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民族主義の炎  

「平和への選択」ヨハン・ガルトゥング(池田大作全集第104巻)

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1  池田 冷戦の解消は、イデオロギーにもとづく人類絶滅の危機をひとまず遠ざけましたが、イデオロギーの重しがとれた下から噴出してきたのが、民族主義という問題です。湾岸戦争は、アラブ民族主義のエネルギーが世界を震撼させた事件であり、冷戦後の世界秩序の構築は一筋縄ではいかない困難さをかかえていることを、痛感させました。
 そもそも、ソ連体制の揺らぎにともなって現れてきたものが、分離・独立を求める民族の決起であったことに、ポスト・イデオロギーの時代は民族問題の時代になることが象徴されていたというべきでしょう。
 「民族」は人間のアイデンティティーの根幹にかかわるものであるだけに、強い力を持っています。しかし、問題は、民族主義は偏狭なドグマに化す時、平和にとっての脅威となるということです。偏狭な民族主義者は秩序破壊者として現れる恐れがあるからです。
 ここ数年の激動は、民族はイデオロギーなどよりはるかに根強い、というド・ゴールの言葉をはからずも証明してしまいました。たしかに根強い魔性のようなものがひそんでいるようですが、私は、ここでも教育ということを力説しておきたいと思います。なんといっても、民族性の基盤をなすものは文化であり、文化とは、人間にとって、ある意味で後天的なものであるからです。後天的なものである限り、難題ではありますが、教育によって対応できないものではないというのが、私の信念です。事実、異民族同士が必ずしも敵対し、支配・被支配関係にならず、不完全な形ながらも、共存のシステムを作り出している事例を歴史的に検証することは、決して不可能ではありません。
 人類が、新たな世界秩序の構築の前に立ちはだかる民族主義の問題をどう乗り越えていくべきかは、重要な課題です。
 ガルトゥング あるイデオロギーがどのようなものであるかは、そのイデオロギーが言及していないものを基準にすれば、いちばんよく理解できます。たとえば自由主義は“搾取”について、マルクス主義は“自由”について、寡黙です。この両者は、互いに他方が寡黙な面について雄弁であり、双方ともに人間の内面についてはきわめて寡黙です。
 一つの典型的なイデオロギーである民族主義は、文化的・人種的に定義づけた「自己」と「他者」という観点から、世界を「善」と「悪」とに立て分けて解釈します。民族主義が「自己」の悪い点に沈黙し「他者」の良い点に沈黙している度合いは“雄弁”といってよいほどです。科学は、こうしたたぐいの“目隠し”を取り除くための一方法であるかもしれません。もしそうであるならば、科学者は、あるいはだれであれそうした目隠しを取り除こうとする者は、人気を得ようなどという期待をいだいてはいけません。なかでも、自国民の人間像や自国のエリートたちのイデオロギーをありのまま明るみに出そうとする場合には、ことにそうです。
 冷戦は――私はこれをむしろ「冷凍平和」と呼ぶほうを好むのですが――米ソの政治・軍事同盟への忠誠という名目のもとに、各地域の民族主義をご法度にし、その熱を抑え込んでいました。社会主義国がいだいた幻想は、階級こそが唯一の重要な断層であるということでした。冷戦が終わった時点で、東側は、それまでより抑圧的であったことと、より数多くの異民族をかかえていたことから、より大きな民族主義の爆発をみることになりました。しかし、それ以外の諸民族――たとえばスコットランド人、アイルランド人、ブルターニュ人、コルシカ島人、カタロニア人、それにバスク人たち――も、東欧以外の地域で強力に自己主張をしています。事実、つい最近まで、ヨーロッパでの最も激しい紛争地域は、バルカン半島ではなく、カトリックとプロテスタントの断層が最も強烈で、激戦地とすらいえる北アイルランドでした。
