Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

文化相対主義について  

「平和への選択」ヨハン・ガルトゥング(池田大作全集第104巻)

前後
1  池田 民族問題の背景には、文化やそこから生まれる価値観の相違があります。文化といっても決してきれい事ではなく、異なる文化と文化が接触する場合、必ずなんらかの摩擦・相克が生ずるものであり、それが一つの文化による他の文化の支配という典型的な形をとったのが、西欧諸国の植民地主義でした。その反省のうえに立って、主として文化人類学のうえで今世紀になって興ってきたのが、文化相対主義であったことはことわるまでもありません。
 すなわち、西欧的な文化・価値観を「文明」とし、それと合わないものを等し並みに「野蛮」とするのは誤っており、それぞれの文化は独自の価値を有するという知見です。私は、西欧の良心の発露として、これを高く評価しております。
 しかし、文化人類学のレベルならばまだよいのですが、文化総体となるとまだまだむずかしい問題があるようです。それは、最近の日米・日欧間の貿易摩擦が、ややもすれば文化摩擦にまで発展しかねない状況に、はっきりと現れています。フランスの中国学の泰斗であるレオン・ヴァンデルメールシュ氏の次の言葉は、文化相対主義の困難さを如実に示しているといってよいでしょう。
 「われわれ西欧人は、文化的相違がわれわれの支配的地位を脅かす惧れがあると見えるやいなや、その種の(=文化的な)相異を我慢できない。ニューギニヤ原住民の儀礼的人肉喰いの慣習を、われわれ西欧人は極めて容易に認めるが、日本人が年に一週間の休暇しか取らないことには我慢がならない」(『アジア文化圏の時代』福鎌忠恕訳、大修館書店)
 私は、こうした異文化同士の摩擦・相克を克服していくには、感情論を極力避け、文化交流をより質の高いものへと鍛え上げていく不断の努力をおこたってはならないと思います。ここでも、ゲーテの言葉を借りれば「国民的憎悪というものは、一種独特なものだ。――文化のもっとも低い段階のところに、いつももっとも強烈な憎悪があるのを君は見出すだろう。ところが、国民的憎悪がまったく姿を消して、いわば国民というものを超越し、近隣の国民の幸福と悲しみを自分のことのように感ずる段階があるのだよ。こういう文化段階が、私の性分には合っている」と。このような境地は、決してひとりゲーテのような天才にのみ許されたものではないと思います。
 ガルトゥング 文化相対主義が現れたのは、非植民地化が行われ、“西洋人以外の人々も人間なのだ”という認識が西洋人の間に徐々に生じてきた時期と一致しています。それ以前にあったのは文化絶対主義でしたが、これは西洋文化のみが群を抜いて上位にあるとするものでした。こうした態度は、まだまだ残存しています。しかも相対主義には、他文化から積極的に学ぼうとせずに、消極的な寛容という形をとる傾向があり、これが不運にも文化相対主義の効力を減じています。
 文化相対主義のあとには何がくるのでしょうか。今日の文化相対主義は(たとえ本音では、ある文化は他の文化とは同等以上だとする発想があるにしても)たてまえは、すべての文化は等価平等であるとするため、かえって絶対主義になっています。もはや、こうした平等性を前提とせずに諸文化を評価する勇気を示すべき時が来ているのではないでしょうか。
 もしその勇気を示すのであれば、私たちは次のような文明をどう評価するでしょうか。その文明は、みずからを世界の「中心」と見なし、その他をこの中心部に入れてもらおうと努力中の「周辺」と、さらにその外縁部の「悪」とに立て分けます。そして、この悪に対しては、たんに今のままでいることを望んでいるというだけの理由で永久にそこから閉め出し、もしかしたら絶滅のはめにおちいらすべきものとすら考えています。またこの文明は、みずからの歴史を普遍的な歴史と見なし、他の諸文明はいわゆる“発展”や“近代化”を経ることによって、この普遍的歴史を繰り返さなければならないと考えています。このような文明について、私たちは何を言うことができるでしょうか。こうしたたぐいの反省なき傲慢さのゆえに、西洋文明への疑問を人々がいだいたとしても、それは当然のことなのです。
 まぎれもなく西洋にも輝かしい成功の数々がありました。なかでも、おそらく最も際立っているのがアダム・スミス、ハーバート・スペンサー、エミール・デュルケーム、マックス・ウェーバーなどが指摘したたぐいの社会的分化、すなわち、労働の分配、権力の分配、法による統治、支配者の人格と地位の分離等々です。しかし悲しいかな、支配欲といわゆる“成長”に対する気違いじみた追求が、これらの好ましい側面の影を薄くさせがちなのです。「他者」から学ぼうとしない西洋の頑なさと、その熱心すぎる宣教ぐせは、『新約聖書』の“伝道の命令”(マタイ伝28:18―21)に示されているように、“対話”への余地を残しません。そこには「そしてもろもろの国人と対話をしなさい」という締めくくりの語句はないのです。
