Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

新たなるグローバリズムの時代ヘ  

「二十世紀の精神の教訓」ミハイル・S・ゴルバチョフ(池田大作全集第105巻)

前後
1  二十一世紀への最大の人類的課題
 池田 つづいて、第四章「民族問題の隘路」に入りたいと思います。
 冷戦終結後の今日、二十一世紀へ向けての最大の人類的課題の一つとして浮かび上がってくるのが、いわゆる「民族問題」であることは論をまたないでしよう。
 イデオロギー崩壊後の旧ユーゴスラビアや旧ソ連におけるナショナリズムの高揚は、情念の自然な発露としての許容限度をはるかに越え、「民族浄化(エスニック・クレンジング)」などという忌まわしい言葉を生むほどに狂暴化してきています。
 また、旧西側諸国においても、右翼政党の台頭や移民問題、外国人排斥問題の尖鋭化など、ナショナリズムは、不気味な広がりをみせています。
 ゴルバチョフ 私たちにとって、今日、最も大きな障害となっている問題が、民族中心主義です。
 すなわち、エスノス(民族)的要因を陳腐に絶対化してしまい、すべての問題を軽率に、民族の違い、対立に集約させてしまおうという試みです。
 この″病″は、旧ソビエト連邦時代、多くの流血の惨事の原因ともなりました。
 池田 「今日われわれの時代にナショナリズムが復活したのではない。それは決して死ななかったのだ」(アイザイア・バーリン)――これは、正鵠を射た見方でしょう。たしかに、今、振り返ってみると、イデオロギーなどに比べて、「民族意識」は、はるかに人間の心の深層に根ざしているように思えます。
 人間は、根無し草のような状態で生きることはできず、アイデンティティー(自分が自分であることの根拠)をつねに求めますから、なんらかのエスニック(民族的)な帰属意識をもつことは当然でしょう。
 ゴルバチョフ 「民族」は、家族、国家、宗教、所有などと同様に肯定的価値であると、私は考えます。民族感情は、これまで一度として消えたことはなく、またこれからもおそらく消えることはないとすれば、まさにその理由からです。
 池田 おっしゃるとおりです。そうしたエスニックな帰属意識が、現今の社会でいわれている「民族意識」とイコールであるかは疑問です。
 後者の「民族意識」というものは、人間が生来、伝統的に備えているというよりも、人々の心を一つにまとめるために、近代国家の形成過程で、意識的につくりだされた″官製のイデオロギー″に近いといえるでしょう。
 その意味では、私は、「民族」という言葉は、はなはだ曲者であり、誤りをもたらしかねないと思っています。
 日本など、歴史的あるいは地理的に、日本人意識をもちやすいとみられがちですが、それは、明治期の近代国家形成以降のことであって、それ以前は、人々の帰属意識といえば、日本中に何百かあった「藩」意識でした。
 その「藩」意識といっても、江戸時代に形成されたものであり、それ以前のルーツをたどれば、もっと小さな部族意識のようなものになってしまうでしょう。
 また、さらにそれ以前をたずねれば、古代には、日本と朝鮮半島との交流は、ひんばんに日常的に行われていましたから、意外にコスモポリタン(世界市民)としての素顔を見いだすことができるかもしれないのです。
 ゴルバチョフ 以前あなたは、「日本は、大陸すなわちロシアとも地続きの時代があった」とも話されていましたね。非常に興味深いお話です。
 池田 今、民族問題を考えるさいに最も大切なことは、歴史的・地理的な要因を慎重に総括しながら、「民族」と呼ばれているものの内実を徹底的に検証すること、換言すれば、「民族」の″実体″よりも先に、「民族」という″言葉″のみが先行しているのではないか、と疑ってみることでしょう。それによって、″頭を冷やす″ことが肝要であると思うのですが、いかがですか。
2  民族問題にみる「抽象化の罠」
 ゴルバチョフ エスニックなナショナリズムは、実際、人々の理性を奪い、狂気に駆りたてるものです。
 私たちロシアにおいては、まさに今、このエスニックなナショナリズムを回避することが重要なのです。いたずらに民族感情を煽ろうとする動きを止めなければなりません。
 このようなエスニックなアプローチを私は、「ネーション(国家)の文明的理解」の対極にあるものと考えています。「ネーションの文明的理解」とは、人々の歴史的、文化的結合であり、部族、帰属性にかかわらず、自分の国家の運命に対する共通の責任感を意味するものです。
