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国連の改革  

「平和への選択」ヨハン・ガルトゥング(池田大作全集第104巻)

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1  池田 さて、先の湾岸危機は、侵略行為に対する国連の一致した対応が可能であることを示した一方、国連の役割の重要性が増すにつれ、安全保障理事会と総会との関係、事務総長の権限など、早急に改革すべき懸案も浮き彫りにしました。一九九一年五月に開催された国連軍縮京都会議では、「今後は国連による平和の時代だ」(ソ連のペトロフスキー外務次官)との発言があった反面、「湾岸危機で国連安全保障理事会は戦争防止のために何をしたか」(イラン代表)との声も上がっています。
 世界は今、理念性と具体性の両面における高いレベルの英知の発動を要請しています。「冷戦という“第三次世界大戦”の後には第三世代の国際機構が必要となる」(ベルトラン元国連監査官)との意見もあり、さまざまな国連改革案が提示されております。そこで、国連改革の方向性について、また、二十一世紀の世界機構論について博士のご構想をお聞きするとともに、この重要な問題についてともに考察しておきたいと思います。
 ガルトゥング 拙著『国際連合、人民連合』(United*Nations;*United*Peoples)(邦題仮訳)の中で、私は、国連組織の改革について十項目の提案を示しております。そのうちのいくつかは、国連の最もよく知られている側面、すなわち、国連総会、安全保障理事会、加盟国を含む政治的な国連を取り上げています。他のいくつかは、専門的な国連、つまり、専門化された諸機関に関連するものです。さらに、私が「人民の国連」と呼んでいる側面に関連したものもあります。ここでは私は、第一のカテゴリーに限定して、お話ししたいと思います。
 湾岸戦争の折、イラクは、一九九〇年八月二日のクウェート侵攻にさいして掲げたあらゆる理由にもかかわらず、実際には国連による満場一致の非難を蒙りました。これについては、十分かつかなり明確な理由がありました。今日構成されている形の国連は、国境を不可侵とする点では利害が一致している諸政府からなる、一種の労働組合なのです。だからといってこのことは、そのほとんどが一般市民であるおそらく五十万人に近い人々を殺傷するような大規模な攻撃を、妥当な反応として正当化するものではありません。私は湾岸戦争を国連安保理側の降伏であり、きわめて重大な悲劇であると見ています。話し合いの申し出は、何度も拒絶されました。アメリカやイギリスが目的を果たそうとして、巨大な圧力をかけたのです。安全保障理事会は、国連憲章の第十二条にしたがって行動し、国連総会にはかることなく、安全保障に関する問題を独り占めにしました。こうしたすべての措置にもかかわらず、この戦争は国連の活動ではなかったのです。それは、たんに安保理が合法化した多国籍軍にすぎませんでした。
 私の見るところ、世界のあらゆる地域がみずからの意見を表明できるようにするには、安保理の構成国数は、二十五カ国ないし三十カ国にまで拡充すべきです。常任理事国の地位という概念は捨てなくてもよいでしょうが、日本やインドや、他のいくつかの国々も常任理事国になるよう拡充すべきでしょう。しかし、いくつかの国々に認められている拒否権は、ただちに廃止しなければなりません。それがどんな国々であれ、ほんの一握りの少数国に、他の大多数の国々にかかわる決定、それももしかしたら彼らの死命を制するかもしれない重大な決定を下すような、大きな権限を与えるべきではありません。このような権限の付与はひとつの封建主義の残滓であり、全地球的な民主主義とはまったく相容れないものです。そのうえ、安保理での拒否権に関する分析結果が示すように、拒否権はなんら有益な目的に役立つものではありません。それらの拒否権は多くの場合、諸々の計画をせいぜい二、三年遅延させるだけなのです。
 なお、私は、国連分担金システムの改革も主張したいと思います。いかなる国の分担金も、一〇パーセントを超えて課せられるべきではありません。一〇パーセントでも多すぎるかもしれません。予算総額の二五パーセントにものぼる分担金を支払っているような国が脱退を決定すれば、国連にとっての財政的衝撃は非常な激震となります。これが一〇パーセントだけの損失であるならば、軽震程度ですむでしょう。もちろん脱退したい国があれば、それを許可しなければなりません。加盟国たることを永久に義務づけるのは、たんに緊張を高めるだけのことです。さらにいえば、脱退した国々も再加盟することがよくあるものです。
 私は、国連本部をアメリカのニューヨークのマンハッタンに、あるいはどこであれ一つの場所に、いつまでも置きつづけるのが賢明かどうか、疑問に思っています。期間としては、五十年で十分でしょう。移転の決定は、少なくとも一九九五年までにはなされるべきだと考えます。そして移転先としては、世界の中でもきわめて人口稠密で、多くの言語が話されている地域を推奨します。たとえば、もし一九九七年までに香港に適当な不動産が取得可能であるなら、私は香港を推奨します。このような移転は、今日の世界の現実をよりよく反映するだけのことではありません。それは西洋が現在も、また将来も、世界の唯一の「中心」でありつづけるという考えから、全世界を、なかんずく西洋自身を、乳離れさせることにもなるでしょう。東アジアに五十年間設置した後は、あるいはアフリカなどに再移転するのもよいでしょう。
