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日蓮大聖人・池田大作

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地球的諸問題へのアプローチ  

「平和への選択」ヨハン・ガルトゥング(池田大作全集第104巻)

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1  池田 ここで人口問題にふれておきたいと思います。このまま人口が増えていけば、世界の人口は二十一世紀半ばに百億人に達するといわれています。この人口増加と貧困の問題、さらに地球環境の問題は相互に関連しあっており、人類はこの三つの難問を同時に解決しなければならないという、きわめて困難な事態に直面しています。
 東西の冷戦が終結した今こそ、年間一兆ドルといわれる軍事費を削減し、その資金を地球的な諸問題の解決に役立てるよう、人類は「平和の配当」に目を向けねばなりません。
 これと関連して、世界全体の需要を満たせるエネルギーを長期的視点からいかに開発するかが、人類の大きな課題になっています。環境を汚染し、しかも有限な石炭、石油という化石燃料に過度に依存する体制には、もはや限界があるといわねばなりません。
 世界人口の二割余の先進国が全エネルギーの八割を消費している現在の状況をいかに転換していくかは、人間の生き方自体を問うものであり、優れて文明的な課題です。私たちは、手遅れにならないうちに、こうした地球的問題群の解決のため、全力で取り組む必要があります。
 ガルトゥング 一九九二年六月、リオデジャネイロでの「国連環境開発会議」(UNCED)において、そうした諸問題の一部を解決すべく、いくつかの提案がなされました。それは、北半球の、とくに第一世界のライフ・スタイル(生活様式)を、減少しつづける資源に見合った、より合理的なものにさせようというものでした。アメリカは、これを基本的な個人の選択の自由を侵すものとして拒否しました。ここで重要なことは、いうまでもなく「北」におけるライフ・スタイルの自由な選択が、「南」における選択の自由を少なくするということです。ヴォルテールはこのことを雄弁に指摘していますが、ブッシュ政権はどういうわけか、この点を見落としていました。
 イギリスの経済学者トマス・マルサスが発した警告は、人口は幾何級数的に増加するが、食料の供給は算術級数的にしか増加しないというものでした。ところが、人類が今日向かっている方向からすると、マルサスが楽天主義者にすら見えてきます。つまり、人口は幾何級数的に増加しているようですが、食料生産のほうは、砂漠化、土壌の浸食、種の種類の減少、有毒汚染物質、気候の変化、オゾン層破壊によるダメージ等々の相乗効果のため、実際には減少しているのです。「国連環境開発会議」は、こうした傾向に歯止めをかける重要なことは何ひとつしませんでした。この会議は、それらについて発言をしただけなのです。
 しかし、いずれかの時点で、大規模な民衆の抗議がこうした現況を救うことになるかもしれません。そのうえ、非常に多種多様の利用可能な代替エネルギー源――太陽熱、風力、波力、地熱、温泉熱、バイオマス等々――があります。それを考えると、私には、やがていつの日か合理性が優位に立ち、きわめて不合理な西洋文明に再生不能な化石燃料への依存をあきらめさせることになるだろうと思われます。むしろ、そうならないとはとうてい信じがたいのです。もちろん、これらの代替エネルギー源はいずれも単独では十分な量がないため、併用が必要となるでしょう。しかし、愚かなことに、現時点では、石油を燃やすことが相も変わらずいわゆる今日的なこととされています。
 現在の世界のシステムはあまりに軍事化されているため、いわゆる“平和の配当”からただちに結果が出るということは、期待できないでしょう。この分野では数多くの要因が重なり合っていて、どうしても悲観的にならざるをえないのです。まず何よりも、最大の軍事費浪費国であるアメリカが、同時に、人類史上最大の債務国になっています。アメリカが今後とも国家として存立可能であるためには、防衛費削減で浮いた資金――これは現在のところ非常に少額であり、不透明な連邦予算の中に別の名目で忍び込ませてある軍事費のほうがかえってそれよりも多額かもしれません――の大半を、赤字の一部を埋めるために使うことになるでしょう。
 冷戦は終わっても、巨額の防衛費を浪費している国のほとんどが、現在いくつかの大きな紛争に急速にかかわり始めており、そのためこれらの国々には、軍縮どころか逆に軍備増強の可能性があります。「欧州連合」が将来の「ロシア連合」と衝突するのは避けられないかもしれません。あるいは「欧州連合」がアメリカと組んでイスラム世界全体、とくにトルコ系諸民族圏――すなわちトルコ、イラン、パキスタン、アフガニスタン、それに旧ソ連邦の六つの中央アジア・イスラム共和国から成る、人口三億人、総面積七百万平方キロメートルにおよぶいわゆるECO(経済協力機構)諸国――と対立することも考えられます。
 今日の旧ユーゴスラビア紛争がその刺激剤となるかもしれません。そのうえ、軍事的手段に訴えて自由貿易や原料の入手を確保するような政策は、第三世界との衝突を招きかねません。おそらく、しばらくの間は「持てる国」と「持たざる国」は別々の道を行かねばならないでしょう。