 池田 よく理解できます。
 私もかつて、「新たなるグローバリズムの曙」と題する平和提言の中で、ナショナリズムというものは、防御的側面と攻撃的側面がある。したがって、やみくもにナショナリズムを否定するものではなく、かつて旧西側の植民地主義に典型的に体現されていた、攻撃的側面をたわめつつ、グローバリズムを形成することの重要性について論じました。
 ゴルバチョフ ベルジャーエフも同様のことを言っています。もっとも彼は、「グローバリズム」という言葉のかわりに、「ユニバーサリズム(普遍性)」(『ロシア共産主義の歴史と意味』、『ベルジャーエフ著作集』7〈田中西二郎。新谷敬二郎訳〉白水社)という概念を用いていましたが。しかし、言わんとするところは、同じです。私が主眼においているのも、ベルジャーエフの思想の核となっている「民族的帰属感」から「全人類的帰属感」へという考えなのです。
 池田 よくわかります。そうした進歩、発展のプロセスを逆行させ、「民族」という言葉が絶対化していく背景には、ガブリエル・マルセルが「抽象化の精神」(『人間、この問われるもの』小島威彦訳、『マルセル著作集』6所収、春秋社)と名づけた″魔性″が、強く働いているように思えてなりません。
 詳論は省きますが、一言にしていえば、「民族」という概念が、現実からしだいに離れていって、いわば絶対的な偶像としてまつり上げられてしまうという、人間の古今の変わらぬ通弊を、彼はえぐり出しています。そこには、「抽象化の罠」ともいうべき落とし穴が待ちかまえている、と。
 昨今の民族問題にスポットを当ててみても、この「抽象化の精神」の毒は、相当深く浸透しているようです。致命的にならぬ前に、一刻も早く手当てをせねばならない段階に来ていると思うのですが、あなたは、この「抽象化の罠」という点について、どのようにお考えでしょうか。
 ゴルバチョフ 大きな問題ですね。まず体験的に述べさせていただきたいと思います。
 残念なことに、人々は往々にして、自分が聞きたいことだけを聞くものです。したがって、人間が抽象的概念を絶対視している場合、最も賢明にして、最も正しい言葉は、あたかも壁にぶつかつた豆のように、″認識の壁″に跳ね返されてしまいます。
 しかし、時間の経過とともに麻酔から醒め、狂気の思想が弱まっていくと、人々は耳をかたむけ、理解し始める。つまり、言葉が本来の意味を持ち始めるわけです。聖書にある「門をたたきなさい。そうすれば、神が開いてくださる」というのは、そのとおりとはいえないわけです。
 あなたが言及されたことでもありますが、人間が真に孤独を感じるのは、人々が自分から離れていくときではなく、むしろ、自分の発言に、人々が耳をかたむけてくれないときです。
 真実を語っているにもかかわらず、そして必要なことを、彼らのために語っているにもかかわらず、人々はいぶかしげに眺めているだけで、そのうちそっぽを向いてしまう。そんなとき、人はあたかも、自分が砂漠に独り取り残されたように感じ、自分の言葉が、砂漠の中で大声で叫ぶ人間の声のように思われてくるものです。
 二十世紀の悲劇――このことに関して、今、私たちは対談を進めているわけですが、すでに手遅れとなって、初めて、人々は耳をかたむける気になるのが常であるという事実こそが、今世紀の悲劇であるように思います。
 池田 その「悲劇」を「教訓」としなければなりません。二十一世紀の人類史を、ふたたびち抽象的な概念やイデオロギーの″実験場″にするような愚をおかしてはなりません。
3  「ソビエト連邦の崩壊」の意味するもの
 ゴルバチョフ そのとおりです。
 旧ソ連のかなりの部分で、民族問題解決のための対話が広まってきています。民族主義の予言者たちは影をひそめてしまい、人々は見向きもしなくなってしまいました。ウクライナの大統領選では、民族主義勢力は壊滅的敗北を喫しています。
 ソ連邦が、「平和」と「安全」を皆に保障する″共通の家″だったこと、そして、われわれ皆が共通の歴史で結ばれており、単独では危機からの真の脱出は図れないこと、幾世紀にもわたって築かれてきた経済的・文化的・精神的結びつきは、いかなる場合にも切断すべきではないことを、今、ようやく、多くの人々が理解するところとなりました。
