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日蓮大聖人・池田大作

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合理主義の傲り  

「平和への選択」ヨハン・ガルトゥング(池田大作全集第104巻)

前後
1  池田 社会主義の社会を覆っていた暴力性の淵源が、理論や科学的知識への過信にあるということを最も鋭く見破っていたのは、おそらくチェコのハベル大統領であると思われます。私もお会いして(一九九二年四月)、さすが優れた劇作家でもある大統領の文人政治家としての資質に感銘を深くしましたが、それだけに、人間が理論や知識を使うつもりでいて、その実、知らずしらずのうちに人間が理論や知識に使われているという内面のパラドックスについては、ことのほか敏感なのでしょう。
 理論や知識を過信することから生ずるファナティシチズム(狂信)やドグマティズム(独善)が、人間をどれだけ非寛容な傲慢さに追いやるか――ハベル大統領の語り口は謙虚です。
 「生命というものは――おそらくこれからもずっと――生命の科学的知識のたんなる図解を超えたものである」
 「科学は人間を原子エネルギーの発見に到達させることはできるが、原子爆弾で人々が互いに根絶しあわないという保証はもうできないのである」
 こうした優れた知見は、ガンジーの「合理主義者はあっぱれである。しかし、合理主義が全能を主張するときには、ぞっとする化物となる」(『《ガンジー語録》抵抗するな・屈服するな』古賀勝郎訳、朝日新聞社)との言葉に、まっすぐに通じていくものです。ゴルバチョフ氏と同じく、ハベル大統領のようなリーダーの存在は、生みの苦しみにあえいでいる旧東欧諸国にとっても、また“対岸の火事”視していてはならない私たちにとっても、大きな救いといえます。
 ガルトゥング 絶対的なものはただ一つ、生命それ自体のみであるといえましょう。そして、絶対的な視点というものも一つしかありません。それは「ドゥッカ」(苦)・「スッカ」(楽)という次元です。これは仏教の所説ですが、同様にシュヴァイツァーもガンジーも皆このことを指摘しており、消極的な選択としては苦しみを少なくし、積極的な選択としては生命の高揚に努めるべきであると述べています。
 おっしゃるとおり、物事をつねに哲学的な視点で捉えることは大事なことです。つまり資本主義か社会主義かという問題、経済成長と階級なき社会、国営か民営かの問題、そして人権と民主主義の問題ですら絶対的なものではなく、一切を「生命の法」に照らして絶えず再検討すべきなのです。
 抽象概念を理想化し、それをもって絶対的価値とするのは、そのこと自体がすでに暴力――文化的暴力――なのであり、これが直接的暴力と構造的暴力の二者を引き起こすのです。なぜなら、この二者のいずれであれ、それを正当化するのが文化的暴力であるからです。西洋的思考法は理性(ratio´)に焦点を合わせます。そして男性の思考法は、公理的信仰体系に焦点を合わせます。したがって、キャロル・ギリガンが指摘するように、私たちは西洋人の男性を疑いの眼で見るべきでしょう。彼らは、民主主義・人権・資本主義・社会主義等々の抽象概念のために人を殺すことをなんとも思わないのです。私自身も西洋人の男性ですので、これについては時折たいへん不安な気持ちに駆られることがあります。
 科学的知識に関しては、私の立場は妥協的なものです。かりに、科学的探究の――そして「生命」それ自体の――唯一の目的は「生命」(の状態)を高めることであると想定してみましょう。さらに、私たちには、その目的を達成するための仮説となるべきもの――たとえば、人権とか民主主義等――も備わっていると想定してみましょう。しかし、私個人は、いかなる仮説もすべて先験的(ア・プリオリ)に正しいものであると宣言して、そのうえでそれがあたかも万人に通じる仮説であるかのように全世界を実験台にして試してみる、といったようなことは決してしないでしょう。
 かりに平和が健康に相当し、暴力が病気に相当すると考えてみると、医学と平和学には多くの共通点があり、一つの啓発的な比較例ができあがります。ある外科医が新しい手術法を考えだしたと想定してみましょう。その場合、私が非常な危惧をおぼえるのは、もし(コンピューターによって)彼の手術用のメスが動くと同時に世界中の手術用メスもすべて動くようにプログラムされているとすれば、彼の執刀に合わせて、世界中いたるところの手術室で、まったく同じ手術が一斉に行われることになる、といった状況に対してです。
