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日蓮大聖人・池田大作

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人権を支える哲学  

「平和への選択」ヨハン・ガルトゥング(池田大作全集第104巻)

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1  池田 「第三世代の人権」には「発展の権利」も含まれるわけですが、これは、国連総会で採択された「発展の権利に関する宣言」(一九八六年)でも強調されています。
 宣言のなかでとくに重要なのは、国家や集団ではなく、「人間個人が発展の権利の中心的な主体である」と、明確に規定されていることです。
 博士もかつて、「発展」とは「人間性の発展」を意味するとして、物の生産・分配などの社会構造の変革は、人間をいかに発展・向上させるかの“手段”にすぎないことを示されました。また「自己実現の機会が奪われていないこと、それが人権の基本概念であり、それが平和なのだ」とも述べておられます。まさに「人間性の開花」「人間内面の開発」こそ「人権」の眼目です。そこにしか「幸福」もありません。
 しかし、「人権」の内実を獲得するためには、制度の改革や意識啓発だけでは限界があり、そこにおのずと、「人間性を深く掘り下げ、限りなく発展させる哲学」が要求される必然性があります。
 では、何がこの「人権を支える哲学」となり得るのでしょうか。私は「抜苦」(苦しみを抜く)、「同苦」(苦しみを同じくする)を根本とする仏教の慈悲の精神は、この点に大きな貢献をなしうると信じています。
 ガルトゥング 人権を正当化する方法は、おおまかに言って三つあります。
 第一の方法は、権威を楯に取って正当化することです。つまり「人権は正当なものである。なぜなら、世界人権宣言が国連総会で採択されているし、またそもそも人権の淵源はアメリカ独立戦争とフランス革命の伝統に由来するからである」という考え方です。しかし、私の見るところ、この見解は知的にも道義的にも満足のいくものではありません。その理由はいくつかありますが、とりわけこの見解が西洋人の偏見を正当化しているからです。この見解の主唱者は、いずれも西洋人の男性であり、たとえば世界人権宣言の主要な起草者であるフランスの法律家ルネ・カサンなどですが、彼らはすでに全員が故人になっています。
 第二の方法は、人権と第一原理――たとえば人間は生来“自由”“平等”であり、“理性”を備えた存在であるとする思想――から演繹的に正当化することです。このアプローチの難点は、まずその第一原理自体を正当化し直さなければならないということです。今、挙げた諸原理は、西洋史上のある特定時点の、つまり啓蒙主義時代の、刻印を帯しており、したがって人権を普遍的なものとして捉えるためには、その点が問題となります。
 第三の方法は、人権は、人間と人間以外の自然が要求するもの、すなわち「生命」の法理に機能的にかかわっている、という考え方によって正当化しようとするものです。これが拙著『もう一つの基調による人権』(Human Rights in Another Key, Cambridge,Polity Press,1994)(邦題仮訳)で、私が試みているアプローチです。これに関連して、二つの基本的な問題が生じます。その一つは、多少なりとも普遍的な人間の要求とは何を指すのかということであり、もう一つは、人権の実施がそうした要求を満たすということを、経験的事実にもとづいてどのように立証するかということです。
 この第三の正当化の方法は、他の二つと比べると、まだ根拠がしっかりしています。初めの二つの方法は、“人権とは時と所を問わずつねに不変のものである”という錯覚を起こさせる恐れがあります。しかし、この第三のアプローチにも問題が多いため、その人権の目録は絶えず修正されなければなりません。私が良いと思うのは、じつはその点なのです。まさにアインシュタインが指摘したように、倫理上の原則は経験的事実によって検討され、その検証の結果に応じて修正されなければなりません。
