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日蓮大聖人・池田大作

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「持てる国」と「持たざる国」  

「平和への選択」ヨハン・ガルトゥング(池田大作全集第104巻)

前後
1  池田 一九九二年六月にブラジルのリオデジャネイロで開かれた「国連環境と開発に関する世界会議」(「国連環境開発会議」=UNCED)は、環境と開発の問題を中心に、「南」と「北」の対立を鮮明な形で浮き彫りにしました。
 とくに、環境問題をこれほど悪化させたのは、何よりも先進国の大量消費文明に第一の責任があるとの批判の声が、途上国の間にわき起こっています。加えて、「南」の民衆の生活向上に直結せず、環境破壊を未然に防止できなかった「北」側の開発政策への批判が強まっています。たしかに先進国主導の開発の仕組みが途上国に膨大な累積債務を生みだし、その債務の利息を払うために天然資源を切り売りしている状態は、まことに不幸なことです。こうしたなかで南北間の協力がほとんど見られないことは残念でなりません。
 南北間の基本的問題を解決し、「持続可能な開発」へ進むために、今なにを最優先でなすべきか――私たちはこのことを真剣に考えなければなりません。今、必要なことは、「北」が「南」を搾取する政治・経済的構造を根本的に変革し、「北」と「南」が共存共栄できるシステムを構築することではないでしょうか。
 ガルトゥング リオデジャネイロでの「国連環境開発会議」(UNCED)は、おもにアメリカによる引き延ばしのために、全体としては大きな失敗となりました。多くの国はアメリカを恐れるあまり、アメリカが退場したり孤立するのを防ぎたいという、ただそれだけの理由で協定の草案を進んで修正しました。それにまた、これも疑いのないことですが、いくつかの国は、アメリカの陰に隠れてこっそりと自国のための引き延ばしを行いました。彼らは、アメリカがその浪費的なライフ・スタイル(生活様式)に固執して、気候と種の保護に関する重要な協定の作成を妨害するだろうと確信し、それを当てにしていたのです。
 環境問題が世の注目をあびるようになったのは、ただただ民間組織による活動のおかげです。環境保全の分野では、もしグリーンピースのような団体が世論を結集しなかったら、ほとんど何の実績も生まれなかったでしょう。政府や企業が行動を起こしたのは、市民社会が彼らを恥じさせてそうさせたからにすぎないのです。
 しかし、ある面では「国連環境開発会議」が成功を収めたこともたしかです。つまり、この会議が、どうにかこうにか環境問題を民間組織から政府省庁や企業の役員会議室へと波及させ、政府や企業の専門家、さらには知識人たちに無理にも行動を起こさせた、といって言いすぎなら、少なくとも反応させたということです。それはともかく、民間組織としては、あくまでこれらの問題を放棄してはなりませんし、また、最悪の汚染者である国家や企業に理性的なふるまいを期待してもなりません。そんなことをすれば、破滅を招くだけのことになります。
 この「国連環境開発会議」を何かに類比するなら、それはちょうど、奴隷制度を廃止することなしに、何とか持続可能な奴隷制度を押し進めようとする奴隷所有国の会合のようなもの、といえるかもしれません。この類比をさらにつづけるなら、この会議では、これら奴隷所有国が考案した取り決めのもとで、奴隷をもたない国家すらも奴隷売買による利益の“分け前”を要求したのだといえます。環境という面からみれば、この“分け前”とは、つまりは地球上の涸渇と汚染を、奴隷所有国側も自国内で蒙るということなのです。
 はたして私たちは、何をなすべきでしょうか。いくつかの条件を課す必要があります。
 第一に、まず私たちが専心しなければならないのは、より小規模な景気循環を地方レベルでさらに発展させることです。また、人間の基本的な必要を満たすように整えられた経済によって、より環境保護的な(シューマッハー流に言えば仏教的な)アプローチを行うことです。これこそがまた、人間以外の自然界の要求をも大切にする唯一の体制です。つまり、環境保全を地方住民の既得権にすることによって、自然界の要求を守るわけです。脱国家的(トランスナショナル)なアプローチでは、よそ者がやってきて欲しいだけの資源を奪い、涸渇と汚染だけを後に残して立ち去るのを放任することになるでしょう。涸渇や汚染をもたらすサイクルが短ければ短いほど、犠牲者側は自己防衛のために早急に力を結集することができるでしょう。
