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リーダーシップの栄光と苦悩  

「二十世紀の精神の教訓」ミハイル・S・ゴルバチョフ(池田大作全集第105巻)

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1  米ソ首脳会談実現への勇気ある″一歩″
 ゴルバチョフ 私の誕生日(三月二日)に美しい大きなお花をありがとうございました。
 顔が隠れてしまうほど、大きな花束でビックリしました。(笑い)
 池田 私どものささやかなお祝いを喜んでいただき、これ以上うれしいことはありません。私ども夫婦の真心です。
 ゴルバチョフ ライサは花が大好きなのです。
 さっそく、飾らせていただきました。
 池田 ありがとうございます。本当に仲むつまじいご夫妻です。総裁は今年(一九九五年)で六十四歳ですね。
 ゴルバチョフ そうです。
 モスクワの青年向けのテレビ番組で、私のことを六十五歳の誕生日を迎えたと紹介していましたが、私はそれより若いんです。(笑い)
 もちろん六十五歳以上、長生きしたいと思っていますが。(大笑い)
 池田 サッチャー前首相も「人生、六十五歳から」と言っていますね。世界にとって、これからも大切な人です。いつまでも健康であってください。生きぬいてください。それが人生の勝利です。
 ゴルバチョフ ありがとうございます。私は池田会長の友人として、これからも価値ある人生を生きたいと願っています。
 池田 光栄です。
 二月に来日されたさいの「戦後五〇年講演会」の内容を、感銘深く読ませていただきました。とくに、レーガン大統領との、ジュネーブでの最初の出会いのシーンが印象的でした。
 当時、「米ソ間の不信感は頂点に達していた」。しかし、「人間的には、最初に出会った瞬間から変化が起きた。初めて握手をし、目を見つめ合ったとき、とらえがたい何かが起きたようだった」と。じつに、味わい深い言葉です。
 かねてより、私は、米ソ両大国の首脳会談の実現を提唱してきました。″会って話せば、何か突破口が見つかるはずだ″との思いからでした。その勇気ある″一歩″を踏み出したのはあなたです。その姿に、新時代の指導者像、リーダーシップのあり方を見たのは、私一人ではないと思います。
 総裁の業績は、一国の枠をこえた世界的なものです。これからの世界をどう考えていくかという意味において、何点かおうかがいいたします。
 ゴルバチョフ わかりました。
 こちらこそ、よろしくお願いします。
 池田 まず、ペレストロイカは、若きゴルバチョフ書記長のイニシアチブによって始まった、いわゆる「上から」の改革であるといわれます。
 本来、民衆次元の盛り上がりによって、「下から」推進されねばならない民主化の運動を、逆に「上から」発動させていかなければならなかったジレンマ――それだけに、リーダーシップをどうとっていくか、ひとかたならぬ苦労があったと思います。
 ゴルバチョフ そうですね。私たちは、「政治」のなかに、一歩一歩、道徳やモラルという精神性を盛り込んでいこうとしました。困難なことですが、それができれば、すばらしい成果があげられると思ってきましたから。
2  ピョートル大帝の改革をめぐる評価
 池田 よくわかります。
 ロシアの精神風土には、みずからがみずからを律していく市民意識が、伝統的に希薄であったとされています。いきおい、リーダーシップのあり方も、知識を与え、教え導くといった、よく言えば啓蒙的、悪く言えば強権的性格を帯びてこざるをえない。そのジレンマを典型的に体現していたのが、いうまでもなく、″啓蒙君主″ピョートル大帝でした。
 ペレストロイカの先頭に立つあなたのリーダーシップを、ピョートル大帝の手法に擬する声が、わが国にもありました。もとより、それは皮相的な類比であって、「上から」という点では共通していても、似て非なるものでした。
 いうまでもなく、ソ連共産党書記長という超法規的な絶対権力を法の統治下におき、民主化のプロセスを進めるためには、掌中の絶大なる権力を制限し、あえて放棄することさえ辞さなかった点に、あなたのリーダーシップの真骨頂があったからです。
 その民主化のプロセスのスピードが、あなたの権力基盤を突き崩そうとしたときでさえ――残念ながら、現実にそうなってしまいましたが――あなたは、民主の旗を降ろそうとはしませんでした。
 とはいえ、ロシア社会の現状をみると、民主化のプロセスも、平坦な道ではないようです。人心の荒廃や治安の乱れを恐れるあまり、秩序を回復するためには、ピョートル的手法の″強い手″への願望さえ芽生えつつあるとも聞いております。私としては、多少の紆余曲折はあっても、ペレストロイカの流れが逆流するようなことはない、と信じたいのですが……。