 あなたのヴァンデルメールシュ教授からの引用が示しているように、西洋の傲慢さは、日本との関係にも顕著に現れています。私はこのことについて何回か講評してきましたが、この問題は実際にはきわめて単純なのです。西洋は――ここではとくにアメリカを意味しますが――日本を西洋の水準にまで引き上げなければならないと感じ、恩着せがましく、慈悲深そうに、父親のような寛大さを示しながら、その相手である日本に救済策を勧めたり、やんわりと刺激しては日本がさまざまな危険や不完全な部分をかかえていることを認めさせようとしたのです。しかし、これすらも、今日、西洋が日本に対して示している反応の真相ではありません。西洋が今、心ひそかにいだいているのは、自分たちがいまだかつて一度も挑戦を受けたことのない分野で、日本の文化が実際には優位に立っているのではないかという危惧です。西洋があの攻撃的な姿勢をとりつづけることができたのは、彼らの文化を根底から揺るがすような挑戦はありえないという、安心感があったからなのです。
 マックス・ウェーバーは博識な大学教授でしたが、西洋という狭い枠組みを超えることはありませんでした。そのマックス・ウェーバーが予見したこととは裏腹に、西洋人は、大乗仏教・儒教の伝統も、ユダヤ・キリスト教の伝統と同じくらい豊かな経済成長をもたらすことができるかもしれない、という認識をもつようになりました。事実、日本人はより勤勉で、集団の規律をよりよく守り、より思いやりがあるので、彼らの伝統は西洋の伝統よりも豊かな実りをもたらすかもしれないのです。しかし、この衝撃的な不測の事態が認められるにはずいぶんと時間がかかりました。そして、いったんこのことが認識されると、今度は西洋は、日本の文化と構造のありとあらゆる面のあら探しをし始めました。
 それは勤勉さ、貯蓄性向、休暇の取り方、住宅、企業構造、GNPに占める防衛費の率の低さ、過小な消費、高すぎる税金等々を含め、日本の伝統・制度の一切合切にわたるものでした。西洋人のなかには一貫して、自分たちが正しい基準であり、日本人はその基準から外れている、いやその基準を守ろうとしない義務不履行者ですらある、という想定に立つ人々もいます。なかには逆に日本人から学ぼうとした人々もいたことは事実です。しかし総体的には、西洋は、日本という国もその国民も西洋流のやり方に従わせたいという、宣教師的な傾向を示してきました。
 ところで私は、あなたが引用されたゲーテの見解とは異なった意見を申し上げざるを得ません。あの種の発言は、自分たちが他者よりも低い文化水準ではなく、高い水準にいると思っている西洋人によってなされるのです。西洋人のなかでもエリートでない人たちのほうが、他者に対してより大きな好奇心をもち、いつでも他者から学ぼうという意欲をより強くもっているものですが、これは、実際に、一つのより大きな希望の兆しであるのかもしれません。
2  池田 ゲーテは、たしかに文化の低い段階と高い段階を「野蛮」と「文化」という言い方をしています。しかし、それはヨーロッパ文明のみを「文化」とし、その他を「野蛮」とするような単純なものではありません。引用のくだりでいえば「国民的憎悪」を文化の低い段階とし、「近隣の国民の幸福と悲しみを自分のことのように感ずる」境地を文化の高い段階といっているのですから、その基準は、陶冶された人間性という普遍的意味をもっています。たしかに文化は相対的であり、価値の優劣をつけるのは間違いですが、だからといって、ヒトラーやスターリンのやったようなことを認めるわけにはいきません。それに対して“ノー”というのは、人間としての普遍的感情でしょう。それに対し、よいものをよいとする普遍的感情もあるのであり、ゲーテの優れて世界市民的キャラクターにも、その感情がにじみ出ています。それはまた、民衆一人一人が身につけるべきものとして、国際化時代が進む今日、最も必要とされる精神的基盤といってよいでしょう。
 文化相対主義は、たんなる相対主義にとどまっていてはならず(もちろん、その前の段階、つまりあなたのおっしゃる「他文化から積極的に学ぼうとせずに、消極的な寛容という形」にとどまっていては、なおさらいけません。それはたんに“金持ち、ケンカせず”的な余裕にすぎず、比喩的にいえば、金が乏しくなれば吹きとんでしまうからです)、相対主義を踏まえつつ、しかもなお、人間性の普遍的な在り方を追求していかなければならないと思います。たとえば“個の尊厳”という理念は、それを内実化させるためにはどうすればよいかという課題を含めて、人類史にとって普遍的価値をもっているといってよいでしょう。そのさい、ゲーテが生き、示しているような世界市民的キャラクターは、ソクラテスのそれと並んで、私たちに、たいへん貴重なヒントを提供してくれていることは疑いのないところでしょう。