 民族主義などは取るに足らないものと想定し、そう宣言した諸社会では、階級なき社会という思想を奨励しました。今日、階級などは問題でないと想定している諸社会では、民族の分離政策が奨励されています。この両者はやがていずれも同じように失望を味わうことになるでしょう。なぜなら階級と民族主義はいずれも、男女両性とか世代とか、自然との関係とか、人種とか領土とかと同様に、無視しえない問題であるからです。それらの要因はすべて歴史の陰にあって、いつも舞台裏で出番を待っているのです。
 階級のほうが重視されるのか民族主義のほうが重視されるのかは、さまざまな要素によって決まります。この両者のうち、無視されていたほうがようやくスポットライトをあびるようになると、それまで無視されていたがゆえにかえってその重要度を増す、という傾向があります。そして、いずれの一方も、長く注目されすぎると、その緊要度が薄れてしまいます。ことに、さんざん思慮をめぐらせた挙句にようやく解決が目前にきたようだとか、あるいは結局はまったく解決の見込みがなさそうだといった場合に、それがあてはまります。そのよい例が北欧諸国であり、彼らは数世紀にわたってお互いに戦争と支配を繰り返した挙句、ようやく一種の連合体である「北欧理事会」ができて、積極的な共存が可能となったのです。今日、これら諸国の国境線は平和状態にあります。しかしこれとて平和を当然視し、平和への努力をおろそかにしようものなら、その平和な国境線が未来永劫に確保できる保証はありません。
 民族主義のほうが重要なのか階級のほうが重要なのかは、その当事者いかんによって決まります。きわめて民族主義的な国の上流階級を代表するド・ゴールが、階級についてはほとんど気にかけなかったというのは、少しも驚くべきことではありません。彼は必要なものはすべて持っていました。しかし、彼は飽くなき民族主義者だったのです。
 あなたがおっしゃるとおり、アラブ民族主義というものはたしかに存在しており、おそらくいつの日か「アラブ連合」といったものが創られるでしょう。マーストリヒト条約が批准された現在、民族国家を超えた「欧州連合」もすでに存在しています。この連合体はヨーロッパの超民族主義(スーパー・ナショナリズム)、すなわちヨーロッパ超国家(スーパー・ステイト)の民族主義を基盤としています。今世紀末までには、この連合体はおそらく核兵器をもつ独自の軍隊で完全装備されることでしょう。たしかに「欧州連合」は、ドイツとフランスの戦争をきわめてあり得ないものにしています。しかし、フランスとドイツが組んで行う戦争の可能性がなくなるわけではありません。これから生まれようとするこの仏独連合軍は、おそらく未来の「ヨーロッパ軍」の中核となるでしょう。ベルギーはすでにこれに参加しましたし、スペインもまもなく参加するでしょう。
 ヨーロッパ民族主義の傲慢は、たとえばジャック・デュロセルの『ヨーロッパ――その諸民族の歴史』(l’Europe:Histoire de ses Peuples,Perrin,1990)(邦題仮訳)といった書物の中にすでに姿を現しています。この書物は、異端審問、魔女狩り、植民地主義、奴隷制度等の恐ろしい事実を矮小化して描き、ヨーロッパの歴史は最終目標である「欧州連合」へといたる長い遠征である、と解釈しようとしています。この「欧州連合」に対処すべき最良の方法は、この連合体に不参加のままでいるか、あるいは一九九二年六月にデンマークがしたように、反対票を投じるかのいずれかです。世界は、もはやこれ以上の超大国(スーパー・パワー)は必要としていません。世界に必要なのは、共生的かつ公正に結び合う、より小さな多種多様の単位なのです。
 池田 「自己」の悪い点に沈黙し「他者」の良い点に沈黙している度合いは“雄弁”といってよいほど――そういう悪弊と最も遠かったのが、ガンジーの生き方です。他人の過ちは凹レンズで、自分の過ちは凸レンズで見よ、というのが、彼の一貫した信条であったからです。なかなかできないことですが、こんなところにも、謙虚な強靭さともいうべきガンジーの面目が躍如としています。
 あらゆる狂信主義はちょうどその逆であって、他人の過ち、悪い点は凸レンズで拡大し、誇張し、しばしばフレーム・アップ(でっち上げ)をまじえながら宣伝しますが、自分たちの過ち、悪い点には凹レンズを当て、致命的なものであっても、豆粒ほどにも小さくし、見まい見まいと無視してしまうのを常としています。