 しかし同時に、心痛に耐えがたいこともあるのです。なぜなら、今あげたことは、ソビエト崩壊の前にも、その直前にも、幾度となく語られたことだったからです。
 私自身、立場上、特別に重い責任上、またみずからの深い信念にもとづいて、他の人よりも多く、何度もこのことを訴えました。ソビエトの改革を促進しつつ、しかも崩壊させないために、すべての方策を尽くしたのです。
 池田 そうですね。あなたが今日のような事態を憂慮されていたのは、よく存じあげています。
 ゴルバチョフ 最近のことですが、ソ連邦維持についての私の論文集の出版準備をしました。その作業のなかで、私は、今現在″発見″されている事柄は、じつは一九九一年十二月(ソ連邦の消滅)以前に、すでに、″発見″されていたのだということに、あらためて気づいたのです。それは驚きでした。
 現在ではなく、当時にあって、すでに、「ソビエト連邦の崩壊は、帝国の崩壊ではなく、われわれの祖国を壊すことであり、ここ七十年間のみならず、文字どおり幾世紀にもわたり、幾世代もの人々が築いてきた国家を破壊してしまうことになる」と述べているのです。尊敬に値する世界の列強の一員だった国家を、です。
 ベロベシュ合意以前から、私は議会に対して警告を発しつづけました。「国家の滅亡を止めることは、まだ可能である」「このような多民族社会が崩壊してしまえば、独立によって得られる一時的利益をはるかに凌ぐ不幸を、何百万人もの市民にもたらすことになろう」と。
 池田 そうでした。押しとどめようもない時流に抗して、孤軍奮闘するあなたの姿に、痛ましさとともに感動をおぼえたものです。先駆者の悲劇ですね。
 しかし、私は、″真実″はいつかは輝くものだと信じています。
 ゴルバチョフ どうか信じてください。こうした発言を思い出しているのは、私があらゆる点で正しかった、などということを示すためではありません。
 来るべき不幸を予言することなど、名誉でもなんでもありません。時には、むしろ私が正しくなかったと言えたらよかつた、私が完全に間違っていて、反対者たちが真実の″予言者″であってほしかった、と思うこともあります。
 しかし、現実はそうはなりませんでした。ベロベシュ合意から時間が経過すればするほどに、この合意が、どれほど不自然な破壊的なアクション(行動)だったかが、明白になってきました。
 「予言者は、故郷に容れられず」とは、古くから周知のことです。かつて「山上の垂証」でも、「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々としていて、そこから入る者が多いのだ。しかし、生命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない」(『新訳聖書』共同訳・全注、講談社学術文庫)と説かれたように。
 池田 当時、あなたのよき理解者は、ソ連国内よりも圧倒的に海外に多かったわけですが、国内でも、例外的な現象はいくつかありました。
 日本の通信社が配信したソ連の「独立新聞」の論説もそのうちの一つです。鮮明に記憶に刻まれていますので、あげてみたいと思います。
 「ロシアでは偉大な人物を侮辱し、殺すことが好まれる。その後で、後悔の溜息と感動の涙を流して、彼等を愛するのだ。この国の解放者であるゴルバチョフ氏もめった打ちにされることが運命づけられている。
 エリツイン大統領は、旧ソ連の改革は、ゴルバチョフ氏がもっと早い時期に断固として始めるべきだったと強調するが、ゴルバチョフ氏が書記長に就任した七年前にそうしていたなら、書記長を辞任せざるをえなかったかもしれないことを大統領は理解できないのであろうか。
 また、ハズブラートフ最高会議議長は、自分たちだったら混乱なしに、人間的な社会への転換ができたと主張するが、七年前のその処方箋をゴルバチョフ氏に提供してほしかった。『党の事情を知り尽くした』このような人たちが、ゴルバチョフ氏を侮辱するのは滑稽で、憂鬱である」
 「ゴルバチョフ氏をあらゆる方向から攻撃することは、社会の精神的な病気の恐ろしい兆候である。偉大な人物を評価する能力のない人たちは、国家をうまく支配することはできない。彼の考え、行動を理解しないと、社会は重要なものがわからなくなる」と。
 一九九三年十月の最高会議ビルをめぐる攻防や、九四年末から始まったチェチェンヘの軍事介入などをみていると、まさにここで懸念していたような事態になってきました。

1
1