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日蓮大聖人・池田大作

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東洋と西洋が出合うとき 人類的価値と宗教の智慧

「二十世紀の精神の教訓」ミハイル・S・ゴルバチョフ(池田大作全集第105巻)

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1  最重要な価値は「人間生命」
 池田 引きつづき、新しい時代の理念をめぐって、宗教の普遍的な意義、また宗教と寛容の問題について語り合いましょう。
 ゴルバチョフ わかりました。
 じつは、ペレストロイカを始めた当時、私たちの間で、熱心に討論したテーマがありました。万人に共通の価値を何に求めるべきか、ということでした。
 周知のように、ペレストロイカは、″道徳″に対する階級的アプローチを否定するところから始められました。
 生活そのものが、また、ほかならぬソビエト史の論理が、私たちに単純な真理を理解させました。それは、″道徳″が、もし真に″道徳″であるならば、万人に共通でなければならず、ブルジョアジー(資本家階級)の″道徳″とか、プロレタリアート(労働者階級)の″道徳″というように違いがあってはならない、ということです。
 池田 ペレストロイカの目的の一つは、政治に″道徳″や″モラル″という精神的な面を反映させることでしたね。
 ゴルバチョフ そうです。もし、共通の″道徳″がないとすると、共通の価値体系もないということになる。それは、とりもなおさず対話の可能性を否定し、ひいては共産主義と資本主義の二つの体制は、対立を乗り越えられないことを意味してしまう。
 しかし、はたしてそうなのかという良識が、頭をもたげました。そして、私たちは、「万人が共有すべき根本的価値」があるはずであり、その最重要の価値とは、「人間生命」にほかならない、との結論にいたりました。一九八六年の第二七回ソ連共産党大会で、私が声を大にして宣言したのは、このことなのです。
 池田 ペレストロイカの理想を全世界に宣言した、歴史的なスピーチですね。
 すべての偉大な変革は、思想の変革から始まります。ペレストロイカが思想・道徳の再検討から始められたということ、またブルジョアジーとプロレタリアートというように、「分断された道徳・価値」を捨てて、「万人に共通な根本的価値」という価値の源泉に戻ろうとしたこと、そして、最重要の価値は、「人間生命」であるとの認識に立ったことは、ペレストロイカの本質的な偉大さを示しています。
 その人類史的な意義は、改革の成否を超えて、決して消えることはないでしょう。
 私は、ライナス・ポーリング博士との対談集を『「生命の世紀」への探求』と名づけました。二十一世紀を一言にしていえば、「生命の世紀」となるであろうし、また、そうしなければならないと信じています。ゆえに、あなたがたの発想の転換と決断に評価を惜しみません。
2  宗教の普遍的な意義をめぐる思索
 ゴルバチョフ あらゆる人間に共通する価値の本質と根源に迫ろうとしたとき、無神論者であり、マルクス主義者の私たちは、否応なく、『新約聖書』に説かれた「山上の垂訓」を、ふたたびひもとくところとなりました。
 「あなたたちも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。しかし、わたしは言っておくが、兄弟に腹を立てる者はすべて裁きを受ける」「あなたたちも聞いているとおり、『姦淫するな』と命じられている。しかし、わたしは言っておくが、みだらな思いで女を見る者はだれでも、すでに心の中でその女を犯したのである」
 「また、あなたたちも聞いているとおり、昔の人は、『偽りの誓いを立てるな。主(神を指す)に対して誓ったことは、必ず果たせ』と命じられている。しかし、わたしは言っておくが、いっさい誓ってはならない。天にかけて誓ってはならない。そこは神の玉座である。地にかけて誓ってはならない。そこは神の足台である。エルサレムにかけて誓ってはならない。そこは″大王(神を指す)の都″である。また、あなたの頭にかけて誓ってはならない。髪の毛一本すら、あなたは白くも黒くもできないのだ」(『新約聖書』共同訳・全注、講談社学術文庫)
 ここで全部を引用いたしませんが、私は、これに関連して、思索をめぐらせていることがあります。
 はたしてこの「山上の垂訓」を、人類の英知の結集であると主張できるか? いわゆるユダヤ・キリスト教的価値観と全人類的価値観とをイコールで結んでよいか? との点です。
 池田 東洋と西洋では、文化の背景が違います。発想のしかたも異なります。ただ、総裁の質問の意義は理解できます。
 ゴルバチョフ 私のこの疑問は、ふたたび自分の前に、絶対崇拝の″偶像″を作り出したくはない、との思いから発せられていることをご理解ください。
 さらに、今日、全人類的価値という″貯金箱″に、東洋は何を入れることができるのか、また入れなければならないのかを理解したいと願い、質問したのです。
