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日蓮大聖人・池田大作

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「原理主義」について  

「平和への選択」ヨハン・ガルトゥング(池田大作全集第104巻)

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1  池田 アメリカの未来学者アルビン・トフラーは『パワーシフト』の中で、二十一世紀を暗黒時代にもしかねない要因の一つとして、最近の宗教リバイバルの過程で目立つ、宗教的原理主義をあげています。「こうした宗教運動はそれぞれ異なり、多くの場合、互いに衝突し、過激派もあり、そうでもないものもあるが、キリスト教であれニューエイジであれ、ユダヤ教であれイスラム教であれ、すべて一つの点で結ばれている。つまり、大衆民主主義の哲学的基礎である世俗主義に対する敵意である」(徳山二郎訳、フジテレビ出版)と。
 私は、仏法者として、世俗主義に対して敵意はもちませんが、それだけでは不十分であると思っております。近代が、中世的世界観に代わる新たな世界観の時代でなく、むしろ世界観なき時代といわれるように、世俗主義からは“人間いかに生くべきか”といった問いに対する、本当の答えは出てこないと思うからです。
 とはいえ、世俗主義に敵意をいだき、世俗化のもたらしたものを全否定するような行き方は誤りであり、生産的ではありません。たとえば、世俗主義の柱の一つである合理主義に対しても、「非合理」や「反合理」の姿勢で臨むべきではなく、「超合理」「包合理」こそ正しい対応であると思います。宗教とは、社会と人間に対して、善の価値をもたらすものでなくてはならず、悪の価値をもたらしてしまえば、マルクスではありませんが、まさに「阿片」となりかねません。
 平和へのプロセスのうえで、宗教的原理主義の問題は、イデオロギーの時代の終焉ののち、民族問題と並んで最大の焦点になってくると思うのです。
 ガルトゥング イデオロギーと民族主義についての考察の多くは――世俗主義を含む――宗教にもあてはまることです。よく言われてきたことですが、根本的な問題は、それらに脱落している部分があるということです。主題のいくつかの領域には目もくらむばかりの光彩が当てられているのに、他の領域は暗い陰影の中に閉ざされたままなのです。そして、これはまず間違いのないことですが、タブーの領域、すなわちいわゆる厄介のタネとなる事柄に光が当てられることは、まったくないのです。
 このように自分たちの美点を誇示して欠点を隠すのは、何も宗教的な原理主義者に限ったことではありません。また――アメリカや西欧の人々の中にはそう主張している人もいるようですが――イスラム世界にのみ、そうした原理主義者がいるわけでもありません。
 原理主義は、なんらかのより高尚な目標の達成のために殺戮を正当化する傾向があります。この点、興味深いのは、湾岸戦争で当事者の双方がいずれもいわゆる「正義の戦争」説を唱えたことです。すなわちイスラム教徒は“ジハッド”の第四段階を根拠にし、一部のキリスト教徒は聖アウグスチヌスの教義を根拠にしたのです。キリスト教徒もイスラム教徒も、自分たちの大義の正しさを、真実、信じていました。そして、双方が殺し合いをしたわけですが、キリスト教徒のほうがより効果的な殺人兵器をもっていたのでした。
 原理主義――たとえば民族主義的あるいは宗教的な原理主義――に対処する最善の方途は、たぶん、これを非難するよりは、むしろそれに代わる別のものを示して実践することでしょう。世俗的民族主義に代わるものは、地球主義であり人間主義です。それはすなわち、明らかに私たちを互いに分断させているあらゆる境界線を超えて惑星ガイア(地球)に向けられた、そして人類全体に向けられたすべてを包み込む愛情です。私たちは、原理主義者たちを非難するのではなく、相矛盾する価値を基にした紛争よりも、共通の利益にもとづく協力を強調するような、真に全地球的な諸組織を強化しなければなりません。私たちは、原理主義者が自分たちの価値に対していだいている「真剣さ」にも気づかねばなりません。それに代わるものが、私たちの側の真剣さの欠如とか無頓着とか、自己以外のすべてへの自己中心的な無関心とかであっては、断じてなりません。問題なのは、彼らがあまりにも安易に暴力に訴えがちだということです。これに対する矯正法は、ガンジーがそうしたように、真剣さと非暴力が両立しうることを証明することです。