 民主主義とリーダーシップのあり方について、ペレストロイカでの経験を踏まえて、お聞かせください。
 ゴルバチョフ その点については、はたして私たちがだれかを真似しようとしていたのか、だれかに合わせてペレストロイカを、俗に言うように「粛清」、つまり本来あるべき姿から変えてしまったのか、ここがいちばんの問題なのではないでしょうか。はたして私がピョートル大帝を手本としていたでしょうか?
 単刀直入に申し上げましょう。私にとってピョートルの改革は、真似るべき手本でも、ましてや改革の原点・動機でもありませんでした。とはいえ、私たちロシア人というものはどこか無意識のなかで、つねに「改革者ピョートル」の姿を意識していることは否めませんが。
 ピョートル大帝に対する評価は二通りあることを認識する必要があります。私たちは、子どものころ教科書で習ったピョートル大帝、つまり「ヨーロッパヘの窓を開き」、ロシアに「啓蒙精神」を植えつけたという意味で、彼を尊敬しています。
 池田 日本でも、よく知られている歴史的事実です。
 ゴルバチョフ しかし、わが国の著名な歴史学者クリュチェフスキーが指摘しているように、「ピョートルは精神の力ではなく権力の力によって行動し、人々の道徳的衝動ではなく、彼等の本能を念頭においた」(『ロシア史講話』4、重樫喬任訳、恒文社)。こうした彼のもう一つの側面も、決して忘れてはなりません。
 クリュチェフスキーはこう喝破しています。
 「国家を遠征の幌馬車の中から駅逓から統治した彼は、人間ではなくただ仕事のみを考え、権力の力を信じて民衆の受身的な力を十分に推し量らなかった」と。
 そして「ピョートルが自分の改造の疾走の中で人々の力を思いやることができなかった」(同前)と結論しているのです。
 ペレストロイカは、ピョートル時代のロシア史とはまったく違った背景のなかから生まれました。
 「鉄のカーテン」を壊したいという願望が、とくにインテリゲンチア(知識階級)を中心に広く人々のなかに膨らんできていました。その意味では、ヨーロッパ、否、世界への窓を開くという、ピョートルにも似た課題が、私たちの目の前にも提起されていたことはたしかです。
3  キリスト教的メシアニズムの功罪
 ゴルバチョフ しかし、私たちを最も強く動かしたのは、政治手法や思考方法のなかに残された、スターリンの″負の遺産″を清算したいという願いでした。人間の生命と幸福の犠牲のうえに、国家の目的を達成させようとするきわめて有害なやり方に、終止符を打たなければならないという認識でした。
 ″法による支配″と″公正″を回復し、″歴史の真実″を知りたいとの思いが、私たちを突き動かしたともいえるでしょう。そのときの機運と期待感は、十八世紀初頭のころとは、もとより異質のものでした。より幅広く見ていくと、ペレストロイカの背景には、一人一人の人間を守り、個人の幸福を追求する権利、イニシアチブ(発意)の権利、思想・信条の自由を求める「下からの」動きがあったことに着目せねばなりません。
 過去に対する一種の拒絶反応は、口シア史に見る暴力崇拝と、それにまつわる一切を拒否するとの意思表明にほかなりませんでした。
 池田 おっしゃる意味は、よく理解できます。私も、ピョートル改革の粗暴というか、暴力的側面を見落としているわけではありません。たしかに、「上からの改革」「上からの啓蒙」といつた類似点のみ言っているのは、不十分ですね。
 それにしても、数カ月前、ロシアで行われた歴史上の人物の好感度に関する世論調査では、ピョートル大帝が、二位のジューコフ元帥を圧倒的に引き離して一位を占めていました。レーニンは、十位だったように記憶しています。レニングラード(レーニンの都)が、サンクト・ペテルブルク(ピョートルの都)に″先祖返り″してしまうのも当然かもしれません。
 このピョートル人気の根強さを見るにつけ、あなたの「ロシア史に見る暴力崇拝と、それにまつわる一切を拒否するとの意思表明」が、いかに壮大かつ困難に満ちた企てであったかが、ひしひしと感じられます。自由や民主主義といった近代市民社会の原理を、そうした原理とは縁の薄かった風土に植えつけるわけですから。
 この点は、日本も同じ事情でした。第二次大戦が終結し、占領下におかれた日本では、アメリカから民主主義が″輸入″されました。多くの人は、戸惑いました。昔のほうがいいのではないか、という錯覚をもつ人さえいました。今は当たり前となった民主主義も、そう簡単に浸透したわけではなかった。長い間の慣れというのは怖いものです。

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