 私は、「宗教の違い」というものは、初めから存在しないのであって、存在するのは、唯一の全人類的普遍的英知だったのではないか、「宗教の違い」とは、ただその英知が、さまざまな言語で語られただけではないかと思うのです。そして、キリストもアラーも、″悪を創造するもの″と″善を創造するもの″とを区別することができた、と。
 池田 それについては、さまざまな考え方があるでしょう。さて、あなたは、「山上の垂訓」を例に挙げて、宗教の普遍的な意義について考えを述べられました。
 イエスが語った「山上の垂訓」では、旧来のユダヤ教の教えが批判されています。「右の頬を打つなら、左の頼をも向けよ」とか「狭き門」など有名な語句もあり、キリスト者の倫理基準とされてきたものです。
 結論的には、そこには、ある意味で、全人類的価値観が含まれていると考えられます。ただし、それをユダヤ・キリスト教的価値観と呼んでいいかどうかは、疑問の残るところです。
 ゴルバチョフ ええ。私の質問の意図もそこにあります。
 池田 まず、ユダヤ教的価値観との関係性からいえば、「山上の垂訓」は、絶対的な神の命令として立てられた伝統的な価値観、つまり当時の硬直した律法(宗教上の規範)からの解放をめざしたものといえるでしょう。
 一般に、定立化した規範というものは、どうしても人間の心から遊離して、形式化し、複雑化する傾向をもっています。そして外的な規範となって、かえって人間を東縛する。
 また、複雑化した法律は、それをつかさどる専門家の専横と権威化を許してしまう。束縛と従属を強いるのみの形骸化した律法から、人は解放されなければなりません。
 ゴルバチョフ まったく同感です。それは、これまで私たちが最も感じてきたことですから。
3  「外的な規範」から「内的な規範」ヘ
 池田 では、どのようにして律法からの解放をなしとげようとしたのでしょうか。
 イエスは、律法を「廃止するためではなく、完成するため」に現れたということですが、「山上の垂訓」を見れば明らかなとおり、彼は、そこで律法の「内在化」をめざしたといえないでしょうか。そして、この「内在化」という一点に、全人類的価値としての普遍性があると、私は見ています。
 あなたが挙げていた例から、そのことを検証してみましょう。
 たとえば「人を殺した者は裁きを受ける」という旧来の律法を言い換えて、「兄弟に腹を立てる者はすべて裁きを受ける」と述べるとき、明らかに「人を殺す」という行為の根にある「怒り」「殺の心」に焦点を当てています。
 また、「姦淫するな」という命令に対しては、女性を見て「みだらな思い」をいだくこと自体、すでに心の中で罪を犯しているのだ、と。
 そして、施しや祈りや断食など宗教的に定められた行為について、人に見せるように行ってはならないとして、偽善を戒めるのも、″善″の行いの根底にあるべき信仰心を重んじているからではないでしょうか。そこには、「外的な規範」から「内的な規範」への転換が、明らかになされていると思うのです。
 ゴルバチョフ ひょっとしてここに、すべての宗教の奥義、共通の根があるのかもしれませんね。
 それは、儀式などではなく、「良心」からくる本能なのにちがいない。「良心」とは、唯物論ではどうしても説明のつかないものです。おそらく、「良心」こそが、精神の存在を裏づける最も重要な論拠なのでしょう。
 私は、この「山上の垂訓」のきわめて簡潔明瞭な説明をこう理解しています。
 律法を守っていても、心の中で罪深い考えの虜になってしまった場合には、すでに罪人である。したがって、あなたがおっしゃったように、動機の浄化、内在化にあそこまで重きを置いたのでしょう。つまり、私たちを突き動かす精神的動機を高尚にすることをめざしたわけです。
 この理論にしたがえば、「人間の救済」とは、すなわち「心の救済」であり、精神を高めることである。盗み、殺しなどの考えから人間を救うことです。
 池田 一つの次元から言えば、そのとおりだと思います。
 ゴルバチョフ さらに、大事なことは、人間が自分の罪深い考えを恥だと知ること、つまり、みずからの心の暗部を自制することを学ぶことである、と私は理解しています。
 聖書に次のようにあります。「お前たちはどう思うか。ある人が羊を百頭持っていて、その中の一頭が迷い出たとすれば、その人は九十九頭を山に残しておいて、迷い出た一頭を捜しに行かないだろうか。はっきり言っておくが、もし、それを見つけたら、迷わないでいた九十九頭よりも、その一頭のことを喜ぶだろう。そのように、これらの弱い者が一人でも滅びることは、お前たちの天の父(神を指す)のお望みではない」(前掲『新約聖書』)
 これは、弟子たちから「いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか」と聞かれたとき、イエスがいたいけな一人の子どもを呼び寄せ、このような弱い者こそ、最も神にほめられるであろう、と語ったくだりです。

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