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「二十世紀の精神の教訓」ミハイル・S・ゴルバチョフ(池田大作全集第105巻)

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1  アショーカ、ガンジー、ネルーの″非暴力″
 池田 それでは、指導者論から始めたいと思います。
 私が創立した東京富士美術館では、一九九四年秋、インドの関係諸団体などの協力をいただいて、「アショカ、ガンジー、ネルー展」を日本各地で開催しました。テーマは「癒しの手(ヒーリング・タッチ)」です。
 とくに、ガンジー(マハトマ)、ネルーの源流を、アショーカ大王までたどっている点は、まことにユニークであるとの感想が、多く寄せられました。
 ゴルバチョフ インドは、私も深い尊敬の念をもっている国です。
 インドの人々には、他者の痛みに対する深い同情があり、「平和」と「自由」と「正義」への強い意志があります。
 池田 おっしゃるとおりです。まさしく「精神の大国」です。
 アショーカ、ガンジー、ネルーの系譜が人類に訴えかけているのは、一言にしていえば、″非暴力″ということです。
 ゴルバチョフ よくわかります。
 一九八六年十一月、私はインドを訪問しました。
 その折、デリー宣言(核兵器と暴力のない世界の諸原則に関する宣言)がなされました。あなたの知己でもあった、ラジブ・ガンジー首相との共同記者会見のさい、私は、「われわれは無条件にテロリズムに反対する者だ」と述べました。
 実際、この宣言は非常に重要な意義をもっていました。今は亡きガンジー首相は、私の崇高な親友でした。
 池田 よく存じあげています。
 時を同じくして、新世紀への挑戦を開始されたお二人のあの邂逅かいごうは、深く印象に残っております。
 ところで、展示を通して、人々が感銘を受けるのは、やはり、インド独立にさいしての、マハトマ・ガンジーの卓越した「人格」と「リーダーシップ」にあるようです。
 かのネルーは、″インドの民衆の心からどす黒い恐怖の衣を取り除き、民衆の心のもち方を一変させたのが、ガンジーである″と強調しています。たしかに、歴史的巨人の存在はそのような役割を演ずるのではないでしょうか。
 ゴルバチョフ ええ、同感です。
 池田 そこで、歴史を動かす″一人″の人間の力――その雄大な可能性について、二つほど証言をあげてみたいと思います。
 一つは、フランスの作家アンドレ・モロワは、こう記しております。
 「真の革命はただ一人の人間の革命であるといわれている。より正確にいえば、ただ一人の人間も、――それが英雄であれ聖者であれ、――大衆に一つの手本を提供することができるし、その手本の模倣は地球をもくつがえすであろう。
 偉大な行動人は踏みならされた道をたどるものではない。彼は他の人びとが見ないことを見るから、他の人びとがしないことをする。彼の意志は高潮となって、習慣や抵抗を一掃する」(『初めに行動があった』大塚幸男訳、岩波新書)と。
 ゴルバチョフ なるほど、「高潮となって、習慣や抵抗を一掃する」――ガンジーに、ぴったりの表現ですね。
2  一人の人間の「革命」
 池田 もう一つ、こうした偉大な行動者たちへの評価を、ルネサンス研究の大家ブルクハルトは、次のようにつづっています。
 「偉人とはその人がいなければこの世界は何かが欠けているように私達に思われる人々のことである。
 なぜならば一定の偉大な業績がただこの人によってのみ彼の時代と環境のうちにおいて可能であったのであって、そうでなければ到底考えられないからである」(『世界史的諸考察』藤田健治訳、岩波文庫)
 これは、たんなる英雄崇拝や個人崇拝とは、次元を異にしています。一人の人間が、その時代を、だれよりも深く生きぬくことにより、時代精神の比類なき体現者として、人々の手本でありつづける――このことは、古今、変わらぬ鉄則であったし、今後も、そうありつづけるでしょう。
 早い話が、レオナルド・ダ・ヴインチやミケラン・ジェロなどの名を除いたイタリア・ルネサンス時代など、いかにも輪郭のはっきりしない、貧寒なイメージしか残りません。また、十九世紀前半のロシア精神のルネサンスを、プーシキンの存在なしに考えることは、とうてい、不可能でしょう。
 これは、芸術の世界に限ったことではありません。
 仏法で「一人を手本として一切衆生平等」(『新編日蓮大聖人御書全集・創価学会版』)。以下、御書と略記)と説かれているように、「手本」たりうる一人
 の人物を欠けば、社会の精神状態や道徳的秩序なども、きわめて不安定なものとなってしまいます。現代の大衆社会状況の根本的欠陥も、そこにあるといえないでしょうか。
 ゴルバチョフ 今、一つの世紀から次の世紀へ移ろうとしています。こうした転換期には、必ず大きな苦しみがともなうものです。
 その時代こそ、屹立した人類の良識が必要です。
 池田 そのとおりです。
