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日蓮大聖人・池田大作

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核兵器の黙示録的性格  

「平和への選択」ヨハン・ガルトゥング(池田大作全集第104巻)

前後
1  池田 次に、冷戦体制が終結したことで、米ソ間で核兵器が使用される危険性は大幅に薄まりましたが、かといって、核兵器が全廃されたわけではありません。旧ソ連の核兵器の管理主導権の問題は、一歩誤ると核ジャックの恐れを生むでしょうし、また核科学者の国外流出が、現実の問題として持ち上がっています。
 核兵器は人類の滅亡すら可能にするその破壊力の大きさに特徴があり、通常兵器の延長線上では考えてはならない性格のものです。いわば運命的兵器、黙示録的兵器です。先ほど(本章の「3民族主義の炎」で)博士もふれられたアーサー・ケストラーは、その著『ホロン革命』(原題Janus)において「人類史上初の原子爆弾が広島上空で太陽をしのぐ閃光を放って以来、人類は『種としての絶滅』を予感しながら生きていかねばならなくなった」(田中三彦・吉岡佳子共著、工作社)と述べています。
 考えてみれば、近代戦争は国家の総力戦であるところに特徴があり、国家権力の中央集権化と不可分の関係にあります。また核兵器は近代の科学技術の粋を集めて作られており、その意味で、核戦争の脅威は近代文明の発展が必然的に直面したカタストロフィー(破局)であるということができると思います。
 私の恩師戸田第二代会長は一九五七年に世界の民衆の「生存の権利」を脅かすものは魔物であり、サタンであり、怪物であるとの立場から、核使用が「絶対悪」であることを訴える歴史的な「原水爆禁止宣言」を発表しました。これは核兵器の威信機能を、そして核保有を正当化する論理を根源的に論破したもので、時代に先駆けた主張です。その恩師の声を胸に秘め、私は今日まで戦ってまいりましたし、今後とも生涯をそのために捧げてまいるつもりです。
 ガルトゥング 本項のために選ばれたこの題名(「核兵器の黙示録的性格」)は、非常に適切なものです。ヤハウェ、ゴッド、アラーといったセム系の男神は、創造力と「ヨハネ黙示録」中に予見されている全面的な破壊力との両方を兼ね備えています。ヒンドゥー教では神は創造者、破壊者、維持者として現れますが、セム系の神にはこのうちの最後の、維持者としての特性が欠けています。この神の地上における代理人としてみずからを任じたのは、群小君主たちではなく、帝王たちでした。そして現代の超大国が、この帝王たちの地位を引き継いだのです。したがって、超大国が全面的破壊の道具を所有するというのは、当然予想されたことにすぎません。それというのも、少なくとも超大国にしてみれば、これらの武器こそが彼らの神のような特性の拠り所であるからです。
 現在の核保有国にも(核兵器の)削減や(原子力の)置換を受け入れる気持ちはあるでしょうが、これら核保有国――アメリカ、イギリス、フランス、中国、インド、ロシア、ベラルーシ、ウクライナ、カザフスタン、イスラエル、それにたぶんもっと多くの国々――は、いずれも核兵器の備蓄を手放しそうにありません。それを手放すことは、優位な立場からの転落を意味するからです。実際のところ、他の国々も、核クラブへの仲間入りを望んでいます。核兵器を保有することが、優越感を与えてくれるように見えるからです。
 そのうえ、おっしゃるとおり、これらの国々も、今や自由に流出しつつある旧ソ連の技術を入手できるかもしれないのです。たとえ入手できない場合でも、おそらくこれらの国々は、まもなく自力でその技術を開発することでしょう。それはさほど困難なことではありません。こうした核兵器を持とうとする主な動機は、それを使用することではなく、核クラブのメンバーシップ・カード(会員証)としての、また(メガトン級の負債にはメガトン級の爆発力を、といったぐあいに)取引の切り札としての、威信をもつことにあるのです。今後、核拡散が進めば、核クラブへの仲間入りがさほど魅力のないものになることはあり得るでしょう。
 戸田城聖氏は、まさに当初からこの真理を見抜いていました。そして、核兵器に対する戸田氏やあなたの姿勢が、平和運動体としての創価学会に威信をもたらしています。ただ願わくは、世界中のより多くの人々が、大量破壊兵器がパワー・シンボル(力の象徴)やステータス・シンボル(地位の象徴)であるという思想に、嫌悪感を表明してもらいたいのです。そしてまた、彼らの指導者たちに対して、「私たちは、そうしたメガ・デス・マシーン(巨大殺戮機械)を蓄積する国々を重んずるどころか軽蔑する。そして、冷戦時代中の核の設計者(ニュークリア・プランナー)のような為政者たちを、潜在的な大量殺戮者と見なす」と言いきってほしいのです。ところで、この種の為政者たちはいまだに健在であり、その多くはきわめて高い地位に就いています。
 政治指導者たちはこれに対して「核兵器は抑止力としてのみ使用されるのだ」という議論をもって答えることが予想できます。ところが「冷戦」は、核兵器が戦争そのものを抑止したという証拠を、実際には何一つ提供しませんでした。さらに、アメリカもソ連も、挑発を受けずに相手側を核攻撃することを企てていたという証拠は出ていません。両陣営とも、とくにソ連は、核兵器の使用を含むきわめて攻撃的な防衛戦略を持っていましたが、これらは彼らの国土外の領域での戦闘を想定したものでした。しかし、一九八二年以降、ソ連は、いかなる紛争においても核兵器を先制使用しないという原則を掲げました。ところが不気味なことに、一九九三年十一月以降、エリツィン指導下のロシアがふたたび先制攻撃政策(ファースト・ストライク・ドクトリン)へと後戻りしています。
