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日蓮大聖人・池田大作

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世界政府への展望  

「平和への選択」ヨハン・ガルトゥング(池田大作全集第104巻)

前後
1  池田 核兵器出現の運命的、黙示録的性格を知悉していた人は、他ならぬ、その製造にたずさわった科学者でした。広島への原爆投下のニュースを知らされたアインシュタインが、ひとこと「おお、悲しい」との沈痛な叫びをあげたことは、よく知られています。
 戦後、アインシュタインが、世界政府創設運動の熱心な唱導者になったのも、この罪の意識に裏づけられていました。ライナス・ポーリング博士は私たちの共通の友人ですが、アインシュタインは、ポーリング博士に語ったそうです。「私は生涯において一つの重大な過ちをしました。それは、ルーズベルト大統領に原子爆弾をつくるよう勧告した時です」と。
 核兵器のもつ巨大な破壊力、殺傷力を考えれば、二度と戦争を引き起こしてはならず、戦争を発動させる国家主権の絶対性など、この巨人の眼には、小さな、愚かしい執着以外のなにものでもなかったはずです。残念ながら、彼の罪の意識の深さを共有できる人はまだまだ少なく、米ソ間の冷戦構造が深まりゆくなか、この二十世紀最大の物理学者の警世の叫びは、空しくかき消されていってしまいました。
 しかし、時移り、ゴルバチョフ元大統領の「全人類的価値」の提唱に象徴されるように、「国家主権」よりも「人類主権」を、「国益」よりも「人類益」や「世界益」を、本気で考えなければならなくなった現在、アインシュタインの先見の構想は、ふたたび光を当てられるべきでしょう。
 もちろん、アインシュタインも「世界政府」なるものがまったくの善であるとは思っていませんでした。それが「政府」である以上、悪の要素はまぬかれないにせよ、それでも戦争という、もっと大きな悪よりはいいというものです。「世界政府」の構想は戦争防止のための、いわば“緊急避難”的な色彩が強いものでしたが、現在、私は、平和を願う世界市民の合意を象徴するものとして、人類の議会としての国連を強化するうえで、その発想を生かすことは可能であると思うのです。
 ガルトゥング 原子爆弾の研究をしていた物理学者の多くはユダヤ人でした。その爆弾がベルリンやハンブルクのドイツ人ではなく、広島の日本人の殺戮に使用されたことを知った時、彼らは衝撃を受けたにちがいありません。もし、その逆の場合であったなら、はたしてアインシュタインは同じ悲嘆の声を発していたでしょうか。それはだれにも知るよしもありません。
 個人的には、私は、「世界政府」というものに懸念をいだいており、むしろ私が拙著『真の世界』(TheTrue Worlds)(一九八〇年刊)の第八章「世界中央統括」(ワールド・セントラル・ガバナンス)で述べているような、ソフト・パワーを基本にした、より緩やかな形態の組織のほうがよいと考えています。これはグローバル・ガバナンス委員会でも考えられている形態です。私のこの考えを説明しながら、あなたが予測しておられる悪弊のいくつかを指摘してみたいと思います。
 中央政府には、四つの任務があります。すなわち、文化の統合をはかること、経済的な調整を行うこと、暴力を行使して内外の敵を制圧すること、そして、これら三つの任務に関して政治的な意思決定を行うことです。
 今日、文化的統合を行うとすれば、それはおのずと西洋文明に基礎をおくものとなり、そこにはこの文明がもつ長所や短所がすべて含まれてくることでしょう。しかし、政府よりは緩やかな形態の世界調整組織ということになれば、それは諸文化の「連合」(コンフェデレーション)のようなものになるでしょう。ところが、もし世界が――単一国家として運営される場合ももちろんそうですが――一つの「連邦」(フェデレーション)として運営されることになれば、おそらくそれは英語と、西洋の科学技術と、西洋的な人権と、そしてとりわけ西洋的な力の傲慢さとを基盤にした、堅固な文化的統合を必要とすることでしょう。