 問題は、どうしたらそのような悪弊から逃れることができるかですが、私は、やはり教育――たんに学校教育に限らず、釈尊やソクラテスを人類の“教師”と呼ぶ意味での広義の教育――に、カギがあると思っています。
 ヨーロッパにファシズムの暗雲がたれこめるなか、イギリスの詩人T・S・エリオットは、ラジオを通じて訴えました。「世俗的な改革家や革命家の運命が一段と安易のように私におもわれる一つの理由はこういうことなのです――主としてこれらの人々は悪を自分の外部にあるものと考えているということです。この場合、悪はまったく非個性的と考えられるので、機構を改革する以外に手はないということになります。あるいは悪が人間に具体化されているとしても、それはいつも他人の中に具体化されるのです――階級とか民族とか政治家とか銀行家とか武器製造業者とかいった人々で、決して自分の中ではありません」(『エリオット全集』第五巻、中橋一夫訳、中央公論社)と。
 こうした自省力を欠き“汝自身”から目をそらそうというのがイデオロギーであるとするならば、二十世紀に出現した大衆社会とは、空前の、イデオロギーが猖獗を極めた時代でした。オルテガ・イ・ガセットが「外部からのいっさいの示唆に対して自己を閉ざしてしまい、他人の言葉に耳を貸さず、自分の見解になんら疑問を抱こうとせず、また自分以外の人の存在を考慮に入れようとしない」「慢心しきったお坊ちゃん」と、シニカルに描き出した人間像は、残念ながらイデオロギーの毒草が、養分を吸い上げる土壌でした。
 私たちは、教育の利剣でもって、この悪弊を断ち切っていかねばなりません。宗教のもつ優れて教育的な効果も、こうした点に発揮されるべきなのです。
 先にも述べたとおり仏教では、生命の基本的なカテゴリーを十種類に分けますが、低いほうの地獄界、餓鬼界、畜生界、修羅界、人界、天界の六つのカテゴリーが、いわゆる日常性のなかに埋没している状態であるのに対し、それを一歩脱し、より高い自己へと自己変革していく段階を声聞界、縁覚界ととらえ、それに“反省的自我”という性格を与えています。こうした“反省”“自省”の鍛えを通り抜けない限り、人間は自己中心の幼児的段階から脱皮することはできないのであり、まして、他人のあやまりを凹レンズで、自分のあやまりを凸レンズで見るなどということは、望みうべくもありません。
 民族主義の病理から人間がまぬかれるためには、そのような教育的効果を通して、人間が“自分”と“他人”とを分別できる“自省”と“自制”の力を養っていく以外になく、また、あらゆる枝葉末節を排し、そこにのみ、民族主義に正しく対応していくための王道があります。
 ガルトゥング ハンガリー生まれの優れたイギリス人作家アーサー・ケストラーは、転向反共作家であり、『失墜した神』(The*God*That*Failed)(邦題仮訳)の六人の共著者の一人です。彼は有名なエッセイ「行者と人民委員」(“The*Yogi*and*the*Commissar”)(邦題仮訳)の中で、自分がそれまでの思想を捨てた理由を分析していますが、そこでは、人民委員は人間とあらゆる生物を含む全世界を、なんらかの社会改造がなされるかぎり思いどおりに動く、一つの機械と見なしています。いうまでもなく、そこでは人民委員自身がこの機械の技師であり操縦者です。他方、行者にとっては、こうした人民委員の解釈はすべて幻想でしかありません。T・S・エリオットやオルテガ・イ・ガセットが描き出したように、望ましい結果を得る道は唯一つ、自己の内省と心の内なる対話がもたらす自己改善という方途以外にありません。
 私たちは、ここでもまた“中道”を進むことはできないものでしょうか。社会構造に関する諸問題のよき解決に到達すべく、内なる対話と外なる対話を結び合わせることはできないものでしょうか。ここで私たちは、二者択一の選択をするのではなく、その両者の関係を、より高次元の人格的・社会的変容へと意識的に進めるべき、一つの弁証法と見なさなければなりません。

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