 日本からは、学ぶべきことがたくさんあります。日本は基本的には勤勉と倹約によって、さらに日本の商船、日本の商社を駆使して独自の貿易を進めることによって、驚異的な経済発展をなしとげました。日本は、他国から何を学ぶべきかを知っていました。今、この時点での決定的な問題は、はたして日本が、他の国々に日本から学んでくれるよう望んでいるのか、それとも日本に服従し依存するよう望んでいるのかなのです。私は、日本人には世界の人々に自国の歴史を語ってもらいたいと思います。そして、他の諸国に対して――それがなかったら日本がもっと発展したであろう一八九四、五年から一九四五年までの軍国主義と戦争の五十年間は除いて――日本人の例から学ぶよう、奨励してもらいたいと思います。
2  池田 たしかにリオデジャネイロの地球サミットで決定されたことの具体化は、各国とも進んでいないようです。もっとも、これだけ大きく幅ひろい問題をあつかうわけですから、ことは簡単ではありません。たとえば、環境政策に熱心に取り組んできたといわれる「欧州連合」(一九九三年十一月一日以降)ですら、炭素税の問題などでは各国の相互不信でなかなかまとまらないのが実情です。いくら地球益といっても、国家レベルになると国益が顔を出してしまうものです。博士のご指摘のように、民衆レベルでどう政府を動かせるか、環境問題に取り組むNGOの正念場がきています。
 ともかく「南」の民衆の犠牲のうえに立った「北」の繁栄などという生き方は、もはや成り立ちません。「南」と「北」の共栄、共生を考える以外、地球社会の明日はありません。意識の次元では今日ほどそのことが地球レベルで浸透している時代はないと思います。
 日々の暮らしの次元になると「南」の人々がたいへんな困難に直面していることはよくわかります。森林を伐採するなといっても、そうしないと毎日の生活が脅かされる人々もいるわけですから。北側の人は、そうした深刻な実態を深く認識したうえでどうすればいいかという提案を出さねばなりません。この点で、たしかに日本が世界になんらかのモデルになりうればよいのですが――。
 結局、これからは生命系に基盤をおく行き方、地球規模で多様な自立的な経済を確立する以外にないと思われます。世界的な経済不況のなかで、もはや軍事に金を浪費している余裕はないはずです。
 ガルトゥング 各国の経済は、あくまで公正な関係になければなりません。通商は、公正に取引されるかぎり少しも悪いことではなく、むしろすばらしい相互扶助の手段です。しかし、通常は、いわゆる負の「外部効果」(エクスターナリティーズ)という副作用が搾取の形をとって、事実上、大規模な構造的暴力になっているのです。通商のパートナー間の取引は、一方が原料を、他方がそれと引き替えに精巧な製品をといった形ではなく、双方にとって同じようにやりがいのある仕事で成り立っていなければなりません。また当事者双方が、汚染や涸渇のような負の「外部効果」を減らすために協力しなければなりません。
 私たちは、今日、新しい貿易理論を切実に必要としています。私も拙著『別な基調の経済学』(Economics in Another Key)(邦題仮訳)の中でその試みをいたしました。『コーラン』は『聖書』(バイブル)と違って、そのある部分には道義的で誠実な商取引の原則が説かれており、それは今日でも昔と同様に(イスラム教徒の)依拠となっています。しかし、それは今日の諸条件に適合するように改新されなければなりません。あるいは大乗仏教が、この面で指導性を発揮できるのではないでしょうか。
 池田 私は先にシューマッハーの「仏教経済学」にふれたところで、「出世間」を重視する従来の仏教史の流れからは「仏教経済学」といった発想は生まれにくいと申しました。しかし、私どもの信奉する日蓮大聖人の仏法では「一切世間の治世産業は皆実相と相違背せず」と説きます。私どもは仏教者として、経済事象にも大いに関心を持っていますし、仏教の理念は深い次元で一切の事象にあい通ずるものがあるととらえております。
 私は博士の言われるように経済に公正さが必要であり、通商の公正な取引が根本であるという考え方に同感です。結局、相互依存関係が深まっている現代世界にあって、通商といっても、一国、また一企業が繁栄すればよいという時代ではありません。ともに協調、協力しあいながら繁栄していく「共生」が時代の要請といえましょう。その発想こそが現代の公正な「通商」に不可欠の理念であると思います。
 この「共生」を、仏教では「縁起」と説きます。現実の事象は個別性よりも関係性や相互依存性を根本としております。「縁起」すなわち「縁りて起こる」とあるように、すべてが互いに縁となりながら現象界を形成しています。人間界であれ、自然界であれ、経済の世界であれ、一切の生きとし生けるものは互いに関係し依存し合いながら、一つの生きた世界を作り上げているのです。
 この縁起の発想に立って、しかも狭いエゴイズムを乗り越えて主体的な生き方を説く大乗仏教は、博士が強調されるような「新しい貿易理論」すなわち「道義的で誠実な商取引の原則」というものの在り方にも大いなる示唆を与えるものと確信します。

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