 このアプローチに沿っていけばどのようなところに行き着くのか、いくつかの例を見てみましょう。まず最初に、“生存する必要”について検討してみれば、私たちは平和こそが人間であるための第一の条件であることが、ただちにわかります。次に、福祉とその内容を検討してみると、社会構造としては、人間の基本的要求を満たす生産を優先しなければならない構造が大事なことがわかってきます。土地について言えば、人間にとっての基本的な要求――たとえば食用の“豆”の需要――が満たされることが確実になるまでは、たとえ一片の土地たりともコーヒー“豆”の生産者や投機家に売り渡すべきではありません。また、人間にとって不可欠な空気と水が不足したり汚染されることのない、きれいな環境作りを優先しなければなりません。この種の権利が、物質的・身体的な要求に応えることになります。
 次に、アイデンティティーと自由を求める、人間の精神の要求というものがあります。私は、マズローの仮説“欲求の階層”を認めておりませんが、同じく精神的な価値を優先順位の下位に置くことにも同意できません。そうした精神的価値を求める権利を保証するために、社会構造に必要とされるものはいったい何でしょうか。私は、現在の単位よりも小型で、より綿密に織りなされた社会単位が、そうした権利を保証するうえできわめて役に立つと考えています。
 それはある意味で、カレル・ヴァサクの「第一―第三世代の要求」の順位を逆にしたものです。つまり、まず第一に平和の必要性――ヴァサクの「第三世代の要求」――が最優先されます。次に開発と環境――彼の「第二世代の要求」――に移りますが、これによって物品の公平な分配が保証されます。その後にくるのが、私の言う非物質的要求――すなわちヴァサクの「第一世代の要求」――であり、その中心となるのは、何であれ自分が個人として選んだものと融合して一体となる権利です。これは、信仰の自由をいくぶんか幅ひろくした体系と言えます。そして、最後に私たちは、最も基本的な自由、すなわち移動の権利、感動する自由、表現の自由等に到達します。これらは重要なものであって、苦労をして勝ち取った権利であり、決して放棄できるものではありません。
 つまり人権についての私の論評の骨子は、既得の権利の「品目」を削ることではなく、逆に増やすことであり、ヴァサクの「第三世代の人権」にずっと高い優先順位を与えることなのです。さらに、私も人権は普遍的なものであるべきだと信じています。しかし、それにはまず十分な対話がなされ、他文明の異なる諸価値が理解されるようになり、そしてそれらが――ある程度まで――西洋による貢献と同様に重要な貢献として認められるようになって初めて、それは可能となることです。
 さて、これまで私は人間の要求という面についてだけ述べてきました。しかし、人間以外の自然界にも基本的な必要があります。ここで私の言う自然界とは、ただ人間を“持続的”に成長させ発展させるためにのみ優遇される、召使いか奴隷のような存在ではありません。もし私たちが、真に自然界のために自然界を大切に思うのであれば、「環境」の地位を引き上げるという難事を遂行しなければなりません。それは、自然界が無理強いされなくても私たちに与えてくれるものだけを私たちが受け取ることによって、可能となるのです。これが仏教的な規範です。
 人間は、人間以外のどんな種よりも強大な力をもっています。しかし力がある者は、まさにそれゆえに責任感を持たなければならず、決して傲慢になったり、邪悪になってはなりません。ところが、これまで人間は、主として自然界を奴隷にしていました。たとえば、伝染病との闘いでは、人間は徐々に病原体を攻撃し、なかには絶滅させたものもあります。もっともヨーロッパでペストが大流行した一三四〇年代には、その逆で、伝染病が人間をすんでのところで絶滅させるところでしたが――。