 最後に私が申し上げたいのは、“介入”という概念を、より今日的なものにすべきだということです。国連が誕生したのは、“介入”が必然的に“軍事介入”を意味する時代でした。結局のところ、国連は人類史上、最も陰惨な戦争の一つがもたらした産物なのであり、その創設時の痕跡をとどめているのです。このため現在もなお各加盟国は、かつて大国がやったのと同じことを繰り返そうとしています。しかし、先にも述べましたように、今日という時代のためには、私は、調停や紛争解決の全般にわたってよく訓練された老若男女からなる、非暴力的で国際的な、平和部隊を推奨したいと思います。彼らの装備は、国連憲章第六章の「平和維持軍」にかかわる項目に規定された種類の防御装備のみに限定されるべきです。これらの何千人、何万人にも達する隊員は、ポスト軍事時代の新しい英雄となるべき人たちであり、自分たちの使命を十分に理解していなければなりません。もし、これらの人たちが十万人、ユーゴスラビアに配置されていたとしたら、あれだけ多くの血を流さずにすんだかもしれません。しかし、ソマリアでは、国連の軍事介入が、国連に対する初めての解放戦争を引き起こしました。このような場合、理想主義は、いわゆる軍事的な現実主義よりも、ずっと現実的なのです。
2  池田 変化の激しい世界の中で、国連自体が一つの大きな転機を迎えていることは確かだと思います。とくに安全保障面で、そのことが言えるのではないでしょうか。
 一九九二年、国連安全保障理事会は全会一致で、ソマリアへの人道援助の物資輸送を確保するために、米軍を主体とする多国籍軍の派遣を決定しました。その目的は人道的なものであり、これに反対する人はほとんどいませんでした。しかし、その後、PKO史上初の「平和執行部隊」といわれる第二次国連ソマリア活動は行き詰まってしまいました。
 このところ世界的に民族紛争が頻発しており、今後国連がこれにどう対応していくか、介入の原則が問われています。とくに現在の紛争の特徴は、国家内部の激しい対立、争いにあり、対応がきわめてむずかしい状況です。国連は、これまでは加盟国の国内問題には介入しないことを原則にしてきたわけですが、もはやそれではすまない時代になっています。人道的援助確保の名のもとに、内政問題と見なされてきた領域に強制措置を行使したのは、国連が新しい方向に一歩踏み出したことを示すものです。
 昨年(一九九二年)、ガリ国連事務総長が「平和への課題」という報告書の中で「平和執行部隊」の構想を打ち出し、論議を呼びました。すなわち、紛争当事者の合意がなくても、重装備の部隊を派遣して実力で停戦の実現にあたるというもので、国連が冷戦終結後の世界の困難な課題に主体的に取り組んでいこうという、強い意志が感じられます。
 だからこそ、私はここで国連本来の役割というものを想起すべきだと思います。そうでないと、思わぬ泥沼に足を取られかねないからです。なにごとであれ急ぎすぎるのは、よくないと思います。
 私は、国連の本質はシステム、ルールとしてのソフト・パワーにあるとつねづね考えています。国連の役割は、諸国の行動を調和するためのシステムとしてのものです。そのシステムがよって立つところのルールは、軍事力に代表されるハード・パワーとは対極にあります。ハーバード大学のジョセフ・ナイ教授がソフト・パワーを指して「競争力ではなく協調力のことである」と述べているのには、わが意を得たりという気がしています。まさに今要請されている新しい世界秩序を築くには、この協調力を基盤に平和的なシステム、ルールを作り上げることです。
 現在の国連は、安保理常任理事国を中心にした一部の先進国に主導されすぎているという批判があります。私はこの問題は、ただ拒否権を廃止するかどうかだけでは解決ができないと考えています。なぜなら、現在の問題は、グローバルな安全保障を可能にする新しいシステムが必要だということであり、もっと根本的な問題をはらんでいるからです。
 安保理の独走を許さないために、総会や事務総長職の強化をどうはかるかも課題です。国連改革のためのさまざまな提案をもとに、一九九五年国連の五十周年を機会に、根本的な国連改革のための世界サミットを国連で開いてはどうかと思います。
 ガルトゥング まことに同感です。ただし、そこには多くの問題があります。第一に、私たちがこれまで何度か言及してきたように、暴力を制約することが何としても必要です。さほど明白には決めつけられないにせよ、たとえば湾岸戦争のさいの第六七八号決議で試みられたように、たんに安保理によって合法化がなされても、暴力へのそうした制約は消え去るものではありません。そのうえ、規則をつくったり、規則違反国を“あらゆる必要な手段をもって”罰したりするさいの根拠となる――現国連事務総長(ガリ氏)が大好きな――法的パラダイム(範例)にも、制約があります。湾岸戦争の場合、この“手段”は経済制裁の形をとったのであり、それは旧ユーゴスラビアの場合も同じでした。しかし、おそらくサダム・フセインが戦争を起こしたのは、歴史上イラクに屈辱を与えてきたすべての国家に反抗する勇気を示し、それによって名誉と威信を得ることを望んだからでした。したがってこの戦争は、ある意味ではその目的を達したことになります。
 旧ユーゴスラビアにおける制裁措置は、住民のなかでも原理主義的な色彩の濃い一派の人々をますます強力にさせただけであり、すでに世界記録ともいえるほど大きくなっている傷口を、さらに広げています。
 私は、(ご提案のような)サミット会議は、そうした問題を処理する意欲と能力をもってほしいと思います。それらの問題は、あるいは彼らの通常の権限外の問題かもしれませんが、そうした狭い考えに捉われることなく取り組んでもらわなければなりません。現在のような法律至上主義、制裁志向的な国連では、期待されるような働きはできません。その最大の理由は、非常に複雑な諸現象への対応が現実に即していないというところにあります。

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