 さらに、もし私たちが一つの地球的文明の構築に努めようとするのであれば、原理主義者との対話はどうしても必要です。そのための努力も、あの西欧流の、一方の文明が他の諸文明に「自己」を押しつけるというものであってはなりません。それは、よく知悉していて自分には何の脅威も与えない「自己」だけでなく、自分と違っているがゆえに自分を豊かにしてくれる「他者」をも含めて、積極的に共存し交流し、愛情をもち合うというものでなければなりません。
 私たちが子どもたちを教育して、寛容の心をもつだけでなく相違を乗り越えて挑戦するなかに喜びを見いださせ、また彼らを、多様性が自己を豊かにする条件として愛でられるような世界に生きるよう準備させることができるとしたら、どうでしょうか。この種の教育をかち取って、他の諸文明について知るばかりか実際にそこから学ぶのを可能にするということは、今日の学校全般にとって、なかんずく大学にとって、すばらしい仕事となるでしょう。私たちは、原理主義も、聞き届けてくれることを、そして応えてくれることを切に求めている、ひとつの叫びであることを銘記すべきです。私たちの心を彼らに向けてあげることが必要なのです。
 池田 同じことが、民族問題についていえると思います。部族意識としての民族意識にしても、その大部分は、近代の民族国家成立の過程で、意識的に意図的に作り上げられた虚構にすぎません。しかし、あなたのおっしゃるように、また、日本のことわざに“案ずるよりも産むが易し”とあるように、そうした教育の失敗をいっているよりも、人類意識をどうもちうるかの教育に留意したほうがよいともいえるでしょう。
 私が対談集を編んだ故ノーマン・カズンズ氏も、そうした教育の必要性を力説してやまない一人でした。氏は「単にアメリカだけでなく、世界の大部分における教育の大きな失敗は、教育が人々に人類意識ではなくて、部族意識を持たせてしまったことである」(『人間の選択』松田銑訳、角川書店)と述べていました。
 ただ、そのさいに警戒しなければならないのは、社会主義陣営で行われてきた、ある種の世界市民教育の失敗です。いうまでもなく、プロレタリア国際主義というドクトリンのもとでの共産主義的人間の育成が演じた痛ましい悲劇です。レーニン夫人のクルプスカヤ女史などがイニシアチブをとった一九二〇年代のソ連ほど教育振興が声高に叫ばれた所はないと思いますが、それが、なぜあのような悲惨な結末を迎えざるをえなかったのか――ここに教育というものの持つ、ある種の怖さがあります。教育狂というある種の情熱は、方向を間違えると、つまり、人間は教育によっていかようにも作り変えることができるのだという思い上がった狂信のとりこになると、肉体的暴力以上に凶暴な力を人間の精神の上にふるいかねないのです。
 ガルトゥング 私の心に浮かぶのは、ただ今のお話に出た年代のソ連の学校や中国の幼稚園で、ピオネールたちが赤いスカーフを首に巻き、隊列を組んで並んでいる光景です。しかし同時に、右手を胸に当てて教室の一角に掲げられた国旗に忠誠を誓っているアメリカの子どもたちも、私の心に浮かびます。また、すでに共産主義が過去のものとなり、カトリックの神に祈りを捧げているポーランドの子どもたちも、瞼に浮かびます。私はまた、さほど遠い昔でない日本の歴史の、本当に悪かった時代のことも思い起こします。
 言い換えれば、なにも共産主義者だけが思想的教化(インドクトリネーション)を独占していたわけではなく、また、お互いを豊かにするためのすばらしい手段である「対話」を恐れていたのも、彼らだけではないのです。
 おっしゃるとおり、たしかに教育者は、肉体的暴力よりもはるかにひどい心理的ダメージを与えかねません。たとえば彼が暴力を賛美する場合がそうですが、それだけではありません。非暴力が数々の恐ろしい出来事をなくすのに役立ちうることを指摘しない場合も、同様です。恐ろしい出来事とは、たとえば植民地主義、冷戦、アメリカ南部の人種差別、パレスチナ人を犠牲にしたシオニストの入植、ボーア人による南アフリカ黒人を犠牲にした植民地化等々のことです。思想的な教化は、人間の心を狭めさせ、暴力を不可避なものとして受け入れるように人間を慣らしてしまうのです。

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