 第二に、より直接的な民主主義が必要です。それは、環境問題に関する国民投票という意味だけではありません。特定の問題への関心を表明する権利、それを公に明示する権利、政府や企業のスパイに脅迫されたり、もしかしたら殺されたりすることなく行動する権利等々といった意味での、直接的な民主主義です。民主主義の基本的な要素の一つは、政治上の反対活動を行う権利です。たとえば日本では、国家と資本・企業との間では対話が行われていますが、そのうえさらに資本・企業と市民社会との直接的な対話が有用となるでしょう。
 第三に、タンザニアの元大統領ジュリアス・ニエレレを議長とする「南」委員会の優れた『「南」委員会報告書』が示唆しているように、私たちは「南」対「南」の協力拡大を奨励しなければなりません。かつて第三世界は、二つの異なる政策を試みましたが、いずれも不首尾に終わりました。その一つは、それぞれの国が独自に第二次産業、第三次産業を発展させ、輸入品の代わりに自国の製品を使用しようとしたことであり、もう一つは、多くの「国連貿易開発会議」(UNCTAD)や類似の会議を通じて、第一世界との貿易条件を改善しようとしたことです。しかし、第三世界諸国のエリートたちは、一般に第一世界からの輸入製品を好み、第一世界は、第三世界における本格的な生産やそこからの競争を促進することには無関心でした。「南」委員会の方法は単純です。すなわち、「さあ、一緒に行動しよう。その手段は、第一世界への学問的依存を減らすために第三世界の『南』同士で多数の留学生交換を行うこと、ハード・カレンシー(米ドル等の通貨)の罠を逃れるためにわれわれ自身の手で計画を立てること、等々だ」というものです。このように「南」の諸国が発展を自分たちの手で進めるという構想は、じつに希望がもてることです。そしてこれと同じことが、東欧やかつてのソ連にもあてはまります。理想的には、これらすべての国々が、つまり第三世界と旧社会主義圏が、互いに力を合わせていくべきでしょう。
2  池田 ただ今のご発言には、最大の文明論的課題への対応が、包括的であると同時に簡潔に要約されており、感銘を深くしました。前にも博士は、シューマッハーの主著『スモール・イズ・ビューティフル』の中の仏教経済学についてふれられましたが、彼の問題提起は、わが国でも新鮮に受けとめられました。その内容は、経済学に限らず、一種の文明論的な意義をはらんでいた、というよりも現在ますます意義を増しつつあるといってよいでしょう。
 彼は、「仏教経済学」の中で、仕事の役割について、①人間その能力を発揮・向上させる場を与えること、②一つの仕事を他の人たちとともにすることを通じて自己中心的な態度を棄てさせること、③まっとうな生活に必要な財とサービスを造り出すこと、の三点をあげていますが、効率主義に走るあまり、結局は人間がモノに従属してしまう従来の在り方に鋭く発想の転換を迫っており、副題の『人間中心の経済学』の面目躍如たるところです。
 ご存じのように、仏教史に顕著な否定的傾向として、“出世間”の境地を強調するあまり、経済をはじめ“世間”の出来事を軽視しがちであったことは否めません。そうした傾向からは、「仏教経済学」といった発想はなかなか生まれにくいのですが、その点、ヨーロッパの伝統を踏まえた異なる視点からのアプローチは、仏教の活性化のための尊いインパクトとなりうると思います。
 ガルトゥング 同感です。そうなることでしょう。そして、仕事によってこそ人々はみずからが高まって自己認識ができ、共同体においても社会においても有益たりうるのですから、仕事には若い人も老人も、子どもも引退した人も参加させるべきです。子どもたちはまたこのことによって、利用されることなく、むしろ得るところが大きいでしょう。しかし、こうしたことを実現するためには、経済活動のなかでもあまり生産的でない面、たとえば自然の再生、病人や老人の看護、文化的・精神的活動等の分野を開拓していかなければなりません。これは計り知れぬほどやりがいのある仕事です。

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