 そしてまさにこれが、ソ連の政治家たちのやり方だったのです。いや、彼らに限らず一般に政治家たちは、外科医たちに比べて経験面・理論面での裏づけを格段に欠いた状態で、絶えず大々的な実験を行っています。もし彼らがもっと謙虚な態度でありさえすれば、こうした実験も小規模に抑えられるはずなのです。また実験を行う者は、高度に陶冶された責任感――つまりその実験をまず自分自身に試してみるだけの責任感――を持ってしかるべきでしょう。政治家たちが、どこそこの社会的集団や国家にあれこれの施策を勧めているような時には、彼らに次の質問をぶつけてみるべきでしょう。「あなたは、その施策をご自分の国に試してみたいと思いますか。もし自分がその“薬”を飲むのがいやなら、なぜそれを他の人々に“処方”するのですか」と。私は、人間は間違うこともあるということに絶えず留意していくよう勧めていますが、だからといって私自身は、演繹的・帰納的な思考法を放棄するものではありません。
 池田 理論や知識というものは、生命や現実を表象する部分観でありながら、全体観を僣称し、人々の世界観を歪めてきたのが、総じて人類の歴史です。こうした傾向は『聖書』の「太初にロゴスありき、……ロゴスは神なりき」との有名な言葉が語るように、キリスト教文明における方が顕著であったのは、博士のおっしゃるとおりです。
 これに対し、理論や知識以前に、生々躍動しゆく生命や現実を言葉によって固定化してしまうことに極度の警戒心をもっていたのが、東洋哲学、なかでも大乗仏教の歴史です。この傾向は、釈尊以来、一貫しておりますが、その代表格に位置しているのが、龍樹です。現実を凝視しようとする彼の鋭い眼は、言語の虚構性を暴きに暴いて、時には言語否定にまでいたらんとするかのような激しさを見せます。『中論』冒頭の有名な“八不中道”の偈は、それを象徴しております。「滅しもせず、生じもせず、断絶もせず、恒常でもなく、単一でもなく、複数でもなく、来りもせず、去りもしない依存性(縁起)は、ことばの虚構を超越し、至福なるものであるとブッダは説いた。その説法者の中の最上なる人を私は礼拝する」。
 人間が生きていくうえで、言葉を使用するということは不可欠の条件ですが、にもかかわらず、言葉にはつねに虚構性がつきまとう、言語によって固定される実在のような確たるものは何もない――こうした逆説的な事情を最もよく知っていた人が、大乗仏教の諸師でした。したがって、言葉や抽象概念に絶対的価値を与えることから生ずる狂信や暴力からは、仏教は最も縁遠い存在でした。
 一切を「生命の法に照らして再検討」すべきだというのは、すばらしいご提案であり、世界観の革命です。仏法には、「妙」とは「蘇生」の義とありますが、「生命の法」に照らして再検討することが大切です。部分観は部分観なりの真実を含んでおり、「生命の法」という全体観のなかで正しい位置を与えられた時に、それは蘇生してきます。その再検討作業がなされずに、部分観が全体観を僣称した時に、人類史のあらゆる悪や不幸がもたらされてしまったのです。
 最近は、ヨーロッパでも、ポスト・モダンの流れのなかで、いわゆる“ロゴス中心主義”や合理主義に対する痛切な反省が起こってきているようです。それにともない、仏教に関する関心もますます高まりを見せてくるでしょう。そして私は、そうした潮流が、世界平和への大きな水脈となっていくであろうことを、信じてやみません。
 ガルトゥング そうした現れの一つとして仏教への関心がますます高まっているという現実は、まさにおっしゃるように世界平和への多大な貢献となることでしょう。そうした関心の高まりが別の形で現れたのが、ソフトなタイプのキリスト教であり、たとえばアッシジの聖フランチェスコの教団や、「フレンド会」とも呼ばれるクエーカー教徒であるともいえましょう。
 いうまでもなく、仏教への関心が高まっているのは勇気づけられることです。しかし、「冷戦」を終結させた非暴力革命は、ガンジーの著作など読むはずもなかった人々によってなしとげられました。彼らになんらかの、より深遠なものが力を与えていたのであり、彼らの政治、文化のどこかが変革していたのです。一九五六年のハンガリー動乱の場合とは異なり、平和運動だけでなく、反体制運動も非暴力的な闘争を展開したのでした。仏教は世界の精神文化を変革することができるでしょう。しかし、それができるのは仏教だけではありません。さらに数多くの意見が寄せられ、たくさんの対話がなされることを期待したいと思います。

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