 万一そのような「連邦」(フェデレーション)が出現するとなれば、それこそまさに西欧権力の傲慢さが、つねづね望んでいた地位、すなわち全世界の中心に到達したことになるのであり、それ以外の何ものでもないのです。マタイ伝第二八章・一九節の“伝道の命令”「されば汝ら往きて、もろもろの国人を弟子となし、父と子と聖霊との名によりてバプテスマを施し……」が世俗的な形で実行されたことになるのです。その結果もたらされるものは、世界の文化的多様性の途方もなく大きな喪失でしょう。五百年前には約四千種類もあった文化が、すでに今日ではおよそ一千という数に減少していると言われます。
 経済的な面からみれば、「世界政府」が出現することは、とりもなおさず世界的な規模の経済計画が立てられ、全地球的な市場が形成されるということです。これは、この「世界政府」の自由主義的・保守的なイデオロギーとは裏腹に、現在アメリカに存在している「管理貿易」(マネージド・トレード)と呼ばれるものと、どこか似たものになるわけです。私は、こうしたいくつかの避けがたい事態が相まって、旧ソ連でさえそれに比べれば小さく見えるほどの、巨大な統治機構を生みだすのではないかと危惧しています。一つには、旧ソ連の人口の二十倍もの人々がそこに含まれることになります。経済は市場支配力に任せればよい、という人々もいるでしょう。しかし私の推測では、ひとたび「世界政府」が出現すれば、もはや人々には市場支配力の残酷さを甘受する気持ちがなくなると思います。
 私の予測ではまた、やがて軍隊は「世界警察」と呼ばれるようになり、その軍隊が、全人類・全世界の名において代表議会から全面的な支持を得て、湾岸戦争やソマリアの内戦で示したと同じ野蛮さと独善性をもって、際限もなくつづく湾岸戦争級・ソマリア内戦並みの戦闘に加わっていくことでしょう。
 「世界政府」の意思決定が民主的であり、多数派の意思を反映するということは、おそらくありうるでしょう。しかし、私が懸念するのは、必然的に生じるであろう数々の少数派の運命なのです。ジェレミー・ベンサムは、危険であり魅惑的でもある自説の方式を掲げて、最大多数の最大幸福を説き、そうすることで経済的富を国民総生産で量る多数決独裁への基礎をつくりました。このベンサム方式とは対照的に、ガンジーは、人間の最小限の基本的必要を満たすべきこと、そしてたとえそれが時間のかかることではあっても、あくまで総意にもとづいた民主主義を実現すべきことを説きました。要するに私は、「世界政府」の場合、かつてソビエト連邦を出現させた概念とはたしかに異種の、しかし同じように合理的で非常に危険な抽象概念に、私たちが直面するのではないかと危惧するのです。
 私自身の理想的な世界像は、より緩やかで、より柔軟性のあるものです。私は、人間の基本的な必要が満足させられるような、小単位レベル(村もしくは町区)の強力な地方政府を考え方の基準に置いています。やがてこれらの単位が集まって諸国家の「連合」(コンフェデレーション)となり、そこからさらに諸地域、諸文明を結ぶ「世界連合」(ワールド・コンフェデレーション)を形成するというものです。
 「連邦」(フェデレーション)は、財政上、外交上、軍事上、共通の政策をとることを指令します。アメリカの南北戦争における「南部連邦」の例からもわかるように、連邦から抜け出る道はないのです。「連合」(コンフェデレーション)の場合は、財政、外交、軍事の諸政策上すでに調整のとれた自治体を基盤としており、しかもその構成国間の盟約には再調整の余地があります。また「連合」は、適切な警告と時間的制限をともなう免責条項を備えています。これは、じつに複雑な現代世界の現実によりよく適合し、多様性・共生という主要な次元のためにより役立つものです。
 しかし、警戒すべきこともあります。一神教文化の人々は、単一の中央集権的な政治構造のほうを好む傾向があるからです。「連合」は、多神教や多元論の人々によりよく適合します。「連合」の強力な地方基盤は、汎神教的な要素すらも与えてくれます。一神教は、服従すること、そして天が下す称賛ないしは懲罰を待つことを求めます。多神教にはもっと幅ひろい多様性があります。つまり、もし一つの神でうまくいかなければ、頼るべき別の神がつねにいるというわけです。世界のどこにでも見られる内在的な汎神教は、人間と人間以外の自然とを結合させるものですし、仏教的なアプローチともよりよく調和します。これだけでも、先に申し上げた、緩やかで柔軟性のある解決法を私が直観的に選んでいることの充分な理由になるのです。