 しかしながら、核兵器が核兵器そのものの使用を抑止したという議論も成り立たないこともありません。一つの強国だけが核兵器をもっていたとしたら、その国がそれを使用したいという誘惑に駆られたとしても、それは無理からぬことかもしれません。しかし、だからといって、これは核兵器に賛成だなどという議論では決してありません。皮肉な見方をすれば、それはさらなる拡散に肩をもつ、ひねくれた議論のようにすらみえるかもしれません。つまり、相互の抑止のためには、それぞれの核保有国があらゆる敵国の核武装を歓迎して当たり前、といった議論なのです。そうなるとイスラエルのような国の場合、敵国は数多くあるわけです。しかし、核拡散を抑止力として奨励するのではなく、核兵器を完全に禁止することのほうが、ずっと合理的であるのは間違いありません。そして、この目標達成に向けてのイニシアチブは、先にハーグ国際司法裁判所の判決を引き出すきっかけになるなど、すでにかなり大きな進展を示しています。
 おそらく西洋の核兵器が、湾岸戦争における化学兵器の使用を抑止したのだと言うことはできるでしょう。しかし、たとえそうであったにせよ、それが意味するものは、「核兵器が通常型の大量殺戮手段の保有におよぼす効果は、核兵器が核兵器の保有におよぼす効果と似たり寄ったりだ」ということにすぎません。そしてこのことは、核の保有が戦争そのものを抑止するということなど決して意味しないのです。逆に、それは「核戦争でない限り、どんな戦争も許容され得る」というところまで私たちの許容のレベルを全般的に低めてしまい、戦争をより容認されうるものにしかねません。ヒトラーとスターリンは、まさにこのようにして、政治的殺戮への許容に対する私たちの基準線(ベースライン)を蝕んでいったのです。人類史上最悪の暴力の世紀である二十世紀の基準は、彼ら以下の犯罪であればほとんど許容され得るところまで低下してしまいました。
 これらをすべて考え合わせたうえで、私は創価学会が、これらの反生命・反創造の手段とその弁護者たちに対して闘争をつづけるようお願いしたいのです。ワシントンではおそらく歓迎されないでしょうが、世界各地で開催された貴会の展示会は、まことにすばらしいものでした。世界各地の人々は、さらに別のさまざまなものを陳列した展示会を望んでいるのです。
 池田 じっさい「ヨハネ黙示録」に描き出されたイメージは、核兵器がもたらすであろうハルマゲドン(最終戦争)の、血の凍るようなイメージとピタリと符合します。神による審判、苦難の末に訪れるメシアの王国といったイメージは、客観的な事実というよりも、民衆の心理的な救済のドラマとして、人類史とともに永く生きつづけてきたものといえるでしょう。その黙示文学の性格を最も鋭く分析した人に、D・H・ローレンスがいますが、彼が正しく指摘しているように、黙示文学の役割は、たんに虐げられた者たちの救済への願望が投影されるということにとどまらず、弱者の側からの強者に対する歪んだ、陰にこもった復讐心というか、被圧迫者の側からの裏返しの権力意識の拠り所となっている点にいちばんの問題があります。したがって博士が、やや異なる角度からですが、黙示録的兵器としての核兵器を権力意識と結びつけて論じておられるのは、きわめて正鵠を射ています。
 そうした心理の委曲にそって考えてみれば、人間の愛や信頼をこともなげに無視し、不信や恐怖や憎悪を支えに、しかもそれらを極限まで肥大化させることによって成り立つ“核抑止力信仰”には、いかなる意味でも合理の名を冠することはできません。それ自体、人間性の敗北以外のなにものでもないからです。人間によって構成されている社会である限り、平和は愛と信頼のうえにのみ成り立ちます。たんに戦争状態ではないからといって、不信と恐怖と憎悪によって得られた束の間の安定など、とうてい平和の名に値しません。まさに“砂上の楼閣”といってよく、遅かれ早かれ分裂と抗争におちいることは目に見えています。不信も恐怖も憎悪も、人間と人間とを結びつける要因ではなく、彼らを引き裂き、分裂させる要因でしかないからです。こうした“心の核分裂”こそ、じつは実際の“核分裂”と同様、否、それ以上に恐ろしいことなのだという点に、もうそろそろ人類は気づくべき時に来ています。
 ガルトゥング 古代エジプトのピラミッドは、核兵器と同じくテクノロジー上の巨大な業績であり、権力と階級意識と傲岸さの壮大な表現でした。いったん発明されたテクノロジーは元に戻すことはできないといわれます。しかし私は、今日、ピラミッドを築くことにだれも興味をもっていないことに、一つの希望を見いだしています。たとえいったん発明されたテクノロジーが元へ戻しえないとしても、それを段階的に廃止することはできます。もし核兵器のテクノロジーの運命も同じだとすれば、核兵器生産の知識はそのまま残っていてもだれも見向きもしなくなる、ということも起こりうるのではないでしょうか。
 しかし、核兵器のテクノロジーが段階的に廃止されるまでは、私たちは、戸田城聖やバートランド・ラッセルやアインシュタインが示した道、そして九十カ国の二十万人近くのメンバー全員が核兵器使用を違法にすべく活動している、あの瞠目すべき平和団体IPPNW(核戦争防止国際医師の会)が示しているその同じ道にそって、たゆまず努力しつづけなければなりません。

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