 そうした時代であるだけに、ペレストロイカを主導した「ミハイル・ゴルバチョフ」の名が、「その人がいなければ、この世界は何かが欠けているように思われる人々」の一人として、二十世紀に金文字で記されることは間違いないと、私は信じております。
 世界精神の体現者として、新時代を創造する人間のことを、ヘーゲルは、「世界史的個人」と呼び、「その全生涯は悪戦苦闘であり、満身ただ情熱であった」とたたえました。
 あなたにお贈りした長編詩(『誇り高い魂の詩』)で、私はこのヘーゲルの洞察を通して謳いました。
 「豪快に また痛快に
 古き衣をかなぐり捨てて
 『民主』と『自由』を希求する
 人々の魂を代弁し
 新しきドラマを演出する
 あなたこそ
 この二十世紀が生んだ
 『哲人政治家』にして
 『世界史的個人』と
 私は賛嘆の拍手を送りたい」と。
 ゴルバチョフ ありがとうございます。
 長編詩については、重ねて御礼申し上げます。
 しかし、私個人への過分な称贅の言葉は、どうも面映ゆいのです。(笑い)
 最初に、クレムリンでお会いしたさい(一九九〇年七月)に申し上げたとおり、私に何ほどかのことがなしとげられたとすれば、それは、私の周囲に有能な人々がいて、支えてくれたからなのです。
 池田 謙虚な、お言葉です。
 私の心情としては、岩盤のように厚いクレムリンの権力構造の只中から立ち上がり、ペレストロイカという人類史的実験に挑まれたあなたのリーダーシップに対し、感動と敬意をこめて、率直につづりました。
 もとより、歴史に名を残す「英雄」の人生は、つねになんらかの「悲劇性」をはらんでいます。「先頭」を行く人には、つねに「嵐」がともなうものです。
 「栄光」と「苦悩」は、決して切り離せない――。
 その道が正しかったかどうかは、ただ歴史が、証明するでしょう。後世の人類が、味方してくれるでしょう。私も、この信念できた一人です。
 モロワ、ブルクハルト、ヘーグルが論じたような「世界史的人物」。彼らに共通する資質について、あなたはどのように洞察されていますか。
3  現実を直視する生き方
 ゴルバチョフ 前にもお話ししましたが、つい最近まで、本格的に哲学を深く研究する機会が、私にはありませんでした。もっとも、つねに哲学に惹かれる思いはありましたが。
 不思議に思われるかもしれませんが、私と哲学との出合いは、哲学者の著作ではなく、口シアの民主派批評家ベリンスキーでした。彼の文学批評論文集は、もうずっと以前、高校生のころ、手に入れたものが、今も私の本棚にあります。
 池田 貴重な青春の書ですね。どういう点に感銘されたのでしょうか。
 ゴルバチョフ そうですね。
 ベリンスキーの論文、文学作品を読んで、まず驚くのは、その独創的な人生哲学、歴史観です。
 ちなみに彼が、グリボエードフの喜劇『知恵の悲しみ』について書いた、同じ題名の論文があります。その中で、勇壮なる闘争について、また逆境の克服について、ヘーゲルを引いて展開されております。
 しかし、ベリンスキーは、現実主義者らしく、異なる観点にたって、個人やその夢といったものの前に、まず「現実」を置いています。
 すなわち、「現実――それは今世紀の渡し舟であり、スローガンである。信仰、学問、芸術、人生、あらゆる分野で、現実こそすべてである」と。
 さらに、「力強い、勇壮な世紀、それは偽りやごまかし、弱さ、ぼんやりしたものを一切受け付けず、強い、堅固な存在を愛する時代である」(『ロシア文学概観』森宏一訳、同時代社)と、ベリンスキーは宣言しています。
 彼の哲学思想のどういう点に、いちばん影響を受けたのか――今では、もうよく思い出せませんが、″勇気をもって、現実を受けとめていこう″という呼びかけは、当時の私たちにとって、ぴったりくるものだったのです。
 池田 なるほど。
 たしかに、現実を直視することは、勇気を要し、また忍耐強い取り組みが欠かせません。
 経験を重視する、いい意味での「現実主義」ということは、仏教の精神とも、符合しております。
 ヘラクレイトスの「万物流転」ではありませんが、仏教でも、すべての現象は、変化、変化の連続であるととらえ、ともすれば、物事を固定化してしまう人間の傾向、とくに言葉のもつ、そうした働きを、厳しく戒めています。
 大乗仏教の中興の論師である龍樹が、釈尊の根本の教えを、「ことばの虚構を超越し、至福なるもの」としているのも、大乗仏教の言語観を、よく物語っています。その点が、「神」や「神のことば」を″実体″として先行させる宗教と、いちじるしく異なるところです。
 いずれにせよ、″左″や″右″のイデオロギーという「ことばの虚構性」が猛威を振るい、人々がかってないほど、軽信家になったといわれる今世紀の世紀末にあって、いい意味での「現実主義」は不可欠といえます。
 とくに、あなたが経験されてきたように、物事に感化されやすい若い人たちにとって、このことは、大切な教訓となるにちがいありません。

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