 この観点からいえば、国連もよりよいものに思えてきます。もしかしたら国連のあの非能率性そのものが、一見不幸に見えながらもじつは幸運なことなのかもしれません。というのも、その非能率性のおかげで国連はアメリカ合衆国のような組織に、いやそれならまだしも旧ソ連邦のような組織になってしまうことをまぬかれているからです。おそらく国連は現状のままにしておくべきでしょうが、ただひとつ、私たちは、その性格をたんに「国家の連合」にとどめておくのではなく、さらに「人民の連合」にするよう努めるべきでしょう。
2  池田 博士のおっしゃる「世界中央統括」の内容については、残念ながらつまびらかにしておりませんが、よしんば世界的な統合システムのようなものがめざされるとしても、その統合力はタイト(堅い)なものよりも、緩やかなものであったほうがよい、という点には大賛成です。挙げられた世界政府の四つの職務のうち、とくに最初の「文化統合」などという点に関して、もし文化の多様性を均質化し、画一化していくような方針が取られるならば、百害あって一利なしでしょう。一種の普遍的な色彩をおびた近代化政策が、世紀末を迎えた今日、いたる所で行き詰まりを露呈していくなかで、“ポスト・モダン”の潮流は、多種多様なアイデンティティーの模索にこそあるはずです。その潮流を力による画一化政策によって押しとどめようなど、時代錯誤というしかなく、また、そのような施策が成功するとは、とうてい思えません。
 主権国家の枠組みを超えた世界システム構想に心を砕いていたルソーやカントも、主として政治次元からですが、そうした画一主義に対しては、重々、警戒をおこたらなかったようです。ルソーの「国家連合」の構想の背景には、つねに「主権をそこなうことなしに、どの点まで連合の権利を、拡張することができるか」との問いかけがありました。またカントも、国家間の連合の目的を平和の維持だけに限定し「たんに戦争を防止することだけを意図する諸国家の連合状態が、諸国家の自由と合致できる唯一の法的状態である」と述べております。いずれも、世界システムが権力機構として肥大化していくことの危険性を指摘したものでしょう。
 したがって、世界統合化へのシステム作りにあたって、絶対に無視してはならない点は、「自発性」ということであるというのが、私のかねてからの主張です。この一点を踏みはずすと、今、国際社会の焦点となりつつある国家主権の制限の問題にしても「自発性」という原則を崩してはならず、もし、強制的にそれを行おうとすれば、日本のことわざにいう“角を矯めて牛を殺す”ことになってしまうでしょう。その結果、おっしゃるように世界政府とは、旧ソ連を上回るような、モンスターじみた権力機構と化してしまうことは必定です。それを避けるための王道は、民意を尊重し、それをどう汲み上げ、反映させるかという点にあり、国連を「国家の連合」だけではなく「人民の連合」に、ということの趣旨もそこにあるといえましょう。私も、国連が「国家」の顔ではなく「人間」の顔を表にしたものになっていかなければならないことは、何度となく提言しております。今後もNGO活動などを通じて、できる限り、その面へ貢献してまいるつもりです。私はまた、こうしたNGOの活動がやがて多くの人々の賛同を得ていくことを、心から願っております。
 ガルトゥング それへの答えとなるものが、すべての当事者による「内なる対話」と「外なる対話」です。私たちはこの地球上に大勢集まって生きていますから、私たちのカルマ(業)がすべて互いに相交わっていることがわかります。もしどこかに過ちが生じた時には、私たちは、自分たちの内面で静かに思いをめぐらし、自分たちの中に解決を求めるという、あの優れた仏教の伝統に従うべきでしょう。さらにまた私たちは、個人的なものであれ、集団的なものであれ、自己改善は可能であるが、それは決して天からの賜り物などではなく、額に汗する勤勉によってのみ得られるという、あの仏教思想を明確に理解させていかなければなりません。
 平和のための仕事には、一握りの政府とか頂点に立つ人々だけでなく、私たちすべてが必要なのです。私は「世界政府」なるものが、神に代わるもの、すなわち遍在的・全知全能的な存在となってしまう可能性を心から懸念しております。「世界政府」が恩恵をもたらすとはどうしても思えないのです。ただし最終的には、私たちは、自分自身に、そしてあなたがおっしゃるような――人間の個人としての有限性を超えたところに存在する――永遠なるものに、わが身を委ねることができるのです。

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