれももつにいたったのだ」
 池田 なるほど。文化の土壌は違っても、ニュアンスはわかります。
 ゴルバチョフ ここでもう一人、ニコライ・ベルジャーエフの言葉をあげたいと思います。民族主義、人種差別主義批判においては、ベルジャーエフは、さらに痛烈な態度をとっています。
 「民族主義はショービニズムや他国人嫌悪を生み出す根源であり、愛国主義とははっきりと区別する必要がある。最も恐るべきは、民族主義が戦争の生みの親だということである」「民族主義は自分の民族への愛情よりも、よそ者への憎悪のほうがはるかに占める割合が大きいのである」
 なぜ、私がこんなことを語り、哲学論議に入り込もうとするのでしょう? 私は、行動の政治家であり、また理論家でもあると自負しています。私が哲学者たちの弁を借りるのは、ロシアが他者を思う″世界的な心″を育んでいくための最も効果的な方法は、みずからの民族文化を認識し、そのルーツを明らかにして、民族の歴史を知っていくことだ、と申し上げたいからです。
 池田 私は思います。「民族の歴史を知れ」とのあなたの呼びかけは、すべての民族・人種の人々にとっても最大の指針となるにちがいない、と。
 なぜなら、いずこの民族・人種であれ、自己の歴史を掘り下げていくならば、究極的には、人間が人間であることの不思議さ、尊さ、そして一人の普遍的な自己の認識にたどり着くにちがいない――。このことを確信するからです。
 私は九三年一月、あの暴動の悲劇が起きた一年後のアメリカを訪れました。その折、ロサンゼルスのメンバーに、万感をこめて一詩を贈り、こうつづりました。
 「みずからのルーツをもとめて
 社会は千々に分裂し
 隣人と隣人が
 袂を分かちゆかんとするならば
 さらに深く 我が生命の奥深く
 自身のルーツを徹して索めよ
 人間の″根源のルーツ″を索めよ
 そのとき 君は見いだすにちがいない
 我らが己心の奥底に
 厳として広がりゆくは
 『地涌』の大地――と!」
 「その大地こそ
 人間の根源的実在の故郷
 国境もなく 人種・性別もない
 ただ『人間』としてのみの
 真実の証の世界だ
 ″根源のルーツ″をたどれば
 すべては同胞!
 それに気づくを『地涌』という!」
 「地涌」とは法華経に登場する、大地の底から涌き出ずる無数の菩薩たちのことです。その教理的な説明はここでは省略しますが、私は、この菩薩の偉容に託して、すべての人間生命の尊さ、高貴さ、不思議さをうたいあげました。
 あなたがロシアの歴史に見いだされた「コスモポリタニズム」の光輝――。
 それは、世界のすべての民族、すべての人種の人々が、自己への深き探求によって獲得できる、また獲得しなければならない「根源のアイデンティティー」であるという点で、私の宗教的信念と深く響き合っています。

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