 ガルトゥング 私は、ゲーテは、強烈な国民的憎悪が社会の最底辺層に見られるということ、そして他方に民族国家への帰属意識を超越した、より国際的な意識をもつエリートたちがいるということを言っているものと解釈します。
 しかし、世界中を回って得た私の見聞から言えば、強烈で病的とすらいえる民族主義が社会の底辺層――とくに、今日、旧ユーゴスラビア連邦内のイスラム教徒をはじめセルビア人、クロアチア人のなかに現れている一種のルンペンプロレタリアート(浮浪無産階級)――に見られますし、さらには自分たちを国益の担い手と自負するエリート階層にもそれが見られます。エリートたちは底辺層の人々を戦場へ送り出し、そこで殺し合いをさせるのです。
 中間の階層には、概して、より国際的な志向性があります。彼らは世界中に提携の網目を織り巡らし、NGO(非政府機関)やTNC(多国籍企業)を創り出していきます。彼らはどこへでも旅行をして自分たちの好奇心を満足させることができ、ビジネスを通じて利潤を得ることができるような世界のほうがよいと思っています。もちろん、すべての社会階層には例外的な先見の明のある人々がおり、あなたはゲーテとソクラテスにふれられましたが、私はとくに釈迦牟尼、ソクラテスの同時代人である孔子、私の好きな日本の作家の一人・夏目漱石、そしてガンジー等を、その例に挙げたいと思います。
 私の考えでは、中間階層が拡大して、他の二つの階層(底辺層とエリート階層)を社会の両端へさらに遠く押しやることは、大きな希望をもたらすことだと思っています。私たちのいちばん大事な仕事は、非暴力的な世界のエートスを生みだす対話を奨励していくことです。あなたはこれを「二十一世紀文明と大乗仏教」のご講演でじつに見事に実践されました。ところであなたは、どのようにすればこの試みが、たんに二、三の特別な人たちのためだけでなく、何十億という私たち一般の人間のための、全世界的なエートスの一部になりうるとお考えでしょうか。
 池田 非常に重要な、また核心をついたご質問です。非暴力的な世界の実現、またそのための対話の推進といっても、その内実が普遍的であるかどうかにかかっています。とくに「宗教」とのかかわりは重要です。私は仏教者として、その人間を人間たらしめる「人間のための宗教」こそがカギを握っていると考えております。
 私のハーバードでの講演に対し、講評者の一人として当日、コメントしてくださったハービー・コックス教授も、あなたとほぼ同じような疑問を胸にいだいておられたようです。コメントの中で、世界的規模の宗教と精神の復興に希望を託しながらも、狂信、偏狭というような宗教のマイナス面を指摘し、「宗教の時代」の進展に慎重な姿勢を崩しませんでした。宗教学者としてのコックス教授のコメントは、その長きにわたる研究成果と実際的経験を踏まえたものであり、まことに真摯な発言と受けとめたしだいです。
 宗教一般に対する警戒心は私も熟知しておりますし、宗教の功罪についてもさまざまに言及してまいりました。そのうえに立って、講演の中で私は二十一世紀に果たしゆく仏教の役割の一つの柱として、「人間復権の基軸」をあげたのです。そこでは「善きもの、価値あるものを希求しゆく人間の能動的な生き方を鼓舞し、いわば、あと押しする力用」としての「宗教的なもの」の必要性を説きました。これが「人間のための宗教」の内実になるのです。ここで私が、「宗教」ではなく、デューイの概念を援用しつつ「宗教的なもの」の重要性を強調したのは、「宗教」がともすればおちいりがちな反人間的要素、すなわち宗教的権威や硬直化した宗教的ドグマが人間を強くするのではなく弱くし、賢くするどころか「悪」と「愚」の世界に引きずり込んでしまう側面に警鐘を鳴らしたかったからに他なりません。それだけに「宗教的なもの」を人類のエートスとすることは容易なことではないでしょう。コックス教授自身、私どもの運動に多大な共感を示しつつも、なおかつ「『宗教的なもの』が、世界の大多数の人に働きかける力を持つとは思われない」とコメントせざるをえなかったほど、宗教のたどってきた道には、おびただしい人柱が埋め込まれてきました。逆に言えば、そうした宗教史に纏綿している業(カルマ)ともいうべきものから脱却しない限り、二十一世紀へ向けての宗教の展望は、暗くならざるをえません。それでは宗教の未来はないと私は思っております。
 私どもが今、進めている運動は、その困難な道に挑戦するものです。それは、人間を支配し、隷属化させようとする、権威化し、ドグマ化した「宗教」に対する根源的な変革運動であり、SGI運動は日本のみならず、世界の百十五カ国へ事実上の広がりを見せております。たしかに「宗教的なもの」といい「人間のための宗教」といい、未聞の難事業でありますが、新しき時代を開くのは、民衆が担う新しい宗教改革運動だと思っております。

1
1