 総合的な人権哲学ということになれば、仏教は、他のいかなる思想よりもそれに近いものです。しかし、西洋人のなかでこの哲学を理解することができるのは、自分たちの伝統の知的な落とし穴から抜け出すことができる人たちだけです。仏教は、種を超え、性を超え、世代を超え、階級を超え、人種を超え、民族を超え、国家を超え、といったぐあいに、人間社会の構造に存在する七つの断層線をすべて超越しており、このため普遍的な人権思想となりうる大きな可能性を秘めています。仏教は「生命の鎖」に焦点を当てていることからも、世代を超えた思想であることが明らかです。女性は、この「鎖」のなかで主導的な立場を占めており、「鎖」それ自体と同様、仏教にとっては根元的な存在です(仏教典も他の聖典同様、主として男性が書いたものであるため、この点については明示されておりません)。慈悲(カルナ)の精神に満ちた仏教の社会哲学のすべてが、他のあらゆる断層線を埋めてくれるのです。
 池田 博士が仏教に対して深い理解と高い評価をお持ちであることを感じます。また、西洋人である博士の“内省”的な人権哲学を感銘しつつうかがいました。博士は謙虚に「(人権概念は)西洋人の偏見を正当化するのに役立っている」「西洋史上ある特定時点の刻印を帯し」たものと述べられますが、私はやはり人権は普遍的な価値と言ってよいと考えています。
 西洋近代は暴虐を極めたインカ帝国征服や悪名高き奴隷貿易などに象徴されるように、たしかに数々の罪過を犯してきました。と同時に、重ねて申し上げますが、歴史家のA・シュレジンガーも言うように、それ自体の矯正手段を作りだした唯一の文明という視点も忘れてはならないでしょう。その精華といえる「世界人権宣言」は「すべての人間は、生まれながらにして自由であり、かつ、尊厳と権利とについて平等である」(第一条)と高らかに謳い、女性、子ども、難民、障害者、外国人など、さまざまな立場での不当な差別を指摘し、これを明確に否定しています。
 すべての人権侵害を追放し、人間としての尊厳を取り戻すために大事なことは、「権利」は「正義」と結びつき、「正義」と一致して初めて「権利」となるということでしょう。先に挙げた「世界人権宣言」第一条は、後半で、人間は理性と良心により、「互いに同胞の精神をもって行動しなければならない」としています。また「日本国憲法」でも「憲法が国民に保障する自由及び権利」について「常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ」等と「国民の義務」を謳っています。「人権感覚」とは、堂々とひるまずに、正当な「権利」を主張できる強さとともに、「何のために、どう権利を行使するか」という「内的な規範」「正義の規範」をもっていることではないでしょうか。
 シモーヌ・ヴェイユは「宗教を離れたヒューマニズムは悪である」「義務の理念は権利の理念に優先する」と喝破し、ウォルト・ホイットマンは「民主主義の真髄には、結局のところ宗教的要素がある」「新しい勢力によって、いままで以上に深遠で、ゆるやかで、崇高な信仰が復活しなければならぬ」と言いました。ヒューマニズム、民主主義を内実化し、人権尊重の社会を築くものは、人々に「内的な規範」を与えゆく人間のための宗教であり、生き生きとした信仰である――これが先人たちの一つの洞察であると思います。
 私は、小説『人間革命』(第十一巻“裁判”の章)に、こう記しました。「日蓮大聖人の仏法は、権威、権力のための宗教でも、宗教のための宗教でも断じてない。また、一民族や一国家のための宗教でもない。まさに人間のため、人類のため、人権のための宗教なのだ」。
 私どもSGI(創価学会インタナショナル)の運動は、人間の尊厳と自由と平等とを勝ち取る、人権の闘争であり、その運動の原点は“すべての民衆に幸福への道を開かせよう”との日蓮大聖人の精神、法華経の精神です。ここにこそ「人権の時代」を開く「真のヒューマニズム」が脈打っていると私は確信しております。
 ガルトゥング 人権を“普遍的な価値”とされる池田会長のお考えは、一九四八年の「世界人権宣言」に謳われたよりも深遠で幅ひろい概念です。私もあなたと同じ考えであり、今まさに仏教が人間の諸権利に関する討議に全面的に参入すべき時がきていると信じております。私は今後、よりいっそう総合的な内容をもつ“世界人権宣言”が続々と現れることを期待しております。人権の重要性を認識し宣言するというプロセスは、持続的なものです。そこには、最終文書などといったものはありえません。しかし、よりよい宣言へ向けたプロセスの一環としての、よりよき対